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落語ってすごいな

不眠にいいと教わったのをきっかけに落語を聞き始めて数年、ついに寄席へ行った。音源と映像以外で落語に触れるのはほぼ初めてだ。
会場の様子、舞台上でふるまう落語家、そして噺の内容、さまざまなものに新鮮な違和感があってとてもおもしろかった。
 
・舞台と客席の関係性
開演直後から驚いたのは、客席の照明がずっと点いていることだ。なるほど落語は上演ではなくライブで、舞台と客席の境界が閉じていないんだな。お互いがよく見え、お互いが働きかけあうことが前提なのかな。

とはいえ、もちろん落語家は終始客席へ話しかけてくるわけではない。公演中は
①完全に客に対して喋る(演目の合間とか)
②物語のナレーションや台詞を演じる(客席を無視)
③演目中に客席へ向けて語る(ナレーションと違い副音声/解説っぽい。声の主は現実の世界にいる)
などの異なるモードが混在していて複雑だった。

「客に喋る」と「噺を演る」はとうてい別物なはずだけど、それらがどんどんスイッチする。客もそれに合わせて自分たちを意識したり忘れたりを繰り返す。モードを変えながらずっと没入できるのはすごいことだ。

 
・するする導かれていく感覚
何よりも興奮したのはやはり見事な語り、喋り、話し、噺、である。
落語家がふわふわと登場し、のんびり話しだしたのを脱力して聞いていたら一瞬の隙に演目が始まり思わず息をのんだ。それまでのふやけた意識をキュッと集中させられる。話題を急に変えるとか一拍おくとかもなく(その方法もあるとは思うが)、なめらかに落語の世界が広がる瞬間は圧巻だった。

そしてオチのあとも落語家は話し続け、その雑談がまたいつの間にか落語に!という展開は、まるで何かに乗って導かれながら景色を眺めているような……とても不思議な心地よさだった。
個人的にはDJがすっごい気持ちよく曲をつなぐのを聴く快感に似ている。
 

・脈絡がなく呆気ない
これは音源だけで聞く時にも思っていたが、落語って見せ場や盛り上がりを色々と見せておいて「そこでそのオチで終わるの!?」と感じることが多くありませんか。それまでの内容に対して結末が若干ずれているような感覚、もしくはさらなる展開を期待した瞬間に訪れる唐突なラストシーン、あるいはその両方。そして取り残される私。そのあっけなさにも笑えてしまう。だから「結末」とは言わず「オチ」なのか(調べたら正式な表記は漢字で「落ち」らしい。言い得て妙である)。

まあしかし、これは私が噺の内容を知らないから抱いている感想なのでしょう。
もしこれから既知の噺を見ることがあったとして、そこにはまず「知った道をなぞる」という古典特有の愉しさがあり、また想定を裏切られて新鮮に驚く喜びがあるのだろう(今回の落語家は「噺の途中で終わる」という手法を一度だけやった。自在だなあ)。
このような落語の愛し方はその先にも延々と用意されている気がするが、とりあえずその手前でもちゃんと楽しい実感があるのでうれしいことだ。
 

などなど、初心者などほぼいないであろう会場の雰囲気に戸惑いながらもへえ~と思うことが色々あり満足した。
そしてやはり身振りのある落語はとても楽しく、今回は3つの噺を聞いて「人間味があっていいな、でももうちょいしんみりしたやつも聞きたいな」と思うなど、今後も前向きに楽しみたいと感じている。

【追記】
落語の本質とは何か、という話題をラジオで聞いた。そこで言われていたのは「落語の物語は登場人物や舞台がどれも似ている(似た設定で複数の演目がある)。序盤はそれが混沌としていて"何の話か分からない"のを、細かい会話やモチーフによって"分岐させて演目の検討をつけていく"ことになり、それが楽しいのである。だから物語の流れだけをざっくり抜き出した”あらすじ”には本質がなく、落語の魅力を伝えるのには十分でない」というようなことだ。
歌舞伎や浄瑠璃といった決まりきった結末に向かう古典芸能(私が上で「なぞる楽しさ」があると書いたもの)とは違って、落語は「混沌からスタートして徐々に特定することを楽しむもの」でもあるのか!
言われてみれば、落語は演られるまで演目内容が明かされない。音楽やお笑いのライブと同じだ。そういった瞬間的な楽しみ方をできるという点、先の見えないハラハラもお決まり事の安定感も味わえるというのが落語の普遍的な魅力の一つなのかしら。