自分さえ良ければいいのと、ありのままの私であることは違う
夫の出張に生理が重なった。
家事も育児も一人でやらなきゃいけないのに、猛烈に眠いダルい。
それでも息子はいつも通りだ。
「ママ~見てみてー!」
「ママ~一緒にあそぼー!」
こちらの都合などお構い無くママコールは続く。
いつもは笑顔で対応できることができない。
そしてついに強めに怒ってしまった。
息子の動きが止まる。
薄暗い中でも彼の悲しみの表情がはっきりと見えた。
そして次の瞬間、私を窺うような顔になり大人しくなった。
「あ、気遣われた」と思った。
息子を怒ってしまった、悲しませてしまった、気遣わせてしまった。私の心は罪悪感でいっぱいだった。
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私は自分が一番大事だ。
それに私は最近、「私は私でいい」「ありのままでいい」と自分を許すことを意識している。
だから、怒ってもいいしイライラしてもいい。これがありのままの自分なんだからしょうがないじゃん!最初はそう思った。でも何か違和感が残る。
ホントに?自分さえ良ければいい?
息子の悲しそうな顔が頭をよぎる。
違う。私は息子と笑顔で楽しく過ごしたい。決してあんな顔させることは好みじゃない。
怒ってもいい。イライラしてもいい。相手を悲しませることがあってもいい。私はそのままでいい。これは本当。私が許す。
でも、相手とも気持ちよく過ごしたい。笑顔でいてほしい。これも本当。
矛盾しているようだけど、これこそが「ありのままの私」だと思った。我慢はしなくていい。けど自分の気持ちと相手の気持ち、うまくバランスをとってお互いに気持ちよく過ごせるとこを見つけたい。
決して、自分さえ良ければいいと相手の気持ちを無視することは望んでいない。そう気づいたら、私が息子に「気遣われた!」と思った瞬間、彼も同じ気持ちだったんだろうとということにも気づいた。
息子は私の気持ちを汲み取って、譲ってくれたんだな。
ありがとう、ごめんね、許してね、愛してるよ!
私は私のまんまでいい。
君も君のまんまでいい。
そのうえでお互いに育み合いたい、という気持ちがあるからやっていけるんだ。お互いに許しあえるんだ。
今朝は「ママ~見てみてー!」の声を聞いて、朝食の準備の手を止めて息子が呼ぶほうへ行ってみた。テレビの中で機械のオモチャが歩いていた。
「すごいね~すごいね~」と二人で感動を分かち合った。
この上なく幸せな瞬間だった。
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