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名もなき怪物の憂鬱

「頭に釘が刺さっていない」 

Facebookのコメント欄に貼られた一枚の写真を見た私の感想。ジュネーブにあるフランケンシュタインの怪物像だった。200年前に書かれた名作で、何と作者は若い女性で、父にアナキズムの先駆者、母にフェミニズムの創始者を持つという。生まれて初めてフランケンシュタインに興味が湧いた。

フランケンシュタインといえば、失敗作の凶暴な人造人間。私たちの慣れ親しんだ怪物くんに出てくる「ふんがふんが」の温厚なあの子と本物は違うらしい。子どもの頃に聴いていて固まっていたイメージ。「本物の映画は恐ろしいんだよ」しかし、映画が既に原作を外れているというのだ。これは原作を読むしかないだろう。

この作品は北極大陸への航路発見と磁力の秘密を知るために、命を投げ打って旅に出たウォルトンの手紙、ウォルトンが助けた謎の男ヴィクター、ヴィクターの打明け話に出てくる彼が造り出したおぞましい怪物の身の上話という三つの話の入れ子構造だ。

私は読み進めながら、読書会であらすじを皆さんに話しながら、気付いていた事がある。どうあがいても、怪物に肩入れしてしまう。醜く生まれた怪物は、やがて幼気な少年を殺してしまうのだが、どうしてもその事より川で溺れた少女を助けた挙句に銃で撃たれた事を強調したくなる。ヴィクターの親友と妻を殺すのだが、それはその前にヴィクターが怪人の生きる希望にするための伴侶を欲しがる気持ちを踏みにじったのだと主張したくなる。

そうだ。怪物は恐ろしい殺人を犯す。しかし、そうなるには理由があったのだ。哀しい理由が。

これが怪物でなくて人間ならどうだろう?とても人間とは思えない残虐な犯罪を犯した人を、私はどう見ているのだろうか。虐げられ、蔑まれ、排除されてきた挙句に犯した罪にに私は同情的だろうか?ヴィクターにはどうか?生まれ出たばかりの怪物を遺棄した博士ヴィクター・フランケンシュタインには同情的になれるか?

昨今は、人権侵害の具体的な線引、わかりやすい事例の情報が豊富にあり、被害者が声をあげやすくなった。それ自体は喜ばしい。虐げられている事実に気が付かず、虐げられ続けて苦しみの正体がわからぬまま酒や薬やギャンブルに依存して、身をすり減らして安らぎを得られぬまま一生を終える。そんな事が続いてきたのだ。是非、人権意識を高めて、被害者を早期に救い出せる社会がいいはずだ。

しかし、加害者についても、無視していきたくはない。たとえば、ヴィクター・フランケンシュタインが生命を無責任に遺棄した自覚が不足している原因は、自身が美醜差別の持ち主だと自覚していない事、そして差別に基づき怪物を遺棄した罪を意識出来ず、しきりに生命創造という禁忌を冒したことへばかり罪悪感を感じている事。

これは、虐待をする親の心理に酷似している。自分の持つ正義感が全てであり、自分の落ち度に気が付けない。それは必ずしも高慢というだけでなく、無知であるということも含まれるのだ。彼らは本気で話す。しつけだった。将来を絶望した。幸せにしたかった。可愛がっていた。

ヴィクターの暮らす世界では血筋と美貌は正義だった。それだけのことだった。それ以外を知らなかった。疑問を持たず、探しもしなかった。

例えば、性暴力の加害者は、それが罪にあたるという自覚を持っていないという。短いスカートの女性を見て、「見られたくて履いているから覗く」と真顔で言う男に批攻撃以外で、それは危険で野蛮な考えだと伝える方法はないのか?あればいいのにといつも思う。チャレンジして、はねつけられるたびに、何かないかと考える。

被害者を守る事、味方になる事と、加害者を理解していく事は、感情的には両立し難いが、しかし不可能ではないはずだ。そう信じたい。

正義が多様である事を知った今、勧善懲悪で世界を割り切って進むことは難しい。200年前のメアリーが、私たちに語りかける事を、私たちは未だに解決出来ていない。しかし、反対に言えば、英知を持てば、世界がどうであれ、メアリーのように知り、考え、追い求める事ができたのだ。彼女は怪物に英知を与えた。感情を与え、言葉で語らせた。

ソクラテスは言った。「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」

この名もなき怪物と、愚かな創造主の悲劇を私は繰り返し読みたいと思う。英雄が求めて手に入れられなかったもの、英雄が終止符を打つ時に受け取ったものを、何度でも確かめたいから。



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