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甘ったれる

「ニャーン」猫に話しかけられたことのある人なら、その時に胸の奥から湧き上がる甘美な気持ちを知っているだろう。甘い甘い、逆らいがたい喜び。さっきまで必死に話し掛けても知らんぷりしていた猫なのに、まっすぐにこちらを見つめながら「ニャーン」とひとなきして歩み寄る。なんとも嬉しい瞬間だ。

谷崎潤一郎の「猫と庄造と二人のおんな」は、庄造の気を引く為に、猫に翻弄される女たちの話、または女たちに板挟みにされ翻弄される猫と庄造の話とも言える。

スキャンダル王の谷崎だから、この話の裏にも、いつものごとく実在のモデルがいる。詩人・佐藤春夫に妻を譲る譲らない、やっぱり譲ると大騒ぎだった小田原事件(細君譲渡事件)の直後に結婚した古川丁未子と細雪の次女のモデル谷崎松子だ。

新妻福子が松子、前妻品子が丁未子らしい。伝記には、前編掲載から後編掲載までの期間が半年も空いているのは、前編掲載直後に再婚した丁未子への遠慮があったと書いてあり、もしかしたらストーリー変更や、書き直しがあったのではないか?などと想像してしまう。

さて、今回気になったのは二点。猫好きの気持ちの描写追い出された品子の心の中の描写の巧さ。特に、品子の気持ちは、聞いてきたかのように女心を描き出していて、追い出された虚しさ、切なさ、悔しさがここまで書ける谷崎が、丁未子を追い出したのか…と背中が寒くなりました。

そして、猫!愛猫の死後剥製まで作らせたというくらい猫好きだったと言われる谷崎のことですから、猫の愛らしさの描写はもちろん巧いですが、猫の飼い主の、猫を心の支えにするような、猫に認められて惚れ込んでしまうような人間の描写がすごい。

人前では冷たくし、二人きりの時にだけ、心を許す。いつもは気ままに行動しているくせに、不安な時には飼い主を頼る。そんな猫の姿は、女房にも母親にも子供扱いされて自身のない庄造の心に寄り添う。亭主と姑に追い出されて居候生活の品子の心に寄り添う。人間に甘えることで、人間の甘ったれた寂しさを肯定してくれる。

猫の世話を焼くことは、庄造にも、品子にも心の拠り所になる。人間は猫の奴隷だなんて、冗談を聞くけれど、中を開ければ、持ちつ持たれつ人間と猫は助け合っているようだ。

愛猫リリーの愛情が取り戻せないことに気づいた時、品子とリリーの間に確かな信頼関係が築かれているのを目にして、庄造は自分が可哀相なひとりぼっちの人間になったことに気付く。棄てられたのは品子で、リリーも遣ってしまわれたのだけれど、自分こそが可哀相だと。

そんな勝手な言い分あるものかと思ってみても、やはり果たして、本当に不幸せなのは庄造であることは誰の目にも明らかだ。

庄造は猫に、一人前の主人として扱ってくれるリリーに甘ったれていたのだ。何も出来なくても、甲斐性がなくても、リリーがいてくれれば、リリーの一人前の主人でいられたのだ。

人間の劣等意識を取り除き、価値を与えてくれる。

猫はあの小さな体に大きなパワーを隠し持っているのだ。恐ろしい。誰もが肥大した承認欲求を持て余していると言われるこの時代に、私たちはいつか、猫なしには暮らしていかれない甘ったれにされてしまうかもしれない。

恐ろしい事のような…そうさせてもらいたいような…。


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