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ハチドリ 第二章

プロジェクト

 しばらくは、平和な日々が続いた。
 石黒から、例の事件の際の案件代行の礼がしたいと、珍しく凜は外にランチに出ている。普段は節約のためも大きいが、そもそも料理が好きなのもあって、凜の昼食は弁当だ。
 石黒が選んだのは小洒落たイタリアンの店だった。
「朝野ちゃん、偉いわよね、毎日お弁当作って。うちは子供の保育園が給食だから助かるわ」
「偉いというか……お弁当を埋めるのって達成感があるんですよね。早起きはつらいですけど、この会社、ほかの制作会社に比べたら残業少ないし、なんとかなってます。あ、私、ランチセットでパスタはアラビアータで」
「私、ジェノベーゼにしよ。でも、埋まると達成感があるの、ちょっとわかる気がする」
 他愛のない話が進んでいく。最初に運ばれてきたビネガーとオリーブオイルの効いたサラダに凜が舌鼓を打っているとき、石黒が切り出した。
「で、朝野ちゃん。ここだけの話、清瀬くんとはどうなの?」
「どう……とは?」
「端から見てていいコンビだからねー、なんかこう……ないの⁉」
 前のめりになる石黒を見て、あ、これ恋バナか、と凜は気づく。
「私も前の会社で旦那と会ったし、うちの会社もポツポツ社内恋愛出るし、私はありだと思うのよ!」
「石黒さん、落ち着いて。社内恋愛が悪いとは思いませんけど……」
 凜は石黒をなだめる。
「だって、清瀬くん、いい子じゃない。この間の騒ぎのときも、自分のことなのに落ち着いていたし。朝野ちゃんと組むことも多くて、ふたりでいい仕事するしさ」
「組むのが多いのは、一応私が清瀬さんのサポート役だからですよ。サポートいらないほどに優秀ですけど」
 メインのパスタが運ばれてくる。石黒はパスタをくるくるとフォークに巻き付けながら言う。
「お似合いだと思うんだけどなー」
「いい人だとは思いますけどね、清瀬さん」
 笑顔で凜は返事する。
 先日の騒ぎのとき、清瀬の辿ってきた道のりや価値観に触れ、心が惹かれたのは事実だ。でも、これを恋愛と言っていいのかわからない。何より、自分のような人間が恋愛をしていいのか、自問する。
 無意識に左手首を袖の上から撫でる。
「ん? 左手どうしたの?」
 石黒に指摘されてはっとする。
「なんでもないです。ちょっと繊維がひっかかったのか、くすぐったくて」
「そういえば、朝野ちゃんって夏も長袖だよね。今日もそこそこ暑いけど、平気なの?」
 凜はの心臓が大きく跳ねる。大丈夫、誤魔化せる。顔に出すな。自分に言い聞かせる。
「紫外線は美容の大敵ですからね!」
「ああ、紫外線対策か。基本内勤とはいえ、行き帰りもあるし、気になるよね。どうせ室内はエアコンで涼しいし、ありかも。朝野ちゃんはオシャレだし、さすがの美意識」
「石黒さんの今日のワンピース、素敵だと思いますよ。私、そういうちょっとモードめな感じ、最近興味あって。おすすめのお店あります?」
「あ、これ? ありがと! これね、この間駅ナカの店で偶然見つけた掘り出し物で気に入っているんだ」
 話題を逸らすことができた。凜はほっとする。そして、何事もなかったように、くるくると万華鏡のように変わる話題を楽しむ。
 知られたくない秘密を、ブラウスの袖に隠して。
 
 例年より遅い梅雨入りを知らせるニュースが流れた頃、朝礼で発表があった。
 茅場が社員を見渡して言う。
「既に話を聞いていた人もいると思うけど、完全新規の案件が取れました! 引き続き三田さんと、営業の鈴原さんが頑張って契約詰めてくれていますが、まずは昨日秘密保持契約の締結が完了となったので、プロジェクトをスタートします!」
 拍手が鳴る。プロジェクト開始時の、僅かな不安と大きな高揚感が、社員たちを包む。
 茅場が続ける。
「内容は、テーマパークのサイトリニューアル。賀(か)久井(くい)リゾートのテーマパーク部門がクライアントになる。既存サイトのつくりが古くなってきたため、リニューアルの運びになった。パークのコンセプトは古代エジプト。エジプト神話などもモチーフにしている。名称は賀久井エジプシャンパーク」
 凜は聞いているだけでもワクワクする。賀久井リゾート。複数のリゾート施設やホテルを展開する大手企業。そして、テーマパーク! ウェブに慣れていない人にとってもわかりやすく、見ていて楽しいサイトにしなければならない。もしかしたら予約システムなどのバックエンドの改修も入るかもしれない。難しい案件だが、やってみたいと思った。
 茅場の説明は続く。
「もちろん契約締結までは大きくは動けないから、先にスケジューリングやWBSの作成、現サイトの構成や競合調査などを先行させる。本件は若手から中堅のチャレンジ案件にしたい。アサインは、他案件との関係も鑑みて決めた。PMは宮本さんにお願いしたい」
 WBSとは、プロジェクトの作業工程を細分化し、構造化することで管理する手法だ。PMは、プロジェクトマネージャーの略で、プロジェクト全体の統括者。専門用語の多い業界で、凜も入社当初は戸惑ったが、今や慣れたものだった。
 清瀬の入社時に最初に質問を投げたディレクター、宮本が呼ばれた。宮本は既に打診を受けていたようで、落ち着いて「はい、よろしくお願いします」と答えた。
「続いてディレクターに朝野さん」
「えっ」
 何の打診もなく、突然呼ばれた凜は思わず声を上げる。
「私ですか?」
「案件調整、無理そう?」
 質問で返される。ひとつ別件が片付き、ちょうど落ち着いてきたところだったので、業務的には問題ない。気持ちが昂る。
「大丈夫です! よろしくお願いします!」
 凜は勢いよく頭を下げた。茅場はにこりと笑う。
「おう、よろしく。まだ先行対応の時期だから制作組のアサインは契約が落ち着いてから。マーケティングや事前分析で困ったら、佐久間(さくま)さん、助けてやって」
 マーケターの佐久間の名が呼ばれる。佐久間はニコニコしながら軽く手を挙げて返答とした。
「さて、納期が多少厳しいから、きちんと詰めるぞ。宮本さんはこのあと、予算周りとスケジュールを土浦と会議して共有してもらって」
「スケジュールが空いているところに予定入れさせてもらいます」
 宮本が答える。
 凜の隣にいた石黒が、凜の肩を軽く叩く。
「頑張れ!」
「ありがとうございます!」
 新プロジェクトが始まった。
 
 納期が厳しいとは聞いていたが、確かに厳しかった。クライアントの希望は五ヶ月ほど。六月下旬に差し掛かった今から、十二月頭のリリースを目指す。
 凜は、宮本とフリースペースで頭を抱えていた。
 幸い、バックエンドについては、既存の予約システムや一部の更新システムとの繋ぎ込みのみとなりそうで、プログラマの工数は取らない。しかし、繋ぎこみ動作確認の検証をするディレクターの工数はかかる。
 何よりも、情報設計、デザインとコーディング、つまり、プログラミング言語を使ってウェブサイトを構築する作業の複雑さが問題だ。素材が多く、わかりやすさと楽しさを求めたクリエイティブを実現するには、納期的にも予算的にもかなり余裕がない。技術も高いものが要求される。
「絶対にここでの確認を終えたら、修正手戻しをしないというマイルストーンが要りますね。お客様によってはその辺りの交渉が難航することもありますが、このクライアントはどうでしょう?」
 宮本は額を冷やすように手を起き、唸るように答える。
「この間、土浦さんと往訪したが、ちょっと危ない予感はしたな。担当者、キーマンともリテラシーは低めで、リニューアルに浮かれている。夢いっぱい、って感じだった」
「よくあることですが……こっちは現実的に進めないといけませんね。しかし、社長も副社長もこんなギリギリの案件取ってくるなんて、珍しいですね」
 クルールデザインラボは従業員の働き方第一のため、危険度の高い案件は避ける傾向にある。
「賀久井リゾートは、茅場さんや土浦さんの親会社所属時代からの付き合いらしくて、うちの親会社にも賀久井リゾートにも泣きつかれたんだってさ。親会社は、これで賀久井リゾートの広告運用案件を未開拓だったテーマパーク部門へも拡大。ほくほくだな」
 大人の世界は大変だ、と凜は遠い目をした。
 宮本が話していく。
「本当はしっかり要件定義しきってしまいたいが、顧客とのイメージのすり合わせのために、ある程度の余白をもたせたい。コンセプトとユーザー像は既に土浦さんが握ってきてくれているので、競合を見つつ、遷移設計と画面設計。今回のクライアントはデザイン重視だから、先に画面設計してトップだけデザインモックを作って確認に出して、その隙に遷移設計、という順番にしよう」
 遷移設計は、ユーザーがどのようにサイト内を動くか設計すること、画面設計は画面そのものの情報を設計していくことを指す。モックは、模型という意味で使われ、デザインのイメージ画像のようなものだ。
 宮本は何かを思いついたように、ぱっと顔を明るくして言った。
「あ、あと、別件だけど、トップに動画入れたいし素材も追加したいって言っていたから、先方指定のモデルさんとカメラマンさん使ってロケ行くよ」
「え! ロケですか⁉」
 凜のテンションが上がる。動画コンテンツを使ったページを担当したことはこれまでもあったが、すべてクライアントからの素材提供の埋め込みのみで、制作するのは初めてだ。
「露骨に嬉しそうにするね、朝野さん」
 宮本がからかう。
「だってロケなんて初めてなので……でも、うちでや動画編集できるような人、いましたか?」
「清瀬ができるんだと。茅場社長に仕込まれたそうだ」
「……何でもできますね、清瀬さん……」
「あの歳でな……。末恐ろしいよ」
 一体茅場は清瀬をどこまで鍛え上げたのだろうかと、凜は思う。
 例の事件以来、いつの間にか社内では、清瀬が茅場の弟子であったことが明らかになっていた。狭山の暴言事件もあったので、凜はどこかで不満が噴出しないかと心配していたが、その事実は案外とあっさり受け入れられ、むしろ清瀬の実力に対する納得材料となっていた。
「ということで、必然的にこの案件のデザイナーは清瀬だね。作業量的に加工なんかのために何名かアサインされるとは思うけど、先に確定しているなら、モックを先行してもらうか」
 清瀬がアサインされる。以前石黒にからかわれたように、凜と清瀬は組むことが多い。連携もかなり取れてきて、やりやすい。また、清瀬と組むと楽しい仕事になることが多いので、凜は素直に喜んだ。
「ロケの方のディレクションも含めて、現時点ではカツカツだな。今度浅野さんもクライアントに連れて行くから、スケジュールのブラッシュアップとマイルストーンの設定もお願いするよ」
「承知しました!」
 
 凜は、スケジュールが塗りつぶされた表計算ソフトを睨みつけている。すっと、目の前に飴が差し出された。
「うわぁ!」
「わかりやすく驚くなぁ」
 ケタケタと楽しそうに笑っているのは清瀬。
「清瀬さん……集中していたんですから」
 そう言いつつも、凜は清瀬から飴玉をしっかり受け取る。グレープ味だ。
「すみません。スケジュール、厳しいみたいですね」
 清瀬も凜のモニタを覗き込む。
「かなり余裕がないので、手戻りがあると致命的です。私もまだまだ経験が浅いですが、ここまでカツカツなのは初めてです」
「ということで、僕が少しお手伝いに」
「え!」
「宮本さんから聞きましたが、次の往訪時にトップページのモック出しするんですよね。画面設計とモックデザインを僕が担当します。社長からも正式にアサインされましたし、別案件はほかのデザイナーさんに巻いていただきましたのでご安心を。本件は、川倉さんにもサポートしてもらいますのでクオリティ面でも担保できると思います。朝野さんと宮本さんは、今はディレクションに集中してください」
 清瀬から後光が差しているように見えた。
「ありがとうございます! よろしくお願いします!」
 そして、思い出したように伝える。
「そういえば、今回ロケがあるんですって。楽しみですね」
「ああ、先方がカメラマンさんやモデルさんまで用意してくれるっていう……。大掛かりですよねぇ」
「その割に納期が……」
「そこに戻ってきましたか……」
 ふたりのため息が重なる。凜はキッと顔を上げる。
「それだけ厳しいんです。次の往訪でデザインの方針を固められれば、かなりの前進です。清瀬さんにかかっていますので、どうかよろしくお願いします!」
 思わず清瀬を拝む。
「拝まれちゃいました。頑張りましょう」
 そう言って清瀬はデスクの方に戻っていく。
 次回往訪まであと四営業日。多少の残業をしながらも、まだ小さいチームながら、プロジェクトは少しずつ進んでいった。
 
 二日後、トップページのモックアップの確認会議が行われた。
 凜はデザインを見るのが好きだ。プロジェクトが目に見えて進んでいるのがわかる。新しいものを創っているという実感が沸く。
 会議室にいるのはプロジェクトメンバーの宮本、凜、清瀬と、サポートの土浦、川倉。コーダーとしてアサインされた梅澤(うめざわ)。梅澤は三十代後半の女性で、ベテランのコーダーだ。コーダーとは、デザインされたウェブサイトを実際にインターネット上で閲覧、動作ができるようにプログラミング言語を使って作り上げる職種だ。
 それから、アドバイザーとしてマーケターの佐久間。佐久間も梅澤と同世代の女性だ。茅場も会議室の端に座っているが、どちらかというと弟子の成果を見に来た師匠の立ち位置でいるらしい。
 清瀬は茅場の存在は特に気にしない様子で、会議室のプロジェクターにPCを繋ぐ。鼻歌を歌い出しそうなほどに、リラックスしている。
「お待たせしました。現時点でのモックをお出しします」
 清瀬はPCを操作しながら、ツールで作られたモックを映し出す。
「素材についてはロケを行いますので、現サイトから取得したものや、商業向けフリー素材サイトのものを暫定として使っています。まだ動きがついていませんが、それについては梅澤さんと口頭ベースで詰めています」
 凜は鳥肌が立つ。この瞬間が大好きだった。
 画面を見せながら、清瀬が説明をしていく。エメラルドグリーン、赤、茶、ゴールドなどのカラフルな色合いに、猫や鳥、壁画のようなイラストや写真など、コンセプトに合ったデザイン。キーヴィジュアルを大きく取る流行りの構成に、文字の大きさやレイアウトも良い。情報設計においても過不足は感じられない。
 ああ、素敵だ、と思う。このデザインのサイトをこれから作り上げていくのかと思うと、気分が高まる。
 同時進行で凜が作り、共有した遷移設計織り込まれており、トップページからの遷移先に漏れはなかった。
 続いてスマートフォン表示のデザインが映される。こちらもPC版の内容が網羅されており、問題ないように見える。
 川倉のサポートがあったとはいえ、完成度がかなり高い。茅場も特に口を挟むことをしない。
 発言したのは、マーケターの佐久間だった。
「かなり画像が多いですね。商材的に仕方ないのかもしれませんが、サイト速度が重くならないか心配です。SEOに響きます。事前の分析では自然検索流入が多く、影響は小さくないです」
 SEOとは、検索エンジン最適化のことで、ウェブ検索をしたときに上位に表示されるようサイトを最適化する技術のことだ。自然検索とは、検索エンジンからかつ、広告からではないサイト流入経路を指す。指摘されてみると、ページデザインのゴージャスさは諸刃の剣のように思える。
 土浦が発言する。
「確かに佐久間さんの言うとおりではある。おそらくパーク名の指名検索が多いだろうが、テーマパークの比較検討の際には不利になりかねないな。佐久間さん、検索ワードの分析は進んでいますか」
「それが、必要なツールが連携されておらず、取れませんでした」
「なるほど……」
 宮本が発言する。
「とはいえ、競合を見てみると、同様に重いサイトが多いです。その中で快適なサイト速度を実現できればアドバンテージになりますが、これからコーディングで動きも入るし、現時点ではトップのモックアップのみです。デザイン重視の先方にイメージをもってもらうことを優先し、サイト速度についてはコーディングが入ってからか、ローンチ後の対応としませんか」
「承知しました」
 佐久間は了承する。宮本は頷いて、話を継いだ。
「では、次回往訪時はこちらのイメージを持ってすり合わせを行いたいと思います。茅場さん、土浦さん、何かありますか」
 茅場は無言で首を横に振る。土浦も特にない、と答える。
 清瀬はこころなしか、ホッとしたように見えた。
 会議はお開きとなった。
 
「お疲れ様でした」
 会議室の片付けを手伝っていた凜が清瀬に言う。
「よかったです。集中砲火にならなくて」
「社長、いましたしね」
「心臓に悪いのでやめてほしいんですよね」
「え、全然そんなふうにみえませんでしたよ。リラックスしててすごいなって」
「本当ですか? 格好がついたなら良かったです」
 清瀬は照れたように乱雑にコードを束ねる。凜が言う。
「でも、助かりました。設計から作ってくださったので」
「いえいえ。新しいサイトを、しかもトップを作るのは楽しいですね。画像の重さは課題ですが、ロケは楽しみです」
 凜は大輪の花のような笑顔になる。清瀬はその様子を見てぽかんとするも、押し殺したように笑い出す。
「本当に楽しみなんですね……!」
「笑わなくてもいいじゃないですか!」
「すみません。まずは往訪、うまくいかせないといけませんね」
 凜は少し不満が残るが、これ以上の追及はやめた。
「そうですね、頑張りましょう!」
 
 *
 
 往訪日の朝。凜にとっては、久しぶりの往訪だった。
 まだまだ駆け出しディレクターの凜は、既存案件の運用を先輩から引き継いで担当することが多い。引き継ぎ時に、営業さんや前任ディレクターとクライアントを訪問してご挨拶することはある。しかし、あとはメールや電話でのやり取りが主だ。
 チームで新規案件のお客様に伺うのは、凜にとっては初めてだった。
 
 いつもよりも早く出社した凜は、落ち着かない様子で、自席で何度も資料を確認する。今日は滅多に着ないスーツ姿だ。
「落ち着きなさいな」
 見上げると三田が苦笑している。凜はすがりつくような声を出す。
「三田さんー……」
「大丈夫だって。土浦さんも宮本さんも清瀬さんもついているでしょう? あ、営業の鈴原さんも! 社会見学のつもりでいきなさいよ」
「そうなんですけどお……」
「スーツも似合ってるわよ。薄ピンクのブラウスが上品でいいわね」
 凜は首を傾げる。
「え、これ薄い水色ですよ」
 三田は目を軽くこする。
「あら。光の加減かしら。それか疲れ目かなぁ」
「最近はこの案件の事務手続に追われていましたもんね。ついでにツールのライセンス更新重なっていましたし……。しっかり休んでくださいね」
「それには、あなたたちのスムーズなプロジェクト進行がかかっている!」
 三田は凜の両肩をつかむ。
「だからプレッシャーかけないでくださいよぉ」
「アハハ」
 ふたりがじゃれていると、土浦と清瀬が一緒に出社してきた。ふたりともスーツを着ている。
 土浦は立場上、スーツを着ているところを見ることも多いが、清瀬のスーツは初めて見た。
 ダークグレーのシンプルなツーピーススタイル。白のシャツにネクタイもネイビー系で、靴やベルトも焦げ茶色と、年齢にあった組み合わせだ。髪も少し押さえて、ウエーブが目立たず、顔が隠れにくい形にセットされている。
 クリエイターらしく、カフスやタイにこだわりを見せてくるかと思ったが、TPOを優先している。さすがの気遣いだ、と凜は思う。ただし、例の伊達眼鏡はいつもどおりかけられていた。
 早速、三田が声をかける。
「あらー、清瀬くん、スーツ似合うじゃない。……あ、これセクハラになる⁉」
「えー、どうなんでしょう」
 スーツでも、清瀬本人はいつもと変わらない。
 しかし、凜は心臓が早鐘を打つのを感じる。普段のゆるくてオシャレなファッションを見慣れているので、ギャップに驚いただけだろう、と自分に言い聞かせる。
 凜は、心を誤魔化すように清瀬を茶化す。
「なんか、もっとこう尖った感じのスーツスタイルかと思っていました」
「尖ったって?」
「革靴の先とか?」
 皆、その姿の清瀬を想像したのか、場にいた全員が爆笑する。どう考えても清瀬には似合わないチョイスだ。
 目尻の涙をぬぐいながら、清瀬が言う。
「そういうファッションも似合う人は似合うんでしょうけど、僕には合いませんね」
 他の二人はまだ笑っている。よほどツボに入ったようだ。
 思い切り笑ったことで、多少緊張が解けた気がする。
「さ、往訪の用意して!」
 土浦が手を叩くと、その場が締まる。
 凜も準備を始めた。
 
「ディレクターの朝野です。よろしくお願いします」
 声は震えなかっただろうか。名刺を渡す手はブレなかっただろうか。不安が去来する。
 緊張の名刺交換を終え、先方の担当者の名前を確認する。テーマパーク部門の事業本部長の来栖(くるす)。五十代後半の男性、いかにも大企業のエグゼクティブ、という風格だ。それから、ウェブ企画担当の綿谷(わたや)と葛西(かさい)。綿谷が四十代くらいの男性、葛西はアシスタント的な立場なのか、二十代半ばくらいの女性。
 賀久井リゾートテーマパーク事業本部側が三名、クルールデザインラボ側が土浦、宮本、鈴原、清瀬、朝野の五名の打ち合わせが始まった。
 まずは、宮本からコンセプトのまとめとスケジュールの説明。
「サイト制作は、大まかに分けて、事前調査、要件定義、情報設計、デザイン、コーディング、および今回の場合はバックエンドシステムの繋ぎこみ、そして検証と進み、ローンチします。工程が進んだ段階で前の工程に戻ると、いわゆる〝手戻り〟という状態になり、大幅な時間ロスとなります。なお、現在は事前調査と、契約の関係から一部の要件定義とデザインまでに留まっている状態です」
 宮本は、一呼吸置いて続ける。
「土浦や茅場からお話があったかもしれませんが、今回の納期は、内容と照らし合わせると、厳しいものになる可能性があります。したがって、このスケジュールで示された各期間のみ、直前の作業の修正依頼をお受けしますが、そのスケジュールが崩された場合、納期かクオリティのどちらかを諦めていただく可能性があります。個人的には、ウェブサイトはあとから更新できるため、クオリティを妥協して、リリース後に少しずつ直す形が良いかと思います」
 かなり踏み込んだ内容だ。凜がハラハラしていると、案の定、来栖が口を挟む。
「最初から遅れることが前提というのも縁起が悪いが、五ヶ月ほどあるわけだろう? 素材も撮るからといって、工場で製品作っているわけでもあるまいし、ウェブの制作にそんなに時間がかかるもんかねぇ」
 凜は悟る。浅い経験値でもわかる。これは、まずい。
 ウェブ制作に疎い人間の中には、ウェブという手に取ることができないものなど、すぐに出来上がると思っているタイプがいる。しかし、先輩から話に聞く程度で、凜自身は初めての遭遇だ。最近ではかなり珍しいと思っていたが、おそらく来栖はそのタイプだ。
 ちらりと綿谷と葛西のほうを見る。少し苦笑いしているように見えるが、何も言わない。来栖がキーマンなのだ。
 目線を動かして土浦の方を見ると目が合う。ゆっくりとまばたきをする。土浦にとっても不本意な案件なのだろう。
 宮本が来栖の疑問に回答する。
「たしかに今回は、システム的には既存のもののつなぎ込みだけで済みます。しかし、素材をイチから撮るとなると、大量の加工か必要となります。サイト全体の動きも多く、使いやすさも求められます。総合的に難易度が高い案件と思っております。弊社としても万全の体制で臨みますが、石橋を叩いて渡るとも申します。十分な注意が必要、ということです」
 うまくかわした。来栖はまだ何か言いたげだが、無言で何度か頷いた。凜はデスクの下で拳を握り、小さくガッツポーズする。
 宮本は来栖の様子を見ると、問題ないと見たか、話を進める。
「では次にトップデザインのイメージですが……────」
 1時間の会議は、何とか終了した。
 
「ありがとうございました!」
 エレベーターの中で、クルールデザインラボのメンバーが揃って深々と例をする。
 エレベーターの扉が閉まるのを確認し、メンバーが頭を上げたのと同時に、全員から深いため息が漏れた。
「疲れた……」
 宮本がポツリと言う。PMだから当然といえば当然だが、今日のプレゼンのほとんどを宮本は担った。相手は大手企業の事業本部長。さぞ疲れただろう。土浦も宮本の肩に手を置く。
「お疲れさん……」
 宮本はげっそりした様子で不満を漏らす。
「土浦さん、珍しいじゃないですか。こういうタイプの案件」
「それなあ、俺も茅場も油断したんだよ。親会社時代、俺と茅場は賀久井リゾートのホテル部門を担当していたんだけど、とても理解ある部門と担当者でな。早めに素材はくれるし、リテイク期間は守るし、ウェブ制作やウェブ広告というものをわかっていた。だからテーマパーク部門もきっと大丈夫だと思ったんだが、思った以上に縦割りというか……文化が違ったな」
「運が悪かったのか……」
 エレベーターが地上に着く。
 高い天井のスタイリッシュなロビーをぞろぞろと一団が歩いていく。
 雰囲気を変えるべく、凜が努めて明るく言った。
「でも、モックデザインは好評だったじゃないですか! さすが清瀬さん」
「川倉さんのサポートのおかげですよ」
 まだ見慣れないスーツ姿の清瀬は、照れ隠しのように伊達眼鏡を直す。
「お客さんは大抵誰もがデザインを見せるとテンションが上がるものだ。このあと『あのときも違和感があったのに言い出せなかった』とか言われないといいんだが」
「やめてくださいよ、宮本さん……」
 凜が諌める。今の宮本は徹底してネガティブらしい。そうとう堪えたようだ。
「あ! そうだ!」
 営業の鈴原が急に発言する。鈴原は凜と同期の男性だ。
「契約書ですが、ようやく押捺となりそうです! 先方の稟議に時間がかかったので、やっとですよ」
 明るいニュースに、場の空気が軽くなる。土浦が言う。
「おお! やったな、鈴原くん。これで制作も本格稼働できる」
「えへへ、三田さんが締結のサポートをしてくださったおかげです」
 童顔の鈴原の笑顔は、皆を和ませた。
 気力が復活してきたらしい宮本が言う。
「じゃあ、ロケまでにひととおりのページの設計を作り終えて、必要な素材を洗い出すぞ。なかなかハードな作業だが、朝野さん、清瀬くん、頑張ろうな」
「はい!」
 ふたりは元気よく答えた。
 
 制作は加速していく。
 
 *
 
 契約の締結が完了し、制作は本格化していく。毎日のように会議を行い、スケジュールと戦いながら設計をする。
 少しずつ残業も増えてきたが、凜にとっては充実した日々だった。
 
 そして、プロジェクトは順調に進み、ロケの日がやってきた。
 
 ロケに随行するのは、PMの宮本、ディレクターの凜、それからデザイナーの清瀬。現地集合だ。
 天気は快晴。凜は朝から気合が入る。いつもよりもカジュアルに、チュニックトップスと薄手の長袖パーカー、そしてワイドデニムパンツにスニーカー。髪は軽く巻いて、日焼け防止のキャスケットをかぶる。
 郊外にあるパークへの電車は、朝早いことと、下りであることからガラガラだ。仕事なのだとわかっていても、口元の緩みは隠せなかった。
 ゲート前で待ち合わせる。クルール組は先に全員揃い、カメラマンやモデルなど人数の多い賀久井リゾート組を待つ。
 宮本がニヤニヤとしている。
「朝野さん、本当楽しみそうだね。アトラクションとかは、屋内で写真指示のとき以外乗れないよ?」
 凜は慌てて反論する。
「いいじゃないですか! ロケありの仕事なんて滅多にないんですし! 昨日までになんとか必要な写真も一覧化しましたし、ちゃんと仕事します! ほぼ全ページのワイヤー作って、写真イメージを出すの、すごく大変だったんですよ!」
「ごめんごめん、頑張ってくれたのはわかってるから」
 凜は少し言い淀みながら、ゲートの向こう側から飛び出して見える、でも決して大きくはない観覧車を見てこぼす。
「……うち、親が厳しくてこういう遊園地とか、連れて行ってもらったこと、ないんです。友達と遊びに行くのも許してもらえなくて。思えば大学から一人暮らしなのだから、そのときに行ってしまえばよかったんでしょうけれど、大学生の頃は、別のことでけっこういっぱいいっぱいで。だから、アトラクションとか乗れなくても、雰囲気だけでも楽しみなんです。どうしても浮かれちゃって、すみません。仕事ですから、自制しますね」
「え!」
 宮本と清瀬は同時に驚く。
「朝野さんのとおうち、そんなに厳しいんだね」
 宮本の声に憐憫が含まれる。凜はハッとして、笑顔で言う。
「そうなんですよ! 頭固くて参っちゃいます」
「雰囲気だけですが、存分に楽しみましょう。幸い、写真撮影箇所はパークに散らばっていますから、見て回れると思いますよ。ゆっくりはできないかもしれませんが」
 清瀬が柔らかい声で言う。その声色は心地よく、凜を安心させた。
 そんな話をしているうちに、賀久井リゾート組が到着した。賀久井リゾートの社員は、往訪の際に会った綿谷と笠井だった。
 被写体のモデルや、カメラマンと簡単に挨拶を交わし、従業員出入り口からパークに入る。
 賀久井エジプシャンパークは、世界観こそ作り込まれているが、広さ自体は然程ではない。夕方になるまでに撮り終わり、翌日からは写真の選定と加工に入る予定だ。
 お客さんが少ない平日の朝から昼間を狙い、たとえばジェットコースターなら一台モデルで借り切って他のお客さんが写らないようにする必要がある。必然的に、パークのお客さんには少し待って貰うこととなる。行く先々でパークのお客さんに頭を下げた。
 それでも、凜は存分に世界観を楽しんだ。
「あ! 清瀬さん! こっち! 猫のオブジェがありますよ。エジプトって猫を大切にするからですよね。このオブジェ、コンセプトページのここに使えませんか?」
 ワイヤーフレームを印刷した紙束を持って、清瀬と確認し、カメラマンに撮影を依頼する。賀久井リゾートの綿谷と葛西にも随時確認するが、基本的にはクルール組の判断にお任せの構えだ。
「清瀬さん、清瀬さん、見てください! これ、壁画の再現ですよ! ここ、レストランですね。レストランページのこの部分にどうでしょう」
 そう言って振り向くと、清瀬は体を丸めて笑いをこらえている。
「ちょ……何笑ってるんですか!」
「いえ、ちゃんとお仕事されてるのはわかってるんですよ。わかってるんですけど、はしゃいでいるのが可愛くて……すみません」
「え!」
 凜は思いもよらない言葉に絶句する。頬に熱が集まるのを感じる。
「何言ってるんですか! からかっているんですか⁉」
「からかうつもりはないんですけど……不快になられたらすみません」
「不快……ではないですけど、驚いて」
「あはは、ごめんなさい。さ、次の撮影ポイントに移動しますよ。次は屋内アトラクションの撮影ですから、僕たちも端っこに乗せてもらえるみたいです」
 そう言って、スタスタと歩いていってしまう。
 清瀬はこんなにも簡単に「可愛い」と言ってしまう軟派な男なのだろうか。どんな女性にも言っているのだろうか。それとも……。
 
 混乱する頭に凜は自ら思考の冷水をかける。
 ただのコミュニケーションだ。私が子供みたいにはしゃいだから、きっと諌める意味で言ったんだ。落ち着こう。
 
 私のことを本心から可愛いと言う人なんて、いるわけがない。
 
 大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。胸元に手を置く。大丈夫、落ち着いた。
 凜は、清瀬の後ろ姿を追いかけた。
 
 滞りなくロケが終わった翌日、ほっとする間もなく、大量の写真処理に入る。
 凜と宮本は、先方のカメラマンに送ってもらったデータを仕分けし、簡素な指示書にしていく。
 写真の加工処理には、ほかにもデザイナーが動員された。あまりの写真数の多さに、凜もトリミングや加工を手伝う。
 清瀬は動画担当も兼任。テレビコマーシャルレベルとはいかずとも、一定のレベルが求められる。動画については、凜も宮本も詳しくないので、茅場と川倉に直接指示をもらって対応する。しかし、スケジュール上、先行するのはページデザインのため、動画の作業は後回しにされがちだった。
 残業が増えてきた。溢れるほどの写真素材と、組み合わせの難しい色。デザイナーチームは奮闘した。
 凜も、クリエイターへの指示出しと同時に、ライティング業務に当たる。クルールデザインラボは小さい会社のため、専属のライターはいない。ディレクターがコンセプトに合わせて、ページの文言を決めていく。
 
 そして三週間後、全ページのデザインベースができあがる。清瀬は、ツールを使い、ファイル内でページ遷移やカルーセルの動きがわかるようなプロトタイプに、デザインをまとめあげる。
 出来上がったプロトタイプファイルを、凜は祈るような気持ちで賀久井リゾートに送った。
 
 もちろん、これが最初の確認ではない。主に宮本が折衝役として、ページごと、時には写真イメージの確認を細かく進めてきた。
 クライアントの反応は遅く、スケジュールは予定より押している。そのたびに宮本は土浦や川倉に相談して人員の調整を行い、なるべくメンバーの労働負担を減らそうとした。もちろん制作に人が足らないときは宮本も凜も手伝いに入る。
 しかし、坂道を転がる雪玉のように、スケジュールの遅れは増えていく。コーディングで巻き返せるかが鍵だった。
 
 宮本と凜は、体力的にも精神的にも追い詰められていた
 良いサイトを作りたい。
 クリエイターたちの負担を可能な限り軽くしたい。
 それだけで動いていた。
 
 そして、凜がメールを送った翌日の夜遅く、悪夢のような返信が返ってきた。
 
 その朝、土浦、宮本、凜、清瀬、川倉が、直行で賀久井リゾートテーマパーク事業本部を往訪した。
 挨拶もそこそこに、宮本が事業本部長の来栖に食って掛かった。
「単刀直入にお伺いします。何故、このタイミングでメインカラーと構成の変更の依頼をなさいましたか」
 宮本のギラギラとした視線と、怒りを隠さない態度を土浦が止め、来栖に謝罪する。
「宮本さん! ……宮本が大変失礼いたしました。しかし、ここまで細かく確認を進めてきたのに対して、ご要望の変更事項はかなり厳しいものです。何故こういったことになったのかお教えくださいますか」
 来栖は指を組んで大きくため息をつく。
「確かに確認はしてきたがね。昨日、プロトタイプですべてのリンクが繋がった状態になったものを触ってみて、率直に使いにくいと感じた。私はウェブの素人だが、その素人目線で使いにくいと感じたのなら、お客様にとっても使いにくいだろう」
 凜は唇を噛む。ページ遷移の設計についても確認を重ねてきた。プロによる設計評価で悪い結果が出たなどの理由ならまだしも、そんな感情的な理由でちゃぶ台返しをされるのは、いくらなんでも理不尽だ。
 来栖は続ける。
「メインカラーもだよ。メインカラーはコンセプトに大きく関わる。全体像を把握していながら、メインカラーを正しく汲み取れなかった御社の実力に責任はないのですかね」
 川倉が反論する。
「お言葉を返すようですが、メインカラーの指定は、御社からのものです。綿谷様からのご指定のカラーコードでの作成をしました」
「あなたは御用聞きしかできないのか? デザイナーとしてより良いものを提案するプライドはないのか」
 川倉は目を見開き、言葉を失う。来栖が言っていることはめちゃくちゃだ。凜は、綿谷と葛西のほうを見る。綿谷は凜の視線に気づいて目をそらし、葛西は泣きそうな顔をしていた。
 凜は察する。綿谷はともかく、葛西は逆らえなかったのだ。
 来栖の主張は止まらない。
「だいたい、君。そこの若い眼鏡の男性」
「僕ですか?」
 下を向いていた清瀬は、突然指名され驚く。
「そう、君。今回のメインのデザイナーだろう。ロケにも来ていた。君、デザイナーなのに色覚異常なんだって?」
 その場が凍る。何故、そのことを知っているのか。
 川倉が言う。
「何故そのことを? それに、清瀬はそのハンディキャップを感じさせないほどの実力を持っています。その話は関係ありません」
「関係あるだろう。メインカラー、つまり色だ。色の選定を適切にできなかったのは、君のそのハンデのせいではないのか」
「断じてありません!」
 川倉が感情的になる。普段気さくな川倉からは想像ができない剣幕だった。
「川倉さん!」
 土浦が押さえる。
「失礼しました、来栖様」
「さっきの宮本さんといい、そちらの川倉さんといい、御社は客先対応の教育に問題があるのではないか」
「申し訳ございません」
 土浦は立ち上がり、頭を下げる。
 その場にいた、クルールのメンバーにとって、酷い屈辱だった。
 少しの沈黙の後、土浦は椅子に座り直し、話す、
「来栖様、本件、すべてを直そうとすると、そうとうな時間がかかります。また、サイト構築後に変更することも難しい箇所です。どうか譲歩していただけないでしょうか」
 来栖は即答する。
「するわけがないでしょう。ウェブサイトにどれだけ払っていると思っているのか」
「では、ローンチを伸ばすことになります」
「どのくらいかかる」
「メインカラーのすり合わせの時間を含めて、少なくとも一ヶ月以上は」
 来栖は前にのめり出す。
「バカを言うな! そんなことをしたら十二月、一月のかき入れ時を逃すだろう!」
「では、修正はできません」
「できません、で済むか! ウェブサイトなんてすぐに作れるだろうが! もったいぶらせて水増し請求するつもりか!」
 凜はたまらず口を挟んだ。
「そんなことはありません! これまでの確認のやり取りで、時間がかかることはお察しのはずです!」
 凜は、PCを開いて、競合他社のサイトを見せる。そして、そのコードを表示した。
「こちらのサイトは、この膨大なコードで動いています。こちらのサイトに限りません。ウェブサイトはこのようにコードによって動きます。そして、このプロジェクトは、まだそのコードを書く、コーディングにすら至っていません! サイトは魔法のようにできあがり、動くものではありません!」
「小娘が黙っていろ!」
「こむっ……!」
 凜はショックのあまり、言葉が出てこない。
「土浦くん、本当に君の会社はどうにかしているな!  伝説のディレクターも堕ちたものだ」
 土浦は、沈黙し、そしてゆっくりと口を開いた。
「朝野の物言いについては謝罪いたします。しかし、来栖様。今、朝野が申し上げたことは事実です。それにウェブ制作において、工程を逆流する〝手戻り〟が発生すると、大きな遅れに繫がることは、当初よりお伝えしていたとおりです」
 落ち着いた、そして静かな迫力のある土浦の前に、来栖はやっと沈黙する。
 土浦は、押し黙った来栖を見て、そのまま続ける。
「妥協点を提案します。メインカラーについては、再度御社内でご検討し、明確にご指定ください。エジプシャンパークのコンセプトを最もよくご存知なのは御社です。当社のセンスなどで変えられるものではありません。
 次に構成変更ですが、優先順位の設定をお願いします。すべての対応は難しいですが、スケジュールが許す範囲まで対応します。
 最後に、スケジュールについて。半月の延長でいかがですか。予約のことを考えると厳しいとお考えなのは理解できますが、クリスマスから年末シーズンには間に合います。そのうえで、こちらも人員を追加しますので、予算の増額をお願いしたい。今の人員では、述べた妥協案でも対応しきれません」
 すべての問題点を少しずつ削り取った妥協案だった。そして、人員確保のための予算の増額。
 しかし、クルールのメンバーは理解している。これでも、かなり厳しい。
 来栖は、自分の我儘が完全に通らないことをようやく理解し、諦めたようだ。腕を組んで考え込む。
 そのときに、細く、高い声が入り込んできた。
「本部長、私は賛成です。ここまで譲歩してくださっているんです」
 葛西だった。綿谷は何も言わず、下を向いている。
 来栖は葛西のほうを見遣る。葛西の体が強張る。
 思いもよらない人物からの意見を受け、来栖が言った。
「仕方がない。それでいいだろう。ただし、予算に関しては稟議を通す必要がある。急ぎ見積もりをいただけるか」
「承知しました。帰社してから検討し、営業の鈴原から連絡をさせます」
 土浦が答える。何とか着地ができたが、クルールのメンバーは全員苦々しい顔をしていた。
 これは、炎上案件だ。
 
 クルールのメンバーが席を立ち、退出しようとしたとき、突然、清瀬が発言した。清瀬はひどく緊張しているように見えた。
「来栖様、ひとつ伺います。僕が色覚異常であるということは、誰からどのように聞きましたか」
 メンバーの全員が振り向く。来栖は鼻を鳴らして答えた。
「タレコミだ。フリーアドレスからメールがあった」
 ギリ、と清瀬の歯が鳴る。
「そうですか、ありがとうございました」
 清瀬は最後まで感情的な発言をせず、一礼をして収めた。
 
 一階ロビーまで降りたあと、「皆様!」と聞き覚えのある声が響く。葛西だ。クルールのメンバーは立ち止まる。
 ヒールを鳴らして、葛西が駆け寄ってくる。
「本当に、申し訳ありません! あんなにも素敵なサイト案を作ってくださったのに……! 私は……とても素敵だと思って……社内でも発言したのですが、綿谷さん……綿谷は何も言わないし、私のような若輩の意見は受け入れてもらえず……!」
 葛西は泣いていた。
「すみません、お見苦しいところを……!」
 クルールのメンバーで唯一の女性の凜が答える。
「ありがとうございます。先程も来栖様を止めてくださって。どこまでできるかわかりませんが、ご希望に添えるよう、努力します」
 葛西はしゃくりをあげながら言う。
「あり、ありがとうございます……。私もなるべく早く確認やお返事ができるよう、社内の調整を頑張ります。私にはこれくらいしかできませんが……!」
「十分です。よろしくお願いします」
 葛西に見送られながら、一行はビルを出る。凜は、少しだけ救われた気がした。
 九月も下旬というのに、朝から蒸し暑さが鬱陶しい。会社に向かうまで、誰もがほとんど口を開かなかった。
 凜は、よく回らない頭でふと思いついた。リアルに"小娘"って言う人、存在するんだな……。
 
 そして帰社後、さらなる地獄が待っていた。
 
 *
 
 凜たちが会社に戻ると、異様な空気が出迎えた。
 それまでざわざわと仕事をしていたのに、一行がオフィスに入るやいなや、しん……と沈黙する。ヒソヒソという、内容が聞き取れない声があちこちから上がる。
 茅場が立ち上がる。
「あの話は忘れろと言っただろう!」
 茅場は大股で土浦のほうに歩いてきた。
「土浦!」
「何事だ!」
 同時に凜に三田が心配そうな顔で駆け寄る。
「朝野さん。あのね……」
「三田! 俺が今からまとめて話すから良い」
 茅場の一括に三田はびくりとする。
「直行組は全員会議室へ。他の社員は業務に戻るように!」
 茅場はそれだけ言うと、ノートPCを持って会議室に入っていく。凜たちも慌てて後をついていく。
 何か悪いことが起きたのは間違いない。吐きそうになるような不安を胸の中に押さえつけながら、凜はすくみそうになる足を動かした。
「例のメールが今朝、全員に撒かれていた。正しくは昨日の深夜の送信だが」
 土浦の顔色がさっと青くなる。土浦には何が起きたのかわかっているようだ。
 茅場は会議室にいるメンツを見回して言う。
「かなり前に、俺にだけきたイタズラメールがある。俺は土浦にしか相談しなかったし、そのあと何ヶ月も音沙汰なしだったが、昨夜、そのメールが会社全員のメーリングリストに流された」
 凜の心臓は口から飛び出しそうだ。何が書いてあったのか、もどかしく思う。
「皆のところにも届いているだろうが、気づいていなかったということは、直行でメールを見る暇がなかったか」
「こっちもそれどころではなかったからな」
 土浦が言う。
「では、今から見せる」
 皆が茅場のメール画面を覗き込む。
 清瀬の息を飲む音が聞こえた。
 
─────────
件名∶クルールデザインラボ所属社員清瀬和臣に関する告発
 
本文∶
 
クルールデザインラボ所属の清瀬和臣は、色覚異常であるにも関わらずデザイナー業務を行っている。
それは当人のできない範囲の業務に関しては、外部の第三者に無断で委託をし、自らの成果としているからである。
これは会社と顧客に対する重大な背任行為である。
 
─────────
 
「なんですか、これは!」
 川倉が取り乱す。茅場は淡々と答える。
「見ての通り、怪文書だ。これが確認できる範囲では、社員全員に送信されている。顧客からの問い合わせはないから、内部のみと見ていいだろう」
 凜は清瀬を見る。清瀬は口元を手で覆い、モニタを凝視している。
「またフリーメールか」
「そうだ」
 土浦は一見落ち着いているが、指をせわしなく組み替えている。
「また、ってどういうことですか」
 宮本が尋ねる。
「以前、俺のところにのみ来たメールも同じフリーメールのアドレスからの送信だった。まあ、同一人物だな」
「……賀久井リゾートの事業本部長の来栖さんのところには、僕の色覚異常に関するメールがあったそうです」
 涼しげな声が挟まれる。清瀬だ。この状況において、落ち着いている様子に、凜は信じられない気持ちになる。
「しかし、この第三者どうこうという話は出ませんでした」
「メールの内容の一部が送られたんだろうな。社外には、会社の評判を落とさせたくないような行動だ。妙に分別のある犯人といえる」
 茅場の冷静な分析に、凜は震える声で言う。
「では……これではまるで……清瀬さん個人のみを攻撃しようとしているしか……!」
「そうなりますね」
 冷静に答えたのは清瀬だった。
「茅場さん、僕への疑いはどんな感じですか?」
 茅場は会議室のデスクに頬杖をつく。
「まず、俺はこんな馬鹿げた話は一切信じていない。それだけは先に断言する。俺はお前をこんなことをするデザイナーに育てた覚えはない」
 清瀬は少しだけ頬が緩んだ。師匠からの信頼に安心したのだろう。茅場は続ける。
「社員たちは微妙だな。道理で、という奴もいたし、こんなことをするような人間ではない、という奴もいたし、まさかとは思うけどあり得るかも、という奴もいた。社員にこのメールを消させ、SNSへの書き込み含めて一切の他言を禁じたメールを送信したし、朝礼でも言ったが……」
「外部に出す馬鹿はいないと信じたいが、内輪話に関しては止められないだろうな。人の口に戸は立てられない」
 土浦が茅場の言葉の後を拾い、呻くように言う。
「よりによって、このタイミングで……」
 茅場は頭を押さえながらも、なんとか答える。
「よりによって、だからだろうが。どう考えても狙って昨夜打ってきた。土浦、そっちの交渉はどうなった」
 宮本が答える。
「土浦さんの交渉で、多少譲歩はしてもらえましたが、やはりメインカラーは変更、構成もできる限りの変更対応です。予算に関しては検討してもらえるそうなので、帰社しだい、鈴原くんと見積もりを詰める予定だったのですが……」
「厳しいな……」
 茅場の一言が、鉄の網を被せられたように重苦しい。
 それから、誰も発言しない時間が続く。凜には永遠のように長く感じたが、実際には数秒だったのだろう。
 沈黙を破ったのは川倉だった。
「……仕様変更のことは今嘆いてもしかたありません。まずは怪文書のことをどうにかしないと、追加のアサインに響きます」
 清瀬の肩が僅かに揺れる。川倉はそれに気づかず続ける。
「私も清瀬がそんなことをやるなんて、全く思っていない。というか、社員の大半はただ動揺しているだけでしょう。堂々と、清瀬のPCのメールボックスやチャットツール、これまで作ってきた成果物のファイルや工程ファイルを確認しませんか。どうせ何も出てきませんが、少しは騒ぎが収まるかもしれません」
 茅場は腕を組んで天を仰ぐ。悩んでいるようだ。チャットなどは個人的なやり取りも多い。会社のチャットやメールとはいえ、個人の通信を暴くことになる。
「……和臣、いいか? さっきも言ったとおり、俺はお前のことを全面的に信用しているが、ほかの社員に不信の種を残すわけにいかない」
 清瀬は大きく頷いた。
「なんの問題もありません。どうぞ、公明正大にやってください」
 茅場たちが会議室から出ると、また視線が集まる。凜は目眩がしてきた。
 茅場が宣言する。
「清瀬くんに関する怪文書のことだ。今から、清瀬のメールやチャット、ファイルの確認をする。俺は清瀬くんを信用している。しかし、皆も知っていると思うが、清瀬くんは俺に師事していたことがある。そうなると共犯を疑われかねない。だから、これから公明正大に捜査をすることにした。緊急なものを除いて業務を中断し、清瀬くんの席周りに集まってくれ」
 ざわりとした動揺が波を打った。ある者は好奇心に満ちた目で、ある者は不信感を隠さず、ある者は不安げに顎を撫でながら、清瀬の席を目指す。
 四十人程度が在籍するクルールデザインラボの全員は清瀬のPCを確認できない。
 入れ代わり立ち代わり、前に出たり後ろに下がったりしながら、落ち着かない公開捜査が始まった。
 
 まずは清瀬がパスワードを入力し、ロック解除する。そして席を離れ、川倉が代わりに席に座った。
 メールの送信履歴から確認していく。
 清瀬は壁際に寄りかかって、その異様な様子を見ていた。
 凜は一瞬迷ったが、清瀬の横に移動した。
「朝野さん。見なくていいんですか?」
「いいです。何も出ないのはわかっています」
 きっぱりと言い放つ。
 清瀬は凜をまじまじと見る。
「どうしましたか?」
「いえ……朝野さんは、なんでそんなふうに僕のことを信じてくれるんですか」
 凜は少し考えてから、言葉を選んで慎重に話す。
「うまくまとめられないのですが、信じているから、としか言えません。半年近く一緒にお仕事をしてきましたが、清瀬さんは常に誠実でした。苦手なことはあるかもしれないですけど、それを自覚して受け入れているから、人からのアドバイスを求めることも厭わない。そして、なにより自分の作ったクリエイティブにプライドを持っています。第三者に依頼して、手柄だけ抜き取るような人は、きっとそんなプライドなんてない」
 清瀬は何も言わない。凜が不思議に思って見上げると、清瀬はうつむき加減で口をきつく結んでいた。目尻に小さな光が見えた気がした。
 凜も清瀬もそれ以上何も話さず、PCの捜索が終わるまでふたりでただ、佇んでいた。ふたりの立つ場所だけが、静寂だった。
 
 捜査の結果は、何も出ないという、予想通りの結果で終わった。
 メールの送受信先は顧客や社内、会社が提携している外部委託企業。チャットは社内のものなのであまり重視されなかったが、案件に関わる部分などな念の為調べられた。しかし、怪しいところはなし。極めつけとして、作業工程の途中保存ファイルや詳細なメモなどがローカルフォルダにあり、それは清瀬本人がデザインを作っていることの何よりの証拠だった。清瀬の疑いは晴れたと言える。
 川倉の目論見どおり、ただ浮ついていただけの社員の混乱は収まったように思える。しかし、一部の社員の不信感は拭いきれなかったようにも見えた。たとえ証拠があろうとも、感情が納得できないこともある。
 そして、最大の不安が社員たちの心に巣食った。次は自分が標的になるのではないか。
 だが、これ以上にやれることはなかった。
 チャットの内容まで暴かれたのだ。清瀬にとって、今日何度目の屈辱だっただろうか。そのことを想うと、凜はこんな手段しかできなかったこと、そうでなければ、止められなかったことを申し訳ないと思った。そしてすぐに、たかが若手の自分にできることなどないのに、ずいぶん傲慢なことを考えたものだと、自省した。
 土浦が声を張った。
「結果は出た!こんなものにかまけている時間はない。踊らされれば犯人の思うツボだ。今日の往訪で賀久井リゾート案件に手戻りが発生した。これから、皆の力が必要だ」
 あちこちの社員から悲鳴のような声が上がる。「手戻り⁉ 確かあの案件、スケジュールが……」「燃えたか」
 土浦は案件のメインメンバーを順に見回しながら、指示を出す。
「宮本くんと朝野さんは人員見積もりの上、鈴原くんと連携。川倉さんと清瀬くんはメインカラーの再指定が来るまでは、変更の影響が少なそうな部分のデザインの詰めを行ってくれ!」
 茅場もそれに乗る。大きくパアン! と手を叩く。
「土浦、この案件、お前も入れ」
「わかった。主にクライアントとの交渉だな。追加見積もりから、俺もジョインする」
 凜は身震いをする。
 こんな卑劣な手段に負けてなどいられない。
「清瀬さん、頑張りましょうね!」
 清瀬も笑顔で返す。
「はい、ありがとうございます」
 
 その日、凜は宮本、土浦との今後の流れの打ち合わせで終えた。本当は再スケジュールまで終えてしまいたかったが、茅場と土浦は社員全員に定時で帰宅するよう指示した。
 精神的な疲労への配慮だろう。
 凜は残った仕事が頭に残りつつも、しぶしぶ帰り支度をする。
 すると、スマートフォンに、清瀬からメッセージが届いた。会社にいるのに、会社のチャットではなく、個人のメッセージとは珍しい、と思いながら、開封する。
 
《今日は、いろいろお疲れ様でした。この間、新しいカフェが近くにオープンしたんですけど、ケーキがとても美味しそうなんです。このあと時間いかがですか?》
 
 *
 
 マロンクリームの濃厚な甘みが、脳に染み渡るようだった。
 
 清瀬の誘いに乗って、指定されたカフェで合流した。先に清瀬が着いていた。
「朝野さん、こっち」
 手招きする清瀬の席に向かう。女性ウケしそうなオシャレなカフェだ。帰宅時間のカフェは、半分程度の席が埋まっていた。凜は応える。
「お疲れ様です。もう疲れ切っていたので、助かりました」
「本当に今日はいろいろありましたね……。さ、何にします? ショーウィンドウ見ました? ここのケーキ、美味しそうでしょう?」
「見ました見ました! かわいいし美味しそうだしで目移りしちゃいます。迷った結果……今日はモンブランにしようかと思います!」
「いいですね。僕はオペラにしようかなと」
「大人ですね!」
 凜は、変にテンションが高くなっている。そうでもしないと、心が折れてしまいそうだったのだ。しかし、凜がこのまま誘いを断って帰っても、悪いことばかり考えてしまいそうだった。それなら、清瀬の提案に乗って、気分転換したい。
 
 そして今、ふたりはケーキを頬張っている。清瀬がしみじみと言う。
「染みますねー……」
「ケーキではあまり出ない食レポですけど、気持ちはわかりますよ。清瀬さんは甘いもの好きなんですか?」
「僕、甘いの好きですよ」
「意外な気もするし、似合う気もします」
「なんですか、それ」
 昼間の出来事を忘れたかのようにふたりで笑う。
 ぺろりとケーキを食べ終えて、こだわりの紅茶を飲む。瑞瑞しい香りが鼻孔を抜ける。
 ふと訪れた瞬間の沈黙のあと、清瀬が話しかける。
「朝野さん」
「はい?」
 ふわりと笑い、清瀬は言った。
「僕、朝野さんのこと、好きです。恋愛的な意味で」
「え?」
 凜は固まる。
「ごめんなさい、驚かせましたよね。でももう、言ってしまいたくて、お呼び出ししました。というか、この変なテンションのときじゃないと、言ってしまえないと思って。
 僕のことをいつも真っ直ぐ信じてくれて、助けてくれて。情けないことに僕は庇われてばかりなんですが……。朝野さんは同僚として、先輩としてそう振る舞ってくれていただけなのかもしれませんが、僕は……僕にとっては特別です。あなたのことが、好きです」
 凜は心を落ち着けるように大きく息をした。そして、意を決して言う。
「ごめんなさい」
 清瀬は刹那、寂しさを瞳に帯びたが、すぐに苦笑いで誤魔化す。
「こちらこそ、すみません。僕の勝手な想いの押しつけで……しかもこんな大変な日に。よければ、これからも変わらず接してくれると嬉しいです」
 凜は泣きそうになるのを必死に我慢する。そして、自覚する。ああ、私もこの人が好きだ。清瀬からの言葉で、これまで過ごした時間が次々に思い出される。
 初めて会ったときの驚き。仕事が速く、人懐っこい。飄々として柔らかで。どれだけ侮辱されても負けない、強くて優しい人。
 自分も好きだと言えたら、どれだけ良いことだろうか。どれだけ幸せだろうか。
 でも、言えない。きっと凜の秘密を知れば、清瀬に拒絶される。始まりよりも前に、終わりを予感した。凜はそれを恐れた。
「ごめん……ね。私はあなたに好きになってもらえるような人間ではないんです。清瀬さんには私なんかよりも素敵な人がきっといます。だから……」
「そんなこと……」
 凜はゆっくりと頭を横に振った。
「私は清瀬さんにふさわしくない。それ以上は言えないけど……」
 清瀬はゆっくりと目を伏せてから顔を上げ、凜を見据える。
「……わかりました。困らせてしまってすみません」
「困ってないですよ。これからも、仕事仲間としてよろしくお願いします」
 その日、ふたりは笑って別れた。

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