めがね
視力が、すこしわるい
日常生活にはそこまで支障がなくて
道ですれ違う知り合いに
近づかないとわからないくらい
コンタクトは苦手だし
眼鏡は曇るからあんまりしないんだけど
そのくらいでみえる世界が
あんがい好きだったりする
細部は見えないし、表情もみえない
そのくらいの世界が
わたしにはちょうどよかったりする
場の空気、という言葉が
いまほど当たり前に使われていないころから
その場の空気には敏感だった
だいたい、わかる
このひとの感情は、こんな色だな、とか
いまこの人たち、ぜんぜん笑ってないな、とか
それは学校だと
優等生的なポジションになりがちなのだが
親の仕事への反抗という側面から
あえて背くことをしていた
これはほんとうに良かったと
そのころの先生たちには申し訳ないが今でも思う
空気に従わないことで、
同調圧力たるものの怖さと愚かさを実感したし
本質を考えるくせがついた
そして個人間のやりとりでは
建前が嫌いになった
薄っぺらいコミュニケーションで成り立つ
もはや成り立っている意味すらわからない
そんな関係なんかくそくらえ、と思っていた
ストレートに感情をぶつけてくる相手は
それがネガティブなものでも、とてもありがたい
嬉しくはないけれど、ありがたい
そんな、空気は
視力から感じ取るものではなくて
皮膚とか、感覚が感じとっているもので
あまり、めがねはいらない
だから見たいときだけ
めがねをかけるようにしている
建前なんか見たくないし
本意ではない圧力なんか
気づかなかったことにしてしまう
ぜんぶ、見えているんだけどね
わかってるんだけどね
感じすぎてしまうことが
見えすぎてしまうことが
時に、
人を傷つけることも知っている
苦しめることを知っている
ほんとうにクリアにするべきところは
そこじゃないんじゃない?
ぼやけた世界くらいが
わたしにはちょうどいい
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