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ハチドリ 第三章

ハチドリ

 凜はふと目を覚ます。自室のベッドの上だ。
 時計を見ると、十一時。外は明るい。
 とっさに、仕事! と焦るが、今日が土曜日だったことを思い出す。
 胸を撫で下ろす。それと同時に昨日起こった事件の数々を思い出す。
 昨日は賀久井リゾートに往訪して、理不尽な仕様変更を言い渡され、侮辱的な言葉を言われ、会社に戻ったら怪文書騒ぎで、そして、清瀬に告白された。
 ベッドの上に体操座りをし、掛け布団に顔を埋める。これで、よかったんだ。左の手首を撫でた。
 
 スマートフォンはミュートのままだ。案の定、母、朝野梨津子(りつこ)から狂ったように着信があった。
 返さないと家に来られるかもしれない。
 そんな懸念から、コールバックすると、ワンコールで母が出た。
「凜ちゃん! 良かった! 良かった! 連絡がつかないから何かあったのかと思って、お母さん、これからそっち行こうかと思っていたところだったの!」
 凜の予想通りでげっそりとする。
「ごめんね、昨日は定時で帰ってたんだけど、疲れてそのまま寝ちゃった」
「そんな会社、凜ちゃんには似合わないわよ! やっぱり転職を……」
「ごめんね、お母さん。今もちょっと頭痛いから、また連絡する」
 そう言って、強制的に電話を終えた。
 大きくため息をつく。
 凜はノロノロとベッドを出ると、ベランダに続く窓を開ける。
 憎らしいほどの快晴だ。昨日と違って、暑さが落ち着き、過ごしやすい。街路樹の緑も生命力溢れる夏の濃い緑からややくすんできたように見える。秋が近づいてきた。
 とりあえず食パンをブラックコーヒーで胃に流し込もうとする。
 テレビをつけてぼーっとしてみようとするものの、昨日の社内の光景が頭の中をぐるぐると回る。パンは半分も食べられず、もったいないが捨てた。
 
 凜はいつもの半分以下の時間で簡単に化粧をする。
 オーバーサイズのベージュのプルオーバーパーカーを着て、スキニーデニムを履く。髪はヘアゴムで雑にひとつにまとめた。
 コンビニでも行くような格好だったが、凜の目的地はオフィスだった。
 どうしても、昨日できなかった業務のことが頭を離れなかった。
 
 凜はカードキーでオフィスのロックを開け、中に入る。ここにスニーカーで踏み入れたのは初めてかもしれない、と足元を見て思う。
 ふと、人影を見つけてびくりとする。休日出勤については、茅場が厳しく禁じている。カードキーの履歴に残るので、休日出勤はすぐにバレて、こっぴどく叱られる、らしい。凜はその光景を見たことがなかったが、三田から言い含められていた。
 人影は、清瀬だった。
「清瀬さん……」
「あれ、朝野さん。今日は雰囲気が違いますね」
 凜は少し気まずく思うのに対し、清瀬は何事もなかったかのように微笑む。光がたっぷりと入ったオフィスは明るく、昨日の混乱が嘘のようだ。清瀬のウェーブした髪が陽に透ける。
 あまりにも清瀬がいつもどおりなので、凜は安心する。あんな事件があったあとなのに。おまけに、凜は清瀬の想いに応えられなかったのに。胸の奥がきゅうと締め付けられる。
「清瀬さんは仕事ですか? 私、教えてなかったので申し訳ないのですが、この会社、休日出勤厳禁ですよ」
 自席にキャンバス地のトートバッグを置きながら、凜は言う。PCの電源を入れる。
「知っていますよ。三田さんが教えてくれました。でも、茅場さんや土浦さんはけっこう出てきているので、説得力ないですよね」
「え! そうなんですか⁉」
 凜は思い切り振り向く。
「そうですよ。だから僕、三田さんに聞いたときびっくりしちゃって。自分たちは仕事しているくせにー、って思ったんですけど、社員のワークライフバランスを思ってのことですからね。あのふたりが設定した規則なら、ある意味、納得しました」
 茅場の愛弟子たる清瀬は、下手をしたら自分よりもこの会社について詳しいのではないか、と凜は思い至る。そうなると、凜が清瀬のサポートにつけられたことは、あくまでも表面的な取り繕いであって、あまり意味のないことということになる。凜は、少し虚しくなる。
「それで、朝野さんは、休日出勤厳禁の会社に休日出勤ですか?」
 清瀬は茶化すように言う。本当にいつもと変わらない。あの顧客の理不尽な要求も、怪文書も、凜に告白してふられたことさえ、何もなかったように見える。
 もしかしたら、清瀬はそこまで自分に本気ではなかったのかもしれない。昨日はいろいろなことがありすぎて、本人もテンション任せと言っていたし、思ってもいないことを口走ってしまったのかもしれない。
 自分でふっておきながら、想いを自覚した身としては、それはそれでつらいことだった。我ながら勝手だな、と凜は思う。
「家にいても、どうしても仕事のことが気になって……。先方からの変更後の依頼がこないとあまりできることはないのですが、再スケジューリングと、クリエイターのアサイン状態を確認して見積もりの参考資料を作るくらいならできるかな、って」
「考えることは、皆、同じですね。さっきまで、宮本さんと土浦さんがいて、今、朝野さんが言ったことを全部やって帰りましたよ」
「え⁉ あ! 本当だ! チャットに来てる……。ていうか、宮本さんと土浦さん、いたんですか?」
 土浦がいたのなら、休日出勤の罪も軽くなるかもしれない、などと考える。
「ちょうど入れ換わりでしたね」
「そっかあ……。あ、清瀬さんは……変更部分以外のデザインですか?」
「僕もどうにも仕事のことが気になって落ち着かなくて、そのあたりを片付けています。それから先回りして構成変更の優先順位にあたりをつけて、一番ダメージを小さく遷移を変える方法を考えています」
「それ、私の仕事じゃないですか。すみません」
「じゃあ、一緒に画面見てやります?」
「はい。お願いします。お礼にコーヒーを奢りますよ。インスタントですけど」
「やった! ありがとうございます」
 清瀬は笑顔で自分のマグカップを差し出した。
 凜と清瀬は、凜のデスクに向かって並んで座る。凜は、すいと画面を指す。
「往訪前のメールを見た限り、特にこの遷移が気に入らないみたいですね。ページが切り替わるのが嫌なのかな?」
「あ、では、この部分はポップアップにして、遷移をなくしてはいかがですか?」
「それはいいですね。そうすればページは変わらないし……。ああ、アコーディオンで開く形にしてもいいですね。どちらのほうがデザインしやすいですか?」
「それはアコーディオンですが、ユーザーから見ると少し使いづらい形になるかもしれません」
 ポップアップは、ボタンを押すなどのアクションによって画面の上に浮かび上がるように新たな画面を表示させること、アコーディオンは、閉じていた情報のボタンを押すことで開かせる手法だ。
 凜と清瀬は、いつの間にか仕事に熱中する。話し相手がいると、どんどんアイディアが出てくる。凜はこの苦境もなんとか乗り越えられるような気がしてきた。
「あれ、朝野さん。左手の袖のとこ、コーヒーこぼしちゃいました? 大丈夫ですか」
 清瀬の指摘に左手首を見る。凜もそこに目を遣って、はっと息を飲んだ。
 ベージュの袖が、赤く血に染まっていた。
 思わず凜は袖を押さえて立ち上がる。まだ完治していなかった傷が開いたのだ。
「え……どうしたんですか? 火傷しました?」
 清瀬は心配そうに、そして混乱しながら聞く。凜は思い至る。色が見えていないのだ。赤も緑も茶色のように見えると、清瀬が以前言っていたを思い出す。ここで誤魔化そうと思えば、誤魔化せるかもしれない。
 しかし、凜は話すことにした。きっとタイミングだったのだろう。これで、昨日告白を断った理由も説明できる。
「……清瀬さん、これね、血」
「え⁉ あ、赤いんですか⁉ なんで……」
「自分でやったんです。精神的に苦しくて仕方がないとき、切ってしまう。良くないの、わかってるし、私臆病だから傷痕が残るのも怖くて、そんなに深くも切れないんだけど、昨日はいろいろありすぎて、ちょっと強めにやっちゃったみたいです」
「え……」
 凜は泣きそうになる。
「これでわかったでしょう? 昨日私が断った理由。こんなメンヘラ女、やめておいたほうがいいですよ。自分で言うのもなんですが、地雷です。あ、このこと……会社の人はもちろん、家族にも誰にも言ったことないから、他言しないでくれると助かります」
「そんな……言いませんが……」
 清瀬は力なく答える。
「ありがとうございます。大変なときにまたストレスかかる話、しちゃってごめんなさい。私、帰ります。……ごめんね!」
 凜はそのまま自席に戻ると、シャットダウン処理だけ終えて、トートバッグをひったくるように取り、オフィスを駆けて出た。
 清瀬はひとり、取り残された。
「え……?」
 
 凜は人もまばらな土曜日のオフィス街を走り抜ける。いつの間にか夕方になっていた。世界が橙に染まる。ずいぶん日が短くなった。
 スニーカーを履いてきてよかった、と思う。はあ、はあ、と息を切らす。普段の運動不足が祟る。雨風にさらされ、塗装がはげかけたベンチを見つけ、座り込む。
 ミュートになったままのスマートフォンを見る。母からの着信はない。
 代わりに、清瀬からメッセージが届いていた。
 心臓が跳ねる。過呼吸のようにうまく息ができない。震える指先でメッセージを開く。
《びっくりして何も言えなくてごめんなさい。詮索するつもりもありませんし、誰にも言いません。絶対です。安心してください。》
「なんでそんなに優しいの……」
 凜はベンチでうずくまる。頬に熱いものが流れ落ちた。
 
 *
 
 月曜日、出社、そして朝礼。
 土日を挟んだおかげか、オフィスは多少の落ち着きを見せていた。
 凜は宮本とオープンなミーティングスペースで会議をしながら、スケジュールの詰めをして午前中を過ごす。
 とおりかかった茅場に、声をかけられた。
「宮本さんも朝野さんも、土曜日来たでしょ。休日出勤厳禁! しかも勤怠押してない! サービス残業アーンド休日出勤! ダメ!」
 本当に怒っている声ではなく、からかいを含んでいる。その雰囲気に甘えて、凜は反論する。
「土浦さんも来ていたそうじゃないですか」
「俺や土浦はいーの」
 宮本も凜に加勢する。
「いやいや、良くないでしょう!」
 茅場はしゃがみこみ、ミーティングスペースのデスクの上で腕を組んで、顎を乗せる。
「今回は非常事態ってことで仕方ないと思うけど、本当ダメだからね。残業を少なく! 休日出勤もなく! そうじゃないと俺がこの会社を作った意味なくなっちゃうの。俺と土浦もなるべくはそうしているけど、俺たちは経営者だからね」
 茅場はにっこりと笑う。
 凜は、あ、似てる、と思った。茅場は清瀬と似ている。わずか一年強の師弟関係でも似るものなのか、偶然似たものどうしが引き合った結果の師弟関係なのか、因果関係がわからないな、とぼんやりと考える。
「そういうことだから。大変なことになってきたけど、早め早めに俺らを頼ってね。もし、どうしても休日出勤がいるときは事前申告と、勤怠押して休日出勤代請求できるようにしてね」
 茅場はそう言って立ち上がると、宮本と凜がそれぞれ座るチェアの背面をぽん、と叩いて、颯爽と去っていった。
「いい人だよなあ」
「そうですね……」
 茅場の後ろ姿を見ながら、宮本と凜が呟いた。
 
 そのとき、ふたり同時にメールを着信する。送信元は賀久井リゾートの葛西だ。
「宮本さん! これ!」
「確認するぞ!」
 しばし無言でメールと仕様書を読む。
 まず、メインカラーの変更がなくなった。今のままでOKとのことだ。そして、構成変更の対象範囲もかなり減っている。納期の半月延長も許諾。予算の増額について、見積もりを待っていると書かれていた。
 あの往訪時の無茶な要求がほぼひっくり返っている。
「なんで……」
 凜は思わず声が漏れる。
「効いたね」
 今度は背後から土浦に声をかけられる。宮本が尋ねる。
「土浦さん、これは……? そもそもこんなに早く仕様変更を出してくるなんて……」
「人脈って大切だな。賀久井リゾートのホテル部門の担当者に世話になったと言っていただろう? その人に久しぶりに連絡を取ってみたら、さらに出世して役員になっていた。それで、現状を説明した」
「その結果がこれですか……。というか、そんなことでメインカラー変更の方針を断念する程度の話だったんですか……」
 宮本は信じられないものを見るように変更依頼内容を見る。
「よほどこっぴどく叱られたんだろうな、来栖さん」
 土浦は苦笑する。
 そのとき、清瀬がノートPCを携えて、輪に入ってくる。
「あの、僕のところにはこれが……」
 画面を見せてもらうと、来栖からの直接のメールだった。清瀬の色覚異常について無礼を働いたことを詫びる内容だった。そして、デザインには満足している、とも。
 結局のところ、あのメインカラー変更依頼は、清瀬への嫌がらせだった可能性が高い、と凜は考える。サイトデザインを色覚異常のデザイナーが作ったということへの不満を、仕様変更という形に変えてぶつけてきたのだろう。幼稚だ。心のなかで吐き捨てた。
 凜、宮本、清瀬は土浦を尊敬の眼差しで見る。
「なかなか役に立つだろ、俺も。今回は少々変化球だったけど、ほかにも困ったことがあったら、遠慮なく相談して」
 そう言い残して、土浦は自席に戻った。
 宮本がハッとして話を進める。
「想像以上に早く変更仕様がきたし、範囲もかなり狭まった。まずはさっきのスケジュールを全体的に前倒し。それでもスケジュールが押しているのは事実なんだ。多少納期を延ばしてもらえてありがたいが、気を抜かずにいくぞ」
 一気に霧が晴れたような気がした。
 
 それは、デザインをすべて仕上げるために、デザイナーの追加アサインをするときに起こった。
 ヘルプアサインされたデザイナーが、「清瀬の外部委託先の第三者、とやらに依頼すればいいのでは?」と言ったのだ。
 アサインをした川倉は、そのデザイナーを連れてすぐに会議室に引きこもって説教をしたようだが、そういった不信感というものは強く組織に染み込んだ。
 清瀬本人は、相変わらず反応をしない。冗談交じりに直接そのような言葉をかける無礼な社員にも「そんなことしませんよ、何も出なかったでしょう」と淡々と答えている。
 泰然自若、そんな言葉が想起された。すべてを受け入れて、ときには受け流して、正面からの切りあいを避ける。
 二十二歳にしてその境地に至った清瀬の思索の旅はどのようなものだったのだろう、と凜は思う。
 自分は苦しみから逃げるために手首を切るしかないのに。
 尊敬、憧れ、恋慕。この感情をどう名付ければいいのかわからない。
 清瀬のことをもっと知りたいと思った。
 
 案件に関する確認で清瀬の席を訪れたとき、たまたま周りの席の社員が離席中だった。去り際、凜はふと聞いてみた。
「清瀬さん、あの怪文書のこととかでいやなこと聞かれたりするじゃないですか」
「しますね」
「でも怒ったりせずに、受け流したり、冷静に否定したりできてる。漠然とした質問ですが、どうしたらそんなふうになれるんでしょう……」
 清瀬は軽く首を傾げるも、笑顔で凜を見る。
「ショックは受けていますし、腹も立ちますよ。それにあの怪文書の内容とか、明らかに違うことを吹聴されるのは嫌なので、面倒ですが毎回否定していますし。でも、考え方って人それぞれですし、感情はそのときどきで揺れるものだし、仕方ないのかな、って思っています」
 そこで一度清瀬は声を落とす。手招きをして凜に寄るように言う。
「ふられたのも、ちゃんとショックですよ」
「う……でも原因はこの間話したじゃないですか」
 清瀬は感情の読めない表情でニコニコとしている。
 清瀬は、あの休日出勤のあと、本当に凜の自傷癖について何も言ってこない。そういう噂を他人から聞くこともない。つまり黙秘に徹してくれている。ほっとする反面、未だ信じきれない自分がいる。凜の最大の秘密だったから。
 凜を開放すると、最後にポツリと言った。 
「違いを受け入れることと、それから言い方が悪いですけど、諦め、かな」
 諦め。それはあまりに清瀬に似合っていた。笑顔を絶やさず、コミュニケーション能力も高い。しかし、その後ろに隠された寂しさをそこはかとなく感じる。誰のことも受け入れているように見えて、誰からも理解されない、同じ世界を見ることができないと〝諦め〟ている。そう思うと、清瀬の態度も腹落ちする。
 そして、自分勝手な理由で、その寂しさを分け合える存在になることを拒否した身として、凜は黙る。
「さ、仕事に戻りましょ。やっと構成案の再作成ができたんです。ダサい嫌がらせになんか、付き合っていられません。さっき送ったデザイン、問題なければコーダーの梅澤さんに送っておいていただけますか」
 今は就業時間中だ。清瀬の言うとおり仕事に戻らなければ。
 凜は、「わかりました」とだけ答えて、宮本の席に寄ってから梅澤のもとに行った。
 清瀬は、くるくると舞うように飛び回るような凜の後ろ姿をじっと見ていた。
 
 やり直し分含めて、デザインがあらかた出来上がった。賀久井リゾートに最終確認メールを送り、問題なしの確約を取る。一度仕様変更をされてしまっている以上、油断はならないものの、これで進むしかない。コーディングチームの本格的な出番となった。
 これまでもデザインと並走できるところはやってきたが、主役が入れ替わる。梅澤がメインのコーダーとして、動きの多い複雑な指示をコードに書き動きにしていく。
 同時に、バックエンドとの繋ぎこみ、分析レポートの定義など、多くのメンバーが同時進行で稼働を始める。それらの管理業務と並行して、凜自身のタスクとして、素材が完全に貰えなかった部分のライティング作業や、出来上がったあとの検証用シートの作成も行う。より管理に傾いている宮本も含め、プロジェクトメンバーは目の回る忙しさだった。
 少し納期が延びたおかげで、多少の余裕ができたのは事実だ。しかし、油断は禁物。全力ででローンチに向かう。
「ここの動きですが、サイトが重くなる原因になるように思います。ここを削れば工数も多少は削減できます。どうしますか」
 宮本と凜が、梅澤とともにオープンスペースで会議をする。梅澤の指摘に、宮本が答える。
「確かにそうなんだが、それでOKをもらってしまっている以上、これでいくしかない。もうあんなことはごめんだ」
「……そうですね、承知しました。他のところも仕様書通りで行きましょう。進捗については随時報告します。よろしくお願いします」
 テキパキと会議を切り上げて梅澤は自席に戻っていく。梅澤は、顔にも声にもあまり表情が出ない。凜も最初のうちは怖がっていたのだが、そういう人だとわかると気にしなくなった。
「さすが梅澤さんですね。頼もしい」
「梅澤さんなら大丈夫だろう。さ、俺たちも戻るぞ」
 宮本と凜が自席に戻ろうと椅子から立ち上がる。
 そのとき、凜の体がぐらりと揺れた。すとん、とチェアに落ちるように座る。
「だ、大丈夫か⁉」
「すみません、大丈夫です。ちょっと立ちくらみがしちゃっただけですから」
 凜の笑顔を見て宮本は安心したのから自席に戻った。
 凜も慎重に立ち上がり、今回は立ちくらみが起きないことを確認すると、自席に戻る。自席では、三田が待ち構えていた。
「ねえ、朝野さん」
 やや怖い顔をしている。凜は思い当たる節がある。
「……はい」
「……やっぱり少し顔色悪いわね。最近、超過勤務。残業時間ヤバいことになってるわよ。前月は三六協定の四十五時間を大幅突破。今月ももう時間の問題」
「……バレました?」
「バレるに決まっているでしょう!」
「でも、宮本さんも似たようなものですよ」
「このあと宮本さんのところにも行くの! いくら忙しいからって二人して……。最近は、茅場は何か用事があるからってなかなか出社してこないし、土浦くんは別件の案件拡大にかかりきりで見逃されてたかもしれないけど、この三田さんの目は誤魔化せません! 土浦くんに相談するよ?」
 凜は慌てる。
「ダメです!」
 三田は、訝しそうに訊く。
「なんで? ほかのディレクターを追加でアサインしてもらえば……」
 凜は下を向いて、何も言わない。
「意地だけではどうにもならないのよ?」
 おろした拳を握り、キッと顔を上げて言う。
「意地です! このサイトは、本当にいろいろありました! この会社で滅多に起きない炎上もしてしまって……クルールのあり方に泥を塗ってしまったと思っています。
 でも、私にとっては本当に学びが多いんです。こんな最初から任せてもらえるの、初めてです。この会社は優しい。とても優しいんです。私は弱い人間だから、それに甘えてしまいそうになる。
 確かに今、心身ともにキツいです。でも、ディレクターとして成長するためにはやりきりたいんです」
 一息に言った凜を見て、三田は大きくため息をついた。
「青いねえ」
 凜はむぅ、と三田を睨む。
「今月、四十時間超えた時点で土浦くん報告ね」
「そんな! 残りあと少しじゃ……」
 三田は諭すように凜に言う。
「朝野さん。ここは会社なの。違法に働かせたら茅場や土浦くんの責任になるわ。一ヶ月くらいなら仕方ないと先月は目を瞑ったけど、連続はダメ。慣れになる。ほかの社員への影響も良くない。それに、仕事はチームで動くもの。よくわかってるはずでしょ。ちょっと落ち着きなさい」
 三田の正論にぐうの音も出ない。
「わかった? 今は焦りすぎて冷静さを欠いているのよ。ほら、とりあえずコーヒーでも淹れてきて」
 デスクにある凜のマグカップを三田が手渡した。
 掌の中でマグカップをもて遊びながら給湯室にいくと、清瀬がいた。
「あ、朝野さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「三田さんに見つかっちゃいましたね」
「あ、見てました?」
 清瀬はすい、と凜に一歩近寄る。凜は思わず後ずさり、シンクに腰がぶつかる。
「あ、すみません。脅かす気はなかったのですが。やっぱり顔色悪いなって思って、つい」
「……ちょっと、メンタル的にもきつくなってきてるのは事実ですね。焦っちゃってます。体力についてはもってほしいなぁ。この会社ではトップクラスに若いのに」
「若いとかそういう問題じゃないですよ。早めに土浦さんに相談したほうが……」
 凜は口をつむぐ。
「……ってなりますよね。普通。僕、朝野さんの気持ちもわかるから、簡単には言えません」
 意外な台詞に顔を上げる。清瀬は淹れたばかりであろうコーヒーを一口飲む。
「ここまで頑張ったんですもの、最後まで自分の担当範囲をやりきりたいですよね」
「……はい」
「実は僕も先々月から先月にかけてヤバくて、三田さんと茅場さんと土浦さんに頼み込んで見逃してもらったんです。僕の場合、クライアントの来栖さんから、目のことを言われてしまった手前、さらに逃げるわけにいかなくて」
「そうだったんですか……」
「そういう掟破りをすると、他の社員が真似てどんどんブラック化してしまうっていうのはわかっているんです。あ、茅場さんの受け売りですけどね。それでも、退けないときはあって」
「わかります。私も、退きたくないです」
 清瀬の笑顔に促されるように、凜は続ける。
「まだライティング終わっていないし、検証シートも三デバイス分、作らないと! ほかにも佐久間さんとレポートの準備を……あ……れ……」
 凜の目の前がホワイトアウトする。頭からざっと血が降りたような感覚になる。白い光に満たされて何も見えない。ぺたり、と座り込んだことが、床の冷たい感触でわかる。
 遠くから清瀬の声が聞こえる。
「朝野さん! 大丈夫ですか⁉ 朝野さん!」
 建物の外から響くような声だ。ひとりだけ白い光の世界に取り残された凜は、これが倒れる前兆だと悟る。
 そして、声にできているのか、言語として成立しているかわからないが、叫ぶ。これだけは言わなくては。
「実家には……連絡しないで……!」
 凜はもう自分の声も聞こえない。伝えられただろうか。
 混乱の中、凜の意識は途切れた。
 
 *
 
 キンキンと、金属のような音がする。
 凜がそれを人の声だと認識するのには、数秒かかった。
 ああ、連絡されてしまったか。大きくため息をつく。仕方のないことでもある。会社の緊急連絡先があの人なのだ。
 凜はゆっくりと目を開ける。白い天井と、点滴台が目に入る。ほかにも雑多な機械類がある。救急外来のベッドの一つのようだ。
 例の声は廊下の外からしていた。
「だから何でこんな倒れるほどに働かせるんですか! おたく、いわゆるブラック企業でしょう⁉ 説明次第ではこのまま弁護士に連絡して労働基準監督署に駆け込みますよ⁉」
 金切り声が耳障りだ。看護師らしき人の静止する声も聞こえる。
「静かにしてください! 外でやってください!」
 凜は急速に覚醒した。母が迷惑をかけている。
「お母さん! やめて!」
 その声が届いたのか、一瞬の無言の後、横スライド仕様の扉を勢いよく開けて、梨津子が駆け込んできた。後ろに茅場、土浦、三田、それから看護師が続く。
「凜ちゃん! ああ、良かった! 起きたのね」
「やめて! 倒れたのは社長たちのせいじゃない! さっきの暴言、謝って!」
「朝野さん、落ち着いて!」
 三田と看護師が止めに入る。
 すぐに医師が呼ばれ、簡単な説明を受ける。過労とストレスによる迷走神経反射で、脳貧血を起こしたのだそうだ。そして、医師はややうんざりとした様子で言う。
「お母様は何か大きい病気に違いないから、検査入院して精密に調べてほしいとおっしゃっていますが……」
「不要です。ご迷惑をおかけしました」
 凜が即答する。
「いいえ! 倒れたのよ⁉ ちゃんと検査して……」
「お母さん!」
 凜は強く制止する。
「いい加減にして」
 凜の怒りなこもった低い声に梨津子は怯む。その隙に、茅場たちの方を向き、頭を下げた。
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」
 続いて医師の方に向き直り、尋ねる。
「私は今後どうすればいいでしょうか。何日ほど経過観察や療養が必要ですか?」
「長く見て三日ほど安静にしていただければ、大丈夫ですよ。今日はこの点滴が終わったら、もうお帰りになって問題ありません」
 医師は、母親と違い、話のわかる娘にほっとした様子だった。医師は看護師を連れて退出した。
「お母さん、社長たちと話をさせてくれる?」
「お母さんもここにいるわ」
「ダメ。仕事の話だから部外者には聞かせられない」
「こんな会社辞めなさい!」
「話にならない。迷惑だから出ていって!」
 梨津子は凜の迫力に押され、何度も振り返りながらも廊下に出た。
 凜は、改めて頭を下げる。
「すみません。本当に……いろいろとご迷惑をおかけして……」
 三人の誰も答えない。あの母親を見たあとだと、引いてしまうのも無理はない、と凜は思う。
「なるべく早く職場復帰します。今日が木曜日だから、申し訳ないのですが明日はお休みをもらって、土日挟んで月曜日から再開でもいいですか?」
 茅場、土浦、三田の三人は顔を見合わせる。土浦が遠慮がちに口を開く。
「もう少し長く休んでも大丈夫だ。体が第一だからな」
 ほかのふたりも無言で頷いている。
「ごめんなさい、ただの貧血でこんな騒ぎになってしまって。私は、嘘じゃなく大丈夫なんです。倒れた瞬間は驚きましたけど……。母はああいう人で……弁護士がどうとか聞こえましたが、口だけですから気にしないでください」
「お嬢さんのことがそれだけ心配なのよ」
 三田が優しく言う。
「……それは違うんですけどね」
「え、ごめん。今、何か言った?聞こえなかったけど……」
「いえ、すみません、三田さん。おっしゃるとおり、倒れちゃいました」
 凜はおどけてみせる。三田は思い出したように凜を叱る。
「ほら! だから言ったじゃないの!」
 茅場と土浦も参戦する。
「早め早めに相談してって言っただろう。やっぱり俺が行った通り、無理にでも他のディレクターつけるべきだったよな? 土浦!」
「やりきりたい気持ちを汲もうとしたが、厳しかったな。復帰後はディレクター増やすからな。茅場に反対したのが間違いだった。やる気は認めるが、倒れてしまっては何もできないぞ」
 凜は三方向から責められる。そして、他のディレクターがつけられることで、凜が最初に任された仕事を全うすることはできなくなった。無力感にため息をつく。
「そうだ、清瀬さんにご迷惑かけませんでしたか? 私、確か給湯室で清瀬さんと一緒にいるときに倒れてしまって」
 茅場がニヤニヤと笑い出す。
「アイツな、かなりテンパってたぞ。見ての通り大抵のことでは動揺しないヤツなんだが。面白いものが見れた」
「そりゃ目の前でいきなり人が倒れたらテンパりますよ……。その状況で冷静だったら、ちょっと怖いです」
「いーや、あれはやっぱり朝野さんだったから……」
「セクハラ」
 三田は一言とともに、茅場の後頭部にチョップをかました。
「いてっ」
 痛がる茅場を無視して、三田は凜に話しかける。
「とにかく、あとで連絡してあげて。そうとう心配していたから」
「もちろん。お世話かけちゃったので、今度ケーキでも奢ろうと思います……あ。点滴……」
 話し込んでいるうちに点滴が終わったようだ。看護師を呼んで点滴を抜いてもらう。
 するりとベッドから出て靴を履く。凜はそのとき、会社で倒れたままの服装であることに気づく。点滴は右手に刺さっていた。左手首の傷を見た医療者側の配慮だろう。ありがたく思う。
 三田が凜のバッグを持ってくる。
「とりあえず必要そうなものは集めて中に入れさせてもらったわ。スマホとかポーチとか。勝手に触ってごめんね」
「そんな! 助かりました! ありがとうございます。……あの、本当にいろいろとご迷惑をおかけしてすみませんでした。倒れたことも……母のことも」
 茅場が言う。
「お母さんのことは俺らにはどうしようもないけど、仕事のことは気にしないで。さっきいったとおり、来週の月曜日出社予定で、体調戻らなかったら長く休んでも大丈夫だから。会社はチームなんだから」
「ありがとうございます」
 凜は深々と礼をした。
 
 ガチャリと鍵を開け、扉を開く。
 視界の端に、乗ってきたタクシーが走り去っていくのが見えた。
「どうぞ」
 そういう凜の声は固く冷たい。母、梨津子をこの部屋に入れるのは初めてだ。
「……きれいにしているのね」
「快適に過ごしたいからね」
 会話が終了する。奥のリビングへ梨津子を誘導する。茶を出すつもりはない。
 ふたりは低いテーブルを挟んで腰を下ろす。
「お母さん。まずは心配かけてごめんなさい。もう大丈夫だから」
 梨津子のエンジンがかかった。
「大丈夫なわけないじゃない! なんで検査入院しなかったの⁉ それからあの会社はもう辞めなさい!」
「近所迷惑! 声量を落として!」
「これが大声にならずにいられますか!」
 金切り声に凜は思わず耳をふさぐ。この声が嫌いだった。幼い頃から、この声に追い立てられてきた。背筋が凍る。
 ここで負けるわけにはいかなかった。感情的にならず、常に飄々とした清瀬の言葉を思い出す。
 〝嫌なことは嫌と言う〟、〝違いを受け入れて〟、〝諦める〟。
 以前からわかっていたことだ。価値観なんというレベルではない。もはや、この母親は自分とは別物なのだ。そして、もうそれは、諦めるしかない。
「お母さん」
「何よ」
 梨津子は肩で息をする。
「お願いだから私の選択に口を出さないで。今回は私が自分の気力や体力を見誤って失敗しちゃっただけ。本当に……本当にいい会社だから……」
「あなたは洗脳されてるのよ!」
「洗脳されてるのはお母さんだよ!」
 思わぬ反撃に梨津子はのけ反る。
「私の所属や成果はお母さんの母としての成果じゃないんだ!」
「そんな、そんなつもりは……」
「私は、お母さんのアクセサリーじゃない!」
 全然上手くできない。清瀬のように。感情的にならずに、スマートに対処できない。全然清瀬の言葉の意味を理解できていない。あんなふうになれない。
 自分が情けなくて、凜は涙を流す。
「な……泣きたいのはこっちよ! せっかくここまで育てたのに、聞いたこともない零細企業に入って、挙げ句倒れて! お母さんがどれだけ恥ずかしい思いをしているか……」
「ほら、私のことをひとりの人間だと思っていないじゃない。私は、お母さんから見たら、お母さんの所有物のひとつなんだ」
「そんなこと言っていないじゃない!」
「……話が通じないのはわかった。とにかく、もう大丈夫だから。心配をかけてごめんなさい。それだけ謝る」
 まだ夕方だ。隣県の実家まで、問題なく帰れるだろう。
 梨津子は立ち上がり、無言のまま帰宅した。
 
 黙ったままの梨津子が不気味だった。ただ凜のことを諦めてくれたのなら良いが、それは虫が良すぎる解釈にも思える。内側からザワザワと沸いてくる不安に襲われる。
 しかし、凜はあの休日出勤の日以来、自傷行為を行っていなかった。清瀬にバレてしまったのは、きっかけだと思った。
 今も切ってしまいたい。そうすれば、この内側に蠢く恐怖が少しは開放されるだろう。
 しかし、誰にも言わず、凜は勝手に清瀬と約束したということにした。
 もう、切らない。
 
 翌日の金曜日は、療養のため有給を取ってあった。しかし、凜はけたたましい着信音に起こされた。
 いつもはミュートにしているのに、昨日は倒れたあとのゴタゴタで、音が鳴るままにしていた。
 梨津子かと思い画面を見ると、三田からだった。
 仕事の問い合わせかと思い、通話をオンにする。
「はーい、朝野です。三田さん、お疲れ様です」
「あ! あのね! 朝野さん!」
 明らかに狼狽えた声に只事ではないと察する。凜の体に緊張感が走ったと同時に、電話の向こう側から金切り声が聞こえた。
「だから娘を退職させるのよ! 今すぐ! 早く手続きをしなさい!」
 目の前が真っ暗になった。しかし、心が折れてはいられない。
「ごめんなさい! 三田さん! 今すぐ行きます!」
 スウェット生地のワンピースに柔らかいワイドパンツを履く。乱暴に水で顔を洗ったら、基礎化粧を叩き込み、日焼け止めを塗り、眉だけ描く。髪はもちろん一本に結ぶだけだ。
 スニーカーを履いて、財布とスマホだけをボディバッグに突っ込んで、転がるように家を出た。
 
 凜がオフィスに着いたとき、母は会議室に隔離されていた。金切り声が会議室から聞こえる。
 息を切らしてオフィスに着くと、社員の冷たい目線の的となる。
 とにかく、三田を探す。
「み、三田さん、ごめんなさい……!」
「こっちこそ、療養中にごめん! 本当に……どうすればいいのかわからなくて」
「本当にすみません」
 それだけ言い残して、凜は会議室の扉をノックすると同時に、返事も待たずに飛び込んだ。
「何やってるの!」
「凜ちゃん! なんで寝ていないの! 大丈夫だからね、お母さんがこんな会社、辞めさせてあげるから」
「何を言っているの⁉ 私は辞めたくないって言ってるでしょうが!」
「凜ちゃん……可哀想に、こんなに洗脳されて」
 昨日の凜の嫌な予感は見事に的中した。
 梨津子と向き合っているのは茅場と土浦だった。
「申し訳ありません、社長! 副社長!」
 凜は九十度よりも深く頭を下げる。
 茅場も土浦も疲れ切った顔をしていた。
「えっと、朝野さんは辞めたくないんだよね?」
 茅場が口を開く。
「はい。もちろんです」
「と、お嬢さんはおっしゃっていますが」
 土浦は対面に立ち上がる梨津子を見上げる。
「それはアンタたちが!」
「また洗脳? 自分で言ってておかしいと思わないの?」
 凜が氷水のような言葉を浴びせる。しかし、その温度ですら、梨津子の頭を冷やすことはできなかった。
「本気に決まっているでしょう! なんでこんな名もない小さい会社に就職されなければならないの! この子にどれだけのお金と手間をかけたと思っているの⁉」
 これが梨津子の本音なのだろう。頭が冷えたのは凜のほうだった。
 凜は口を閉じ靴を脱ぐと、その場に正座する。そして、手揃えてついて、頭を下げた。
「お願いします、私と縁を切ってください」
 凜の突然の土下座に、場の全員が凍りつく。
「もう耐えられません。毎日金切り声の電話を聞いて。子供の頃からずっと、ずっと……。百点を取らなければ冬のベランダで勉強させられたことも忘れない。私を大学まで出してくれたことは感謝しています。でも、私を〝作品〟としか見ないあなたを、もう母とは呼べない。これ以上私に干渉するなら、この会社に迷惑をかけるなら……私は家も引っ越すし、スマホの番号もアドレスも全部変えます」
 凜は梨津子を見上げて睨む。
「もう私はあなたに干渉されるだけの無力な子供じゃない」
 梨津子の息を呑む音が聞こえた。
 茅場が言う。
「朝野さんのお母さん。あなたの娘さんはこうおっしゃっています。子供の会社に押しかけて、その当事者に土下座までさせて、何とも思わないのですか」
 梨津子は力が抜けたように、ヘナヘナとチェアに座る。そして、顔を覆って、声を潜めて泣き出した。
 凜は土下座の姿勢に戻る。左手の傷が痛い。しばらく切っていないはずなのに、今切ったばかりのように、熱くて痛い。
 その幻の痛みに負けるわけにはいかない。凜は、自分の居場所を守るために、母との決別を選んだ。
 梨津子はハンカチで目を拭くと、力なく立ち上がり「ご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした」と言って、頭を下げる。
「凜ちゃん、ごめんね。お母さん、帰るね」
 凜は頭を上げず、母の顔を見ない。顔を見てしまったら、許してしまうかもしれない。お母さんのいうとおり、転職しますと口走ってしまうかもしれない。
 母を憎む反面、母に依存する自分が大嫌いだ。また左手首が痛む。爪が手に食い入るほど、凜は拳を強く握る。
 茅場と土浦が立ち上がり、梨津子を出口へと導く声が聞こえる。
 凜は、土下座の体制のまま、動かなかった。
 
「朝野さん」
 茅場が呼ぶ声に、我に返る。
 顔をあげると、茅場と土浦が凜の前にしゃがんでいた。
「本当に申し訳ありません!」
 凜はもう一度頭を下げる。頭がくらくらする。頭を下げすぎて血が上ったのか、昨日倒れたときのダメージなのか、興奮で過呼吸になっているのかわからない。絶対に倒れられないと、意識だけは手離さないよう、一層爪が手に食い込んでいく。
「うん、大丈夫だよ。朝野さんのせいじゃない。昨日から続けて、大変だったね」
 茅場の優しい声に涙があふれる。涙声で絞り出す。
「……私、この会社にいていいですか」
「もちろん。朝野さんは優秀な社員だ」
 土浦が答えた。
「俺たちは出てるから、三田を呼んでこよう」
「そうだな。朝野さん、落ち着くまでいていいよ。このあと、会議室の利用予定は入っていないし」
 そう言うと、ふたりが出ていく音が聞こえ、代わりにパタパタという軽い足音が近づいてきて、会議室の扉が開閉した。
「朝野さん! 大丈夫……じゃないよね」
 三田だった。うずくまったままの凜の横にひざまずく。
「ほら、ティッシュ、箱で持ってきたから……」
「ありがとうございます……。本当にごめんなさい……! 母が……本当に……」
「大変だったね。会社のことは大丈夫だからね」
 三田は凜が泣き止むまで、その背中をさすり続けた。
 
 その後、凜は帰宅となった。凜は社員全員に謝って回ると主張したが、茅場、土浦、三田の三人に退けられた。
 三田がタクシーを手配し、それに乗った。会議室からオフィスを通って出るとき、当然だが好奇の目に晒された。その中で、清瀬と目があった。今にも泣きそうに見えた。もしかしたら、凜の気の所為かもしれない。
 そんなことを考えながら、凜はタクシーの中から、流れる景色をぼーっと見ていた。
 
 家に帰ると、泥のように眠り込んだ。
 ふと起きると、外は真っ暗だった。頬が塗れていることに気づく。眠りながら泣いたようだ。
 夜の十一時。スマートフォンを見ると、梨津子からの着信もメッセージも、一件もなかった。本当に縁が切れたのかもしれない。あの去り方ではわからなかった。
 そのとき、スマートフォンがメッセージの着信を告げる。朦朧とした頭で見ると、清瀬からだった。
《とても心配です。無理しないでくださいね》
 それだけのシンプルなメッセージ。そういえば、と凜は思い出す。昨日倒れたときに清瀬に世話になったはずだ。その礼もできないうちに、梨津子が会社で騒ぎを起こし、さらに迷惑をかけてしまった。
《昨日、今日と迷惑をかけて、本当にごめんなさい。私は大丈夫ですので、心配しないでください》
 そして、しばらく置いて、追加でメッセージを送る。
《明後日の日曜日、空いてますか。ケーキの美味しい隠れ家のカフェがありますから、いきませんか。お詫びに奢ります》
 
 返事は、OKだった。
 凜は、清瀬に甘えることにしたのだ。一度ふった手前、今でも清瀬が凜に好意を抱いてくれているかはわからない。それでも清瀬は優しいから。
 その優しさにつけこむことにした。
 凜は、我ながら卑怯な女だと自嘲した。
 
 *
 
 そのカフェは、凜が最近開拓したお店だった。ケーキも美味しく、凜はここのタルトが大のお気に入りだ。今日は桃のタルトにした。濃厚なレアチーズに柔く甘い桃がたまらない。
 凜は、席に座って、頬杖をついて窓の外を眺めている。夏の強い日差しはもう感じられず、冬までの架け橋のような光を浴びて、ここ数ヶ月の事件の数々を思い出している。
 
 昨日、ほぼすっぴんでオフィスに駆け込んだのとは対象的に、今日は入念に身支度をした。
 秋らしい濃いグリーンに小さな金ボタンが施されたミモレ丈のワンピースは袖がたっぷりとしており、手首で締まるデザインが上品だ。足元はブラウンのショートブーツ。髪はストレート、ハーフアップにして、ヘアゴムとコームでアレンジをしている。上着のベージュのトレンチコートとブラウンのストールは、横の席にかけてある。
 メイクはテラコッタカラーをベースに、まぶたには金のラメが嫌味ない程度に散っている。口紅はオレンジベージュで抑えめに。
「朝野さん」
 清瀬が凜の顔を覗き込むようにして登場する。
「お疲れ様……は変か。こんにちは。迷いませんでしたか?」
「大丈夫でしたけど、よくこんなところ見つけましたね。すごい」
 ここは温室をまるごとカフェにしている店舗だった。郊外に出る必要があるが、農家さんの親戚が経営しているそうだ。ただの添え物の観葉植物ではない、大量のグリーンに囲まれ、全方向から光が入ってくる。凜は今日が晴れて良かったと思う。
 その代わり、テーブルや椅子は多少質素だ。しかし、凜はそのシャビーな雰囲気も気に入っていた。
 多少不便なところにあることと、あまり広告をしないことから、日曜日にもかかわらず客は少ない。全体の四分の一程度が埋まっているようにみえるが、席と席の間も広く距離が取られているので、全体感が把握しにくい。
 清瀬は凜の向かい側に座る。
「ここのおすすめはとにかくフルーツ系です。タルトが一番いいかな」
「じゃあ……旬ですし、巨峰のタルトとコーヒーにします」
 清瀬は手を上げて店員を呼び、注文を言う。ひとつ会釈をして店員が去ると、凜は座ったまま頭を下げた。
「木、金とご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」
「いえいえ、謝らないでください。倒れてしまったのは仕方ないですし……金曜の件も……大変なんですね」
「そういえば茅場社長が、木曜日に私が倒れたとき、清瀬さんが随分テンパっていたと言っていました」
 からかう調子で言う。清瀬は、少し顔を赤らめると、ふいと横を向いてむくれて言う。
「……そりゃ、テンパるでしょう。茅場さん、余計なことを……」
 凜はその様子を見て、哀しげに笑うと、言う。
「今日は迷惑ついでに私の告解を聞き届けてもらおうと思ってお呼びしました」
 店員が巨峰のタルトとホットコーヒーを運んでくる。「ごゆっくりどうぞ」の言葉とともに、また席から離れていった。
「告解?」
「そういうと大袈裟なんですけどね。とりあえず、ケーキ、食べてみてください」
 清瀬は困惑しながらも、タルトにフォークを刺す。
「うわ……すごく新鮮ですね。巨峰の量もすごい」
「でしょう?」
 凜はニコニコ笑っている。
「何も、大したことじゃないんです。私のこの左手首の傷について知ってるのが清瀬さんだけで、しかも半端に見せてしまった形になったから、ちゃんと説明したくて」
「……僕、詮索しませんよ」
「私は金曜日、母と縁を切るといいました。それが実現されたのかわからないですが」
 清瀬は息を呑む。
「だから、私の整理に付き合ってほしいんです。巻き込んで申し訳ないのですが、清瀬さんは優しいから、その優しさにつけこむことにしたんです。酷いでしょう」
 清瀬は一息ついて、言う。
「そんなふうに、言わないでください。聞きますから」
「ありがとうございます」
 凜は再び笑むと、ブルーベリータルトのかけらを口に放り込んだ。
「清瀬さん、私ね、帝都大学出身なんです」
 予想もしていなかった告白に清瀬は驚く。帝都大学はこの国の最難関大学として、その名を知らぬ者はいない。
「すごいですね、最高峰じゃないですか」
「これを知っているのは、会社関係だと社長、副社長、三田さんだけです。あまり知られたくないので、内緒にしてください。……正しくは私が入ったのではなく、母が入れた、という方が近いんですけどね」
「……入れた?」
 凜は、訥々と話す。
「……私の両親は不仲でした。母は一人っ子の私の教育に入れあげました。父のようにはさせない、自分のようにはさせないと。母には、かなり無理を強いられたと思っています。私自身そんなに頭が良いとは思えないのですが、とにかく飴と鞭で知識と受験テクニックを詰め込まれました。
 県下トップの公立高校に入ってから、母の教育熱はエスカレートしました。子に課金ってやつですかね。母は仕事を増やし、とにかく私にお金をかけました。予備校、参考書、家庭教師。母はああ見えて会社経営者なんですが、学歴にコンプレックスがあって。父は母よりも年収も学歴も低く、母に見下されています。なんで結婚したんだか……。
 脱線しましたが、そんな流れでさらに私は追い詰められました。追い詰められても逃げるところがありません。父は……そんな私を可愛げがないと遠ざけました。顔を見れば、『可愛くない』、『ブスは勉強しか取り柄がない』と言いました。母へのあてつけだったのでしょう。
 でも、とにかく勉強して、帝都大に入る。実家から帝都大に通うのは難しいので、一人暮らしになります。そうすれば私も実家から逃げ出せる。そこだけは、利害が一致しました。そして、なんの偶然か、現役で合格してしまったんです」
「偶然じゃなくて、朝野さんが頑張ったからですよ」
 凜は、苦笑いする。
「ありがとうございます。でも、本当に頑張ったのは母。実際、私は大学に入ってから、苦労しましたよ。皆、本当に頭が良いんですもの。
 それから、もうひとつ全く別の厄介な状況に見舞われました。実家を離れてから、説明のできない違和感と不安に取り憑かれました。自分が自分でないような。たとえば、今みたいにケーキを選んだとして、本当にそれが自分の選択なのか、わからなくなるんです。もしかして母の選択を代理してしまっているんじゃないかって不安になる。どんどん違和感も不安も膨れ上がっていきましたが、発散先がありませんでした。時間が経つにつれ、不安に襲われると、胸の上あたりが痛むようになりました」
 凜は、胸に手を当てる。
「一人暮らしは楽しかったです。その中で見つけた趣味が料理でした。でも、料理の最中に急に強い不安が沸いてきて、包丁で指を切ってしまったんです。そしたら不思議なことが起こりました」
 清瀬は軽く首を傾げて話を促した。
「心がすっと軽くなったんです。指からは血が流れているのに」
 凜は、ふう、とため息をつき、冷めてしまったコーヒーを一口含む。
「不思議な感覚でしたが、理解もしました。私はそのとき、心の痛みを体の痛みに置き換えて発散したんだと。それからです。手首への自傷が始まりました。リストカット、という行為自体は知っていたので」
 そう言って、左手首を撫でる。
「不安がやってきたら、体の痛みに変える。そうすれば乗り切れました。そして、もうひとつ、その頃に変化がありました。茅場社長のブログに出会ったんです。
 私は、デザインというものに魅了されました。教養を身に着けさせると、母に無理矢理連れて行かれた美術館の絵には何も感じなかったのに、茅場社長のデザインやイラストは見れば見るほど魅力的で、バイト代を貯めて、デザインのソフトを買い、見様見真似で創作を始めました」
 凜は、幸せそうに微笑む。
「独学ですし、全く大したものではなかったですが、創るという楽しみを初めて知りました。拙いながら、自分もブログやSNSに作品を載せ始め、最終的にはそれがクルールデザインラボに入社するきっかけでした」
 清瀬が言う。
「朝野さんも、茅場さんの影響で入社したんですね」
「茅場社長の弟子の清瀬さんとは比べ物になりませんけどね。でも、そのせいで、私は就活で大きな方向転換をしました。周りの学生のように、国家公務員になるか、大手の総合商社や都銀なんかに入るものだと思っていたのですが、進路への疑問と、母に対する怒りが湧いてきました。それこそ、大手や官公庁に進む道は、私の選択ではなく、母の選択です。私は生まれてはじめて、母に反抗をしたんです」
「それで……」
 凜は苦笑する。
「金曜日のアレは、私が母の思い通りの道に進まなかったことに対する爆発です。何の因果か、ネットに載せていた私の拙い作品が茅場社長の目に止まって、入社に至ったんです」
 凜は、清瀬を真っすぐ見据える。
「これが私の手首の傷の原因と、金曜日の騒ぎの元凶です。重い話を聞いてくださって、ありがとうございます。すべてを誰かに話したのは初めてなので、少し胸のつかえが下りました」
 清瀬は中断していたケーキに再度フォークを入れる。
「僕なんかで良ければ」
「あと、ほかにも清瀬さんには勝手に感謝していることがあって」
「え?」
「あの休日出勤の日以来、切るのをやめました。いいきっかけだなと思って」
 清瀬は少し安心したようだ。
「そうなんですね。僕もあのあと、そういう行動を取ってしまう人に関する本を読んで勉強して、その人にとって生きるために必要なものだと理解したんですが、止まっているならそちらのほうが……あ、無理は禁物ですけれど」
 凜は思わずケーキを口に運ぶ手が止まる。まさか、何も言わないのに、調べて理解しようとしてくれていたなんて。
 敵わないなぁと心に言葉を落としこみながら笑う。
「……ありがとうございます。理解し難いものでしょうに、知ろうとしてくださって」
「正直なところ、驚きました。それであの日は何も言えなかったのが悔しくて情けなくて。せめてどういったものなのかを知らなければと思ったんです。すみません、ちょっとストーカーぽくてキモいですね」
「そんなことないですよ」
 清瀬は考え込んだような素振りのあと、言う。
「僕には、赤が見えません。たとえば、刑事ドラマの殺人現場のシーンとか、そこに血があるとわかっていれば血に気付けますが、想定外のところにあると気付けないこともあります。あの日はまさしくそれでした。〝見て〟いたのに、気づくことすらできなかったのは、自分でもショックでした。僕の特性上、仕方のないことなのですが……。
 あのあと、本を読んでから考えたんです。僕が見えなかった〝赤〟は、朝野さんが必死に生きようとした証なんだろうなって。他の人にはどう見えているのだろう。きっと鮮烈なのだろうけど、僕にはそう見ることができない。そんな〝赤〟にすら気付く能力を持たない僕が、朝野さんにできることはなんだろうと、何か役に立てないかと、ずっと考えていたんです。
 だから、僕を告解の相手に選んでくれてありがとうございます。多少は、役に立てましたか?」
 凜は目を見開く。この傷のことは清瀬以外の誰にも話したことはないが、ネットなどの風評を見れば一般的にどう思われるかはわかる。
〝キモい。メンヘラ。かまってちゃん。面倒くさい。死ぬ気もないくせに〟
 精神医療に基づく記事や、問題提起、自助グループなどの情報を除けば、たいていはそういったネガティブな言葉が並ぶ。
『僕が見えなかった〝赤〟は、朝野さんが必死に生きようとした証なんだろうなって』
 清瀬の言葉が凜の頭の中でリフレインする。この傷をそのように捉えたことなどなかった。思わず涙がこみ上げてくるが、ぐっと我慢する。
 涙に濡れた目で凜は言う。
「多少どころではありません。救われた気持ちです。本当に、ありがとう……」
 凜は、呼吸を落ち着ける。
「もう少しお話しませんか?コーヒーのおかわりしましょう?」
「じゃあ二杯目は僕が出しますよ」
「今日は、お詫びの奢りなのでダメです。すみませーん」
 凜は店員を呼び、ホットコーヒーをふたつ、追加する。
「僕にもカッコつけさせてくださいよ」
「奢りがカッコつけだと思っているなら、古いですよ」
「朝野さん、カッコいい」
 重い話が一段落したあとの弛緩した空気が漂う。
 店員が二杯目のコーヒーを運んできた。湯気がたつコーヒーは、やはり冷えたそれよりも断然美味しい。
「……清瀬さんって、なんでそんなに強いんですか?」
「え?」
「前にも会社でちょっと聞きましたけど……怪文書にも嫌がらせにも暴言にもめげずに、柳みたいにスルっと躱してる。私も、母と対峙したときにやろうとしたんですけど、全然清瀬さんみたいにできなくて。あのときも答えてもらいましたけど、何があったら清瀬さんみたいになれるんだろうって、ずっと考えているんです」
 清瀬は、うーん、と言いながら腕組みをする。
「そんな大層なものではないと思いますが……考え続けてはいます。やっぱり僕は、健常者と呼ばれる人と見え方が違うので」
 そして、腕をほどき、スマートフォンを取り出す。
「朝野さん、ハチドリって知ってますか?こういう鳥」
 そう言って、スマホの画像検索画面を見せてくる。
「テレビ番組か何かで見たことがあるように思います。花の蜜を吸う鳥ですよね」
「はい。そのハチドリなんですけどね、色覚に問題がない人間にすら見えない色を見るそうです」
「え……私にも見えない色がこの世にあるということですか?」
「そうらしいです。非スペクトル色という色があって、それは人間には見えないけど、ハチドリには見えるんですって」
「へえ……」
 ハチドリの視界を、想像することすらできない。色覚に異常がないはずの凜も見たことがない〝色〟。それがハチドリの瞳に映っているというのだ。
 そして気づく。これは清瀬にとっての凜の視界と同じだ。同時に、凜にとっての清瀬の視界でもある。
「私にとっても、清瀬さんにとっても、お互いがハチドリみたいな存在なんですね……」
 清瀬はいつものように穏やかに笑う。
「さすが察しがいいなぁ。そうなんです。便宜的に、色覚異常を持たない人を〝健常者〟と呼びますが、健常者は僕にとってハチドリ。そして、僕のように色の見え方が異なる者は健常者から見たらハチドリ。
 僕は、僕だけの色の世界を見ています。色覚異常どうしなら共有できるのかもしれないけど、カミングアウトしている人は少ないし、なかなか出会えません。周りにたくさんの人がいるのに、僕だけが違う色の世界を見ていると思うと、孤独に思った時期もありました。
 前、眼科で色覚異常の補正眼鏡をつけて、お断りしたことがあるといったのを覚えていますか? 伊達眼鏡の話をしたとき。あの眼鏡をつけるとき、これで他の人と世界が共有できると、ドキドキしたんです。でもダメでした。眼鏡をかけた瞬間、世界が歪んで見えました。色が洪水のように脳に流れ込んできて吐きそうになってしまったんです。もちろん、合う人もいると思いますが、僕はダメでした。
 そこで、僕は諦めと同時に、屁理屈を立てたんです。自分の見え方を否定したら自分の世界の否定することになってしまう。だから僕はこれでいいんだ。他の人が見ている世界に憧れもするけれど、これが僕の世界だと、開き直ったんですよ。だからそんなに凄い話ではないし、僕も凄い人間ではないんです」
 ただ、と清瀬はポツリと付け足す。
「時々思うんです。ハチドリは孤独じゃないのかなって。僕も、誰かと同じ色を共有できたら、とは考えてしまいます」
 清瀬は、穏やかに微笑む。
「僕は色の世界の孤独に耐えられずに、デザイナーになりました。この辺は前に話しましたよね」
「はい。そんなふうに繋がっていたんですね……」
 清瀬から感じていた僅かな〝寂しさ〟の正体に触れた気がした。清瀬には、温室の青々とした植物の緑色も見えない。緑という色も、赤という色も、カラーコードでしか理解できず、体験として存在しない。清瀬の色の世界を真に理解してくれるの人は、同じ特性を持っている人しかおらず、凜とは共有できない。
 清瀬はデザイナーになり、描くことで色を見出すことを実現したが、実体験の有無という点において、清瀬と凜の間には深い溝がある。これを超えることは、できない。
 黙ってしまった凜に、清瀬は不自然に明るく言う。
「すみません、僕の方が暗い話になっちゃいましたね」
 凜は、はっとして、手を横に振る。
「いえいえ! 私が教えてくれって言いましたから。薄々気づいていましたけど、私と清瀬さんでは思考の量も質も段違いです。私は長らく母に隷属してきた……と言えば言い訳なんですけど、あまり考えることなく敷かれたレールの上で生きてきました。もっとたくさんの世界を知って、体験して、考えて、アウトプットすることが、これからの私には必要なんだと思います」
「何度も言いますけど、僕は開き直っただけで、そんな大したことはないですからね」
 凜は、口に手を当てて笑う。
「じゃあ私も開き直ろ! 明日どんな顔で会社行っていいかと思っていました」
「あー……確かにそれは開き直るしかないですね」
「……一応社会人の嗜みとして、皆様へのお詫びのお菓子は昨日調達しました……」
「大変ですね……」
 凜は夕陽に変わりだした空を見遣る。
「母と縁が切れたのかわかりません。何かのきっかけで連絡するかもしれないし、またあのように過干渉してくるかもしれない。私の中での母の立ち位置を、きちんの考えて備えます」
 清瀬は眩しそうに目を細める。
「もしまだだったら、なんですけど、一度専門の機関でカウンセリングなどを受けてみるといいかもしれませんね。デリケートなことに踏み込んじゃってすみませんが、少し心配なので」
「そうですね、考えてみます。」
 凜はまた冷めきってしまったコーヒーを飲み干す。
「帰りましょうか。明日からまたハードです」
「そうですね。あ、そうだ。朝野さんのサポートに石黒さんがつくそうですよ」
「それは、めちゃくちゃ心強いです」
 凜は、トレンチコートとストールとバッグを持って立ち上がる。清瀬も続いて立ち上がった。
「僕のほうも、動画がもうすぐ出来上がります。いよいよ大詰めですね。無理しないで頑張りましょう」
「そうですね。これからも、よろしくお願いします」
 凜は右手を伸ばす。清瀬の、男性にしては細身の右手が、その手をしっかりと握った。
 
「木、金と本当にお騒がせして申し訳ありませんでした!」
 凜は、今日何度目かわからないお辞儀をして、デパ地下で調達した個包装の高級クッキーを配っている。
 木曜日に給湯室で倒れたと思ったら、金曜日は母・梨津子がそれを軽々と超える迷惑を叩き込んだ。今日は会社に行きたくなくて仕方なかったが、昨日、清瀬にひととおり懺悔をしてスッキリしたのと、開き直ると約束したので、頑張ることにした。
 社員は総じて同情的だった。梨津子の勢いを思い出して引き気味の社員もいたが、凜に非はないという姿勢は一貫していた。
 茅場と土浦は「無理するなよ」とだけ言い、三田は「頑張ったね」とハグをしてくれた。
 社員たちの優しさに涙が出そうになった。
 凜は最後のお菓子を配り終わり、ふらふらと自席に戻る。頭を下げすぎて、少し痛い。
 こめかみを押さえていると、上から声がした。
「いやー、大変だったね!」
 デスクに寄りかかったまま腕組みをしていたのは、ディレクターの石黒千景。
「石黒さあん……ほんとすみません……」
 凜は腕を伸ばして抱きつくような素振りを見せる。
「もう、倒れたのもお母さんのも朝野ちゃんのせいじゃないでしょ」
「うう、優しい……。ありがとうございます」
「賀久井リゾート案件、誰かから聞いてるかもしれないけど、私がサポートにつくことになったからね! 早速だけどWBSとスケジュール見せて」
「はい!」
 
 石黒は、腕を組んで天を仰ぐ。
「うーん、ライティングがやっぱり重いよねぇ。宮本がいるとはいえ、これとバックエンド、フロントエンド、分析の管理と検証準備はキツいよ」
「はい、すみません……。私の見通しが甘かったんです」
「宮本ぉ! アンタにも言ってるからね!」
 石黒はチェアに座ったまま、ひねるように背をのけ反らせ、宮本のほうに向かって叫ぶ。
「はい! すみません!」
 宮本は石黒と目を合わさずに、バツが悪そうに返事する。
「あ、あの……」
「いいの! 宮本はPMなんだから。客先対応、工数予算管理とスケジュール調整でキツくても、全体を見ていなければいけない。同じディレクターの朝野ちゃんには甘えがあったんだろうね。これからPMとしてアイツがもっと成長したいなら、持っておかなければいけない反省点」
「でも、言い方ってものが……」
「あれ、朝野ちゃん、知らなかった? 宮本は私の大学時代のサークルの後輩」
 凜は思わず「え!」と声を漏らす。
「勘弁してくださいよ、片山(かたやま)さん……」
「旧姓で呼ぶな!」
 宮本の情けない声が届き、石黒がバッサリと切って、周囲からは笑いが起きた。
 石黒が切り替える。
「さて、わかりやすく管理と実働で分けよう。ライティングの文体が変わるといけないから、朝野ちゃん、そのままお願い。社内連携は私がもらうわ」
「ありがとうございます!」
 プロジェクトはリスタートを切った。
 
 区切りの良いところまで行ったライティングの推敲を終え、宮本に確認依頼を送る。OKが出れば、宮本が賀久井リゾートへと確認をまわす。
 賀久井リゾートからは、あれ以来無茶な要求はなく、仕事がやりやすくなった。もちろん、必要な修正や追加は随時確認の上、対応している。
 また、コーダー・梅澤の仕事は恐ろしく速く、遅れ気味だったスケジュールの巻き返しに成功している。さらにもう一名のコーダーがアシスタントについて、対応速度は上がった。まだスケジュールどおりとまではいかないが、もう少しのところで、前半の遅れを取り戻せる。
 石黒のディレクションも順調で、多方向の社内リソース調整をうまく交渉して捌いている。
 数々の事件を経て、プロジェクトはようやく軌道に乗ってきた。
 
 石黒と凜は、オープンスペースでミーティングをしている。状況の報告だ。
「うん、順調だね!」
「はい! おかげさまで! 皆さん凄いんですけど、梅澤さんが特に凄いです……」
「梅澤さん、爆速でしょ。しかもコードきれいなのよー。今度見せてもらいなよ。多少遅れが出ても、ここで巻けるよう、梅澤さんがアサインされたんだね。社長たちもさすが抜け目がない」
 凜は、ため息をついて感激する。社長、副社長はそこまで呼んでいて、保険に梅澤をつけたのか。
 突然、石黒がチェアごと凜の真横に移動し、声を落とした。
「ね、あの怪文書の件、何か進展あったか聞いてる?」
 
──クルールデザインラボ所属社員清瀬和臣に関する告発
 
 突如として送られてきた清瀬に関する告発書。そのことを公に口に出す社員はいなくなったが、その事実は忘れ去られておらず、地下水脈のように社員間で様々な憶測が流れていた。凜はその話題に関わらないようにしていたが、真っ向から訊かれて無視するわけにもいかない。
「さあ……私は何も知らないです」
 嘘偽りなく答えた。本当に何も知らなかった。何なら、凜が真相を知りたいくらいだ。知ったところで、何もできないのだが。
「そっか、そうだよね……。なんか他のことはけっこう解決しているのに、これだけ進捗なくて、気味悪いね」
「本当ですね……」
 ちらりと清瀬の背を見る。ぐーっと伸びをしている。
 そのとき、当の清瀬からチャットツールに連絡があった。宛先は、凜、茅場、宮本、石黒、川倉。
 後回しにされ続けていた、動画ができ上がった。
 チャットツールの宛先のメンバーがドヤドヤと清瀬の席の周りに集まる。
「忖度なしで見てやるよ」
「茅場さんの辞書に忖度という言葉があったことが驚きです」
「確かに、お前に対してはないな」
 茅場と清瀬がじゃれている。仲の良い師弟だと思いながら、凜は後ろからモニタを覗き込む。
 清瀬がメンバーが集まったことを確認して説明を始める。
「音楽は賀久井リゾートからの提供です。それと、ロケで撮った動画、写真を合わせた形になります。動画サイトの公式アカウントにアップし、それをサイトトップページに埋め込む形で設計しています。時間は三十秒です」
 再生ボタンを押すと、軽快な音楽をバックに、イラストデザインと写真を組み合わせた画像が流れていく。ロケで撮った場面もふんだんに使われており、凜は懐かしい気持ちになる。あのときは、こんなにもたくさんの事件が起きるなんて思ってもいなかった。まだプロジェクトは終わっていないが、ここに至るまでの様々な頭の中を駆け抜けていく。
 厳しいスケジュール、無理解な顧客と理不尽な仕様変更、ロケ、残業や休日出勤、怪文書事件、過労によるダウン、梨津子との訣別……あまりに多くのことがあった。一部未解決のものもあるが、メンバーたちに支えられて乗り越えてきた。自分は少しは成長できただろうか。自問する。
 三十秒の動画が終わった。凜は拍手する。宮本も倣った。
「良いと思います! 素敵です」
「俺も良いと思う。清瀬くん、凄いな」
 川倉も満足そうに頷いている。
 茅場は、腕を組み、難しい顔をしている。メンバーの視線が茅場に集まる。
「……ま、及第点だろ」
 はあー、というため息が重なった。清瀬を見ると、キーボードに倒れ込んでいる。
「あー緊張した」
「合格じゃないからな。これからいくつか改善するぞ」
「わかりましたあ……」
 涼しい顔で何でもこなす清瀬らしくない姿に、凜は吹き出す。
「そうやってると、清瀬くんも年相応に見えるのにな」
 川倉がからかった。
「勘弁してくださいよ」
 清瀬が体を起こしてガシガシと頭を掻く。
 通りがかった土浦が、茅場に話しかけていく。
「スケジュールに影響出ない程度にしろよ。お前のスイッチが入ったら、際限なくやりかねん」
 土浦の影に隠れていて見えなかった三田も言う。
「そうだぞ茅場ー。若い子をあんまりいじめるなよー」
 古馴染みからの連続攻撃に茅場も反論する。
「うるせーぞ、そこの二名!」
「事実だろうが」
「土浦くんの言うとおりだー」
「仕事しろお前ら!」
 茅場がふたりを追いかけていく。
 土浦も三田も茅場を無視して自席に戻る。社員たちから笑いが起きる。
 そのやりとりを見ていた宮本が清瀬に向き直り、言う。
「じゃあ第一弾として先方に確認に出しておくよ。先方からのリクエストも合わせて、社長や川倉さんと調整していく形で頼む」
「承知しました。よろしくお願いします」
 宮本と清瀬がハイタッチした。
 
 プロジェクトは大詰めを迎えていた。
 賀久井リゾートからの動画修正の指摘は僅かで、どちらかというと清瀬が茅場にしごかれていた。それでもなんとかスケジュール内に修正を終え、顧客の最終承認を得た。
 コーディングもあらかた完了し、検証シートに沿って確認が行われている。見つかった不備を梅澤が即座に修正していく。
 そしてクリスマスを控えた十二月十四日、賀久井エジプシャンパークのサイトリニューアル、リリースとなった。
 本番アップのボタンがクリックされる。
 テスト環境の内容がアップされると同時に、本番サイトでのバックエンドとの連携や、表示に問題がないか、メンバーが手分けして検証していく。そして、ひととおり、抜け漏れがないことを確認した。宮本が賀久井リゾートに電話をする。何度も頭を下げているが、その表情は笑顔だった。
 電話を切ると、宮本が叫んだ。
「リリース完了です! お疲れ様でした!」
 社内から拍手が湧き上がる。
 凜も掌が痛くなるほどに強く拍手する。
 茅場、土浦、ほかの社員も皆、立ち上がって拍手をしていた。
 約半年に及ぶ長い長いプロジェクトが終わった。
 石黒が駆け寄ってくる。
「お疲れ、朝野ちゃん!」
「石黒さん! 本当にありがとうございました!」
「いえいえ。宮本や朝野ちゃんが頑張ったからだよ。クリエイターの皆もね」
 宮本が吠える。
「今日は飲みに行くぞー!」
「お前は寝ろ!」
 石黒からの冷徹なツッコミに、拍手が爆笑に変わった。凜も涙が出るほどに笑った。
 
 その後も本番環境での検証に一日を費やすことになった。
 マイナーなブラウザで、一部目立たないところに表示崩れが起きていたが、それ以外に問題は見つからなかった。メンバーは、梅澤の実力に舌を巻くばかりだった。
 凜は家に戻り、部屋着に着替えて髪をまとめる。風呂にお湯を張り、帰り道に買ってきたお気に入りのバスボムを投下する。お湯が鮮やかな色に染まり、ラベンダーの香りが立ち昇る。
 凜は部屋着を脱いで、湯船につかった。はあ……と息をつく。すっかり冷えた体がお湯に溶かされていく。
 左手をお湯から出して内側を見る。古傷が残っている。あの休日出勤の日から切らないことを決心し、その決意は未だ継続している。見えにくくなった傷も多くなった。
 それでも、多少は傷が残っちゃうかな、半袖を着られる日は来ないかな、などと思いながら、傷を撫でる。ぱしゃりと水音がする。
 あの会社での土下座以来、梨津子から連絡はない。梨津子は凜のことをただの〝作品〟としか見ていなかったかもしれないけれど、凜にとってはたったひとりの母だ。愛情が欲しくて成果を差し出した。もう差し出せるものがない、凜には用がないのかもしれない。ふと、涙がこぼれ落ちた。
 大きく深呼吸する。瑞々しい香りを肺いっぱいに吸い込む。清瀬の言うとおり、カウンセリングや医療にアクセスすることも考えたほうがいいかもしれない、と思いながら、ざばりとお湯から上がった。
 風呂から上がり、髪を乾かす。部屋に戻ってベッドに放っておいたスマホを見ると、通知があることに気付く。
 梨津子かと思いロックを解除すると、清瀬からのメッセージだった。清瀬はあの怪文書での操作以来、個人的なメッセージはすべてチャットではなく、私用のスマートフォンに入れることを徹底していた。何ともないふうを装っていたが、嫌な記憶ではあるのだろう。
《今日はちゃんとお礼を言えなかったので。本当にお疲れ様でした! いろいろありましたが、無事に一段落できて良かったです》
 凜はすいすいと指を滑らせて返事を打つ。
《お疲れ様です。こちらこそありがとうございます! 動画もデザインも本当に素敵でした》
《皆さんのサポートのおかげです。お祝いに、というのは口実ですが、またあの温室のカフェ、いきませんか。気に入ってしまって》
 思わず頬が緩む。
《いいですね。今週末にでもいきましょうか》
《ありがとうございます!》
 メッセージのやり取りが終了する。
 凜はベッドの上に膝を抱え込んで座る。
 
 ああ、やっぱり好きだなぁ。
 
 清瀬にすべてを話し、彼はすべてを受け止めた。清瀬の今の気持ちはわからないが、凜のほうも言わなければいけないと思った。
 カフェに行くのは良い機会だ。その日に言おう。
 凜は静かに決意した。
 
 *
 
────オフィスにて
 
 リニューアルサイトがローンチされ、祝福のムードに包まれていたオフィスは、今や冷え冷えとしている。
 茅場はただひとり、自席で今日届いた封書を前に、天を仰いでいる。
「嘘だろう……」
 独り言は誰にも届かず、虚空に散って消えた。
 
 *
 
 翌日、朝礼を終えて、昨日リリースしたばかりのサイトを見る。SNSの評判を確認し、マーケターの佐久間のもとに行く。
「数字、どんな感じですか?」
 佐久間はアナリティクスツールを操作しながら答える。このツールを使うと、サイトのアクセス状況などを調べることができる。
「一番はプレスからの流入が増えているわね。SNS経由の流入も増えてる。動画の再生回数も順調ね」
「サイトは、やっぱりちょっと重くなっちゃいましたけど、大丈夫でしょうか」
「それは今は何とも言えない。少し時間が経ってから、影響が大きそうなら対応がいるかもしれないけれど、それも顧客判断かな」
 サイトが重くなってしまうことについては、既に賀久井リゾート側には説明している。
「そうですね、ここから先の分析はお願いします!」
「まずは三日間の速報レポートね。データが溜まったら対応始めるから安心して」
「ありがとうございます!」
 佐久間の頼もしい台詞を聞き、安堵しながら自席に戻る途中、茅場とすれ違った。酷く険しい顔付きをしている。初めて見る表情に、思わず振り返る。
「三田」
 茅場は三田の席に向かっていた。
「どうしたの、そんな怖い顔して」
「ちょっと会議室に来い。和臣、お前もだ」
 清瀬を下の名前で呼んでいる。清瀬も目を丸くしている。社員の前では絶対に呼ばなかった呼び名。何か茅場を大きく動揺させることがあったのだ。そして、その原因が三田だということだ。
 三田は総務や人事、経理周りの処理を一手に担う総務部長だ。何か大きなミスがあったか。しかし、それでは清瀬が呼ばれた理由がわからない。
 凜は立ち尽くしたままことを見守る。正しく言えば、強い緊張感に動くことができない。
 三田は、力が抜けたように表情を崩す。
「ついに通知が行ったかぁ。まあ、時間の問題だったからね。プロバイダから照会が来たときは私も驚いたよ。まさか私を通さずにやるとは思っていなかったわ」
 三田が何を言っているのかわからない。茅場は歯を食いしばり、三田を睨んでいる。
「いいから……来い」
「ここでいいよ、全員に関係することでしょ」
 異様な雰囲気に気づいた社員たちは次々に沈黙し、オフィスは無言に包まれる。
「……いいんだな?」
「いいって言ってるじゃん」
 投げ槍に三田が答える。その声色に、凜は背筋が凍った。
 土浦が茅場のもとに急ぎ足で歩いていく。
「どうした」
 茅場はさらに顔を歪ませ、一度うつむくと、意を決したような話しだした。その声は静かなオフィスに響く。
「以前、清瀬くんに関する怪文書騒ぎがあったのを覚えているか。俺はこの数ヶ月をかけて、法人の代表としてそのフリーメールの送信者の開示請求を行っていた。昨日、その結果が届いた」
 嫌な予感に、凜は脇が汗ばむのを感じる。まさか……。
「送信者の名前は、三田綾子。お前だった」
 
 三田綾子は、不敵に笑っていた。
 凜の知らない女性のようだった。凜は息がうまく吸えない。落ち着いて、と自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を吐く。
「三田さんが…⁉ 何故⁉」
 土浦も声を荒げる。知らされていなかったようだ。
 茅場は怒鳴る。
「なんでこんなことをした! なんで……和臣を陥れるようなことを!」
 怪文書は巧妙だった。社内の人間にしか送られない。清瀬の特性に関する部分のみ抜粋したメールを取引先に送る。巧妙に、清瀬だけを攻撃するものだった。
「気に入らないのよ。色覚異常のくせに、色づいた世界にいて。なんでアンタだけなのよ」
「三田……薄々気づいていたが、お前まさか……」
 茅場の問いかけに、三田の口角が三日月状に上がる。
「なんだ、気づいていたんだ。さすがだね」
 一呼吸置いて、三田は言った。
「私は、色覚異常よ」
 雷に打たれたような衝撃だった。
 そして凜は思い出す。初めて賀久井リゾートへ往訪した日の朝。三田は、凜のブラウスの色を取り違えた。
 あのときは疲れ目だと言っていたが、違った。本当に判別がつかなかったのだ。
「だからって何でコイツを攻撃するんだ! お前の持つそれと関係がないだろう!」
「だから言ってるでしょう。気に入らないの。見えない色があるくせに、デザイナーになって、茅場に見込まれるほどの才能があって。
 私は、たくさんのことを諦めて、色のない白と黒の書類の世界で戦ってきた。私の世界は色づかない! なのにあなたのデザインは一般に受け入れられている。健常な人と同じように、あなたの世界は色づいている。なんで私の世界はセピア色で、あなたの赤と緑は色づくのよ!」
 最初は、淡々と喋っていた三田が、激高していく。
「私の色覚異常は先天性。つまり遺伝よ。もし私が子供を生んだら、かつ、できた子が男の子なら……男親の色覚が正常であっても百%色覚異常の子が生まれる! 男親が色覚異常の場合は、女親もそうでない限り遺伝上百%とはならない。この男女差が原因で婚約破棄された女の気持ちがわかる⁉
 男で! 夢を叶えて! きっとこれから可愛い女の子と結婚もして! 私はこの異常のせいですべてを諦めたのに、そのすべてを叶えられるあなたが憎い!」
 三田は涙を流しながら清瀬を罵倒する。清瀬を含め、社員は誰も何も言えない。三田の強い感情に頭を殴られたような感覚になる。
 三田の息づかいと、すすり泣く音だけが聞こえる。
「ねえ、朝野さん」
 急に指名された凜は度肝を抜かれる、
「前に褒めてくれたこのスカーフ。これ、何色に見える?」
 三田がつまんでいたのは、いつも髪を結んでいたスカーフ。
「……青緑と、ピンクと、グレー、それから白です……」
 震える声で凜が答える。
「私にはただのグレーの濃淡と白に見えるの。柄の形は認識できるけどね」
 清瀬は前向きだ。あまりにその特性を感じさせない。色を取り違えることがあっても、それをただの〝ドジ〟のように振舞う。それゆえに、清瀬との違いを周囲は、凜は、感じ取ることができなかった。いや、してこなかったのだ。
 清瀬や三田と、凜との違い。それはとても大きいものだった。
「それなら、会社に迷惑をかける必要はありませんでした」
 涼やかな声が割って入る。清瀬だ。
「僕のことが憎いなら、僕だけを罵倒すればいい。三田さんの苦しみは……三田さんは女性だから……どうしても出産を考えると遺伝上違うから、僕には完全にはわからないとは思いますけど……。うまく言えない。どちらにしても、他の人を巻き込むべきではありませんでした」
 僅かに声が震えている。その表情は苦渋に満ちていた。
「だから会社へのダメージは最小限にしたでしょうが。外部には送っていないわ。私は茅場も許さない。それなのにこの対応は会社を思ってこそよ」
 指名された茅場は眉間に皺を刻む。
「……俺?」
「清瀬くんがここまで成長したのは、アンタのような理解者がいたからよ。アンタがいなければ……!」
 茅場は顔を歪めた。
「……俺に会わなくても、コイツは変わらなかったよ。俺と会う前から、自分のやり方を確立していたからな」
「それでもアンタはこの子の理解者だった」
「俺はお前の理解者でもありたかったよ」
「無理よ。男にわかるものか」
 冷たく言い放つ。凜は、清瀬が入社したときに調べた色覚異常に関する知識を頭の底から引っ張り出す。女性の色覚異常はとても少ない。それは染色体の違いによるもの。そして、色覚異常の女性から生まれた男の子は、男親の色覚が正常であろうとも、全員、色覚異常となる。
 今の話によれば、三田はその特性がゆえに婚約も破棄されたのだ。凜は胸がつぶれる思いだった。
「三田さん……あんなに優しかったのに……。苦しい思いをしたからって……そんな……」
 凜の瞳からこらえきれず涙が溢れた。戸惑いとともに、脈絡のない言葉が口をつく。
「朝野さんを恨む理由はないし、お母様が会社にいらしたときは心から同情した。お互いバカな親をもつと苦労するね」
「え……」
「私の父親は色覚異常だった。母親がもし潜性遺伝子の持ち主、つまり色覚異常の保因者だったら二分の一の確率で子供は色覚異常になるのに、母が保因者でないこと、万一保因者だとしても、色覚異常に生まれないことに賭けて生んだ結果が私。バカよね。なんて迷惑な賭けをして、しかもその結果を賭けとは関係ない私が押し付けられるの? だから親は嫌い。清瀬くんだけじゃなく、男の色覚異常の人、大っ嫌い」
 清瀬を冷たい目で睨む。
 ただの八つ当たりだ。清瀬に対しても、茅場に対しても、三田の攻撃に正当性はただの一欠片も存在しない。
 社員は皆わかっていたはずなのに、誰もが口を閉ざす。
 茅場が沈黙を破る。
「お前はフリーメールなんか使っても、いつかバレるとわかっていたはずだ。なんでこんな手段に出た」
 落ち着きを取り戻してきた三田が、涙に濡れた顔を笑顔に歪ませる。
「んー……もうバレても良かったのかな。ヤケになっていたのかも。あと、アンタが清瀬くんのためにどこまでやるか、見たかったのよ。随分な愛弟子ね。で、私が送ったって最初からアテがついていたの?」
「まさか。でも、嫌な予感がしたから、俺一人で対応した」
「天才は勘も天才なのね」
 三田は皮肉を投げる。
「で、どうする?茅場。私を懲戒にする?」
「……お前はどうしたい」
「会社は辞めたい。清瀬くんの存在がとても苦しい。正直もう限界だった」
「……依願退職にしてやる。法的な対応をどうするか……被害届含めて、これから考える」
「どうも」
感情もなく三田は答えた。
 清瀬が自分の髪をくしゃりとつかむ。腕に隠れて表情は見えなかったが、ちらりと見えた歯には力が込められていた。
 
 その日は、会社全員が出勤扱いの休暇になった。仕事にならないという土浦の判断だ。念のため、クライアント各社に担当者の業務用スマートフォンの番号を知らせることだけはした。
 社員たちは気もそぞろに荷物をまとめて出ていく。口を開く者はほとんどいない。
 昨日はあんなにもオフィス全体でリニューアル完了を喜んだのに、今日は葬式のようだ。
 三田と茅場と土浦だけが残る。
 凜も、オフィスを追い出された。
 
 清瀬に左手の血を見られたときに逃げた先のベンチに座り込む。凜は空を見上げる。冬らしい曇天が空を覆っている。
 オフィス街とはいえ、街のあちこちから、楽しげなクリスマスソングが聞こえてくる。街路樹にはイルミネーションが巻かれているが、昼間は光ってもおらず、ただ樹がコードに拘束されているだけのように見える。
 目線を戻せば、赤と緑に彩られたクリスマスの大型広告が飛び込んでくる。清瀬や三田は、これらの色を見ることなく生きてきたのかと、ぼんやりと思う。
 そのとき、スマートフォンが振動した。清瀬からのメッセージだった。
《今、会えますか》
 
 清瀬に居場所を教えると、程なく見慣れた長身が歩いてきた。今日は、少し猫背気味だった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。隣、いいですか」
「どうぞ」
 凜は少し右に移動する。凜の左側に清瀬が掛ける。
 それから、どれだけ沈黙していただろうか。体の芯まで冷えてきた気がするが、今はどうでもいい。何も言わないまま、ふたりで人の往来をただ見ていた。
 唐突に、凜は言った。何か考えていたわけではない。口からこぼれ落ちた、と言うのが一番近い表現のような気がした。
「ヘコんでますか」
「ヘコんでます」
「ですよね」
「僕の存在がキツイって言われちゃいました。デザイナーとして欠陥があるとか、そういうことは言われ慣れているのですが、同じ病気を持った人の苦しみになっていたなんて、考えたこともありませんでした。僕は色覚異常のあるデザイナーを育てたという先生に希望を見出したから……。同じなのに、真逆の結果ですね。」
 凜は手に息をはあ、と吹きかける。白い息がふわりと見えた。
「……前提として清瀬さんは何も悪くないです。ものの見え方が違った。それが真逆の帰結を連れてきた。たったそれだけです」
「……」
「清瀬さんが、専門学校で色覚異常の先輩がいることを知って勇気づけられたように、いつか清瀬さんが誰かの目標になるかもしれない。その足跡が道標になるかもしれない。一方で、三田さんのように、清瀬さんと比べて、惨めさを感じる人がいるかもしれないし、足跡は嫉妬の対象にしかならないこともある。
 でも、それは、すべてあとに続く人や周りの人がどうとらえるかという問題だけで。清瀬さんの問題ではないと思います。清瀬さんは清瀬さんのまま進めばいいと思います」
「泣かせる気ですか、朝野さん……」
「泣いてもいいと思いますよ。私もさっき泣きましたし」
「ありがとう……ございます」
 少し涙まじりのお礼の言葉は、クリスマスソングに紛れて消えた。
「朝野さん。少し甘えてもいいですか」
「……いいですけど、どうすればいいですか?」
「手を握っていてほしいです」
 凜の左手と、清瀬の右手がベンチの上で重なる。冷え切った指先に、清瀬の体温が心地良い。
「三田さんは、とびきり孤独なハチドリだったんですね。少数派の世界に生まれ落ちて、それを理由に迫害されて、そのせいで余計に殻にこもってしまったから……不運にも誰からも気づいてもらえなかった。理解されなかった」
「僕と同じ世界を見ていたはずなのに……なんで……こんな……」
 思わず凜の左手に力がこもる。清瀬の右手を強く、強く握る。清瀬が、うつむきながら言う。
「やっぱり僕、朝野さんのことが好きです。ご迷惑かもしれませんが」
「私、いい女じゃありませんよ。弱いし」
「僕も弱いですよ」
「今日初めて知りました」
 凜は小さく息をついた。
「私も清瀬さんのことが好きです。私を頼ってくれて、ありがとう」
 凜がそう言ったあと、猫背で下を向いていた清瀬が、ゆっくりと姿勢を戻す。
「本当ですか? 僕が弱っているから同情してとか……」
「そんな一時的な感情で答えません。散々私の弱いところを晒して、それでもずっとそばにいてくれたじゃないですか」
「それは……好きな人ですから……」
「というか、私もこの左手のことがなければ、最初に告白してくれたとき、お受けするつもりだったんですよ」
「え⁉」
「……結局全部話すことになっちゃって、というか聞いてもらって……それでも私で良いと言ってくださるのなら」
「……良いに決まってますよ……」
 清瀬が凜の左手を強く握り返す。
「ねえ、清瀬さん。私は清瀬さんと同じように〝見る〟ことはできません。それって、視点が違うってことですよね。私も弱いところがあるし、滅多にないと思いますけど清瀬さんもヘコむことだってある。互いに違う視点があれば、乗り越えられると思いませんか?」
「……そう、ですね。あー、今が夜で、人通りが少なければ思いっきり抱きしめるのに」
「今は無理ですね」
 凜はクスクスと笑う。つられて清瀬も笑いだした。
 凜が言う。
「なんだか、物凄く久しぶりに笑ったような気がします。そんなはずないんですけど」
「僕もそんな気がします。不思議ですね」
「……帰りましょうか」
「はい、今週末のカフェ、楽しみにしています」
 ふたりは向き合ってお辞儀をして、それぞれの帰路についた。
 
 翌日、社員たちはぎくしゃくしながらも業務をこなしていく。これまでもそうだった。何か事件が起きても、時間が解決していた。
 三田の席が、空席であることを除いて。
 凜も清瀬も、別案件のヘルプに同時にアサインされた。案件や業務内容を担当ディレクターと打ち合わせていく。
 仕事と恋愛は別物。昨日帰ってから、その点だけはしっかりとメッセージで確認した。
 今はまだ、傷が残るけど、きっと大丈夫。ふたりだから。
 ミーティングを終えた凜は、オフィスから冬の青空を見上げながら、根拠なくそう思った。
 
 *
 
 週末、温室のカフェで、凜は席に座っている。
 クリスマスに近い土曜日とあって、いつもよりも混んでいる。冬の外気とは無縁の暖かさに包まれて、ゆっくりと周りを眺めている。注文はまだしていない。
「凜さん」
 待っていた声が現れる。
「その呼ばれ方、慣れないなぁ」
 清瀬にそう呼ばれると、凜はなんだかくすぐったくなるのだ。清瀬は凜の対面に座る。
「二人きり、かつ、業務外のときだけ! 僕はずっとそう呼びたかったので嬉しいですけど」
「本当に恥ずかしいことをさらっと言うね……」
「凜さんが僕をファーストネームで呼んでくれる日をのんびり待っています」
「……うう、私は敬語をなくしたのに……」
「凜さんのが一つ年上ですからね。それに会社の先輩です!」
「ファーストネームはハードルが高いなぁ。いつになるかな……」
「いいですよ、僕は気長に待ちますので」
 清瀬の穏やかな笑顔に安心する。
「今日は美味しいケーキを食べて、メンタルを回復しよう!」
「そうですね! 今の季節のタルトは何でしょう」
 
 凜は、紅茶を唇に運びながら言った。
「そういえば、ここでハチドリの話をしたんだったね」
「そうですね」
「私たちは、色の見え方が違うからどうしても全く同じ体験というのは共有しづらいけど、言葉と時間と体験の量で、その溝をできる限り埋めたいな、って思っているよ」
「いっぱい遊びに行きましょうね。今度はロケじゃなく遊園地にも連れていきたいです」
「ああ! 行きたいな、遊園地! エジプシャンパークでもいいけど、他のところも! ハチドリを見に動物園に行くのもいいし」
「凜さん」
「ん?」
「ありがとう。僕の見え方を否定しないでくれて。溝を、諦めないでくれて」
「清瀬くん」
「はい」
「ありがとう。私の過去と苦しみを受け止めてくれて。面倒だと諦めないでくれて」
 ふたりは冬の日差しに照らされて、幸せに笑いあった。
 
 *
 
さあ、色を纏おう。
このドレス。あなたは何色に見えるのでしょう。
紫という人もいるでしょう。
青という人もいるでしょう。
赤という人もいるでしょう。
色という概念を持たない人もいるでしょう。
この世の言葉で表せない色に見える人もいるかもしれない。
 
それが見えるのは、世界にあなただけかもしれない。
あなたは孤独なハチドリかもしれない。
 
色という感覚ひとつでさえ、共有することが難しい。
その人の世界は、その人の中にしかない。
 
それでも諦めないで。
言葉でも、そうでなくてもいい。
思いを尽くそう。
同じものを同じように見ている、聞いている、感じているという前提を、思い込みを、ポイと放り投げて。
あなたの世界を私は知りたい。
私の世界をあなたに伝えたい。
 
あなたは何を美しいと思った?
何が心地良いと思った?
何に喜んだ?
何を愛した?
 
私は、紫のドレスを纏う。
あの人から見たら青のドレス。
あの人から見たら赤のドレス。
何色にも見えない人もいるかもしれないし、ドレスそのものが見えない人もいるでしょう。
 
色、素材、デザイン、手触り、香水や生地の香り、衣擦れの音。
このドレス、私は、とてもお気に入りなの。
あなたはこのドレスをどう思った?
 
自信をもって、私だけの色を纏う。
これが私の世界よ。
そして、あなたの世界を教えてもらうの。
 
(了)

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