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ただいてくれること、の価値について


わたしにとっての、本当に大切な人が急に亡くなった。
高血圧が、とか自覚症状のない癌が、とか理由はいろいろ聞いたけれど、急に亡くなった事実は別に変わらない。あの人はもういない。


小さいころから当たり前が信じられなかった。世の中に正解なんてないし、良いとされているものなんて主観か世の中がつくりあげた虚構のようなものだ、なんて思っていた。
でも自分自身の心だ志だなんてものはわからないし、あったとしてもそれに従うほどの自信もないから、優等生の道を半歩ずれたところをずっと歩いてきた。誰からも後ろ指刺されず、それでいて自己を保つ精一杯の逃避だったように思う。

そして同じくらい、小さいころから人が信じられなかった。ことばは言った側はすぐ忘れてしまうし、意志なんてすぐに揺らぐ。好きということばの浅はかさも歳を重ねるにつれて感じるようになった。それでいて自己愛は強いから厄介な人間になってしまったのだけれども。


そんな半生を送る中で、親でもない、言ってしまえば他人からの無償の愛を感じ続けてこれたことは、光る才も何かを貫き通す覚悟もない中途半端な自分が、自己を保ち続けるうえでなくてはならなかったものだったように思う。


その人は、いつも、ただそこにいてくれた。
誕生日や入学、卒業といったお祝いの際には、「つかずはなれずで見守っているからね」というメッセージをいつもくれた。

家出してその人が待つ家に行くこともあったし、誰にも話したくないこともその人にならいえる存在だった。
顔を見せるだけでオーバーすぎるくらいに喜んでくれたし、何か話すとそうなんだね、て優しく頷いて、いつも食べきれないくらいのご飯を作ってくれた。

社会人になってから、ほとんど帰ることはなくなったけれど、あの人がいる、て存在感は私に帰る場所、を常にもたらせてくれていた。
帰る場所がひとつじゃない安心感とか、ただそこにいてくれる人の大切さとか、こんなに私が言うのは、なによりも私自身があの人の存在で生かされてきたからだった。

その人たちが生きて、はたらいてるまちだからわたしはこの仕事をはじめたのかもしれないし、もらった愛はどこに贈ればいいんだろうって考え続けられているのかもしれない。


ただ、いてくれること。
わたしにとってそれは、日々をあとちょっと頑張ろうって思える原動力になりえるし、すこし無謀な一歩を踏み出す背中を押してくれる。

そんなものをくれたあの人はもういない。
たぶん、すごいかなしい。
たぶん、というのは今はまだテキストでしか突きつけられていない現実だから。物質的な死に向き合ったときどうなるのかは正直わからない。

心の中で生き続けてる、とか使い古されたフレーズは抵抗があるし、死んだものは死んだ。それは変わらない。そして思い出も色褪せるし、生きたことばと会うことは二度とはない。

でもこうやって朝とはまた違う感情で涙は溢れるし、この文章も読んでくれたら心が軽くなるな、と思う人もいる。


やっぱりわたしはい続けられる存在でありたいんだ。そこに距離は関係ない。
でもね、そのひとは言う気がするんだ。

「あなたがいちばん、これだ、と思うことをすればいいよ。誰に言われても自分で決められるのがあなたのすてきなところなのだから」


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