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わかるということ


とあるきっかけで、編集者の方とお話をした

その方からはいろんな話を聞いたんだけど
ある話がとても印象に残った


「作家の思いを受け止めて咀嚼する存在になることはとても大事。ただ、全部を話しきった、わかってくれたと感じた瞬間に書くことをやめてしまうこともある」 


的なお話し
(少なくともそう解釈した)


書くことに対しての自分の感覚は
まさにそういうことな気がしていて


受け止められていない感情だからこそ
この場に出すことで一旦思考のフィールドから切り離しているのかもしれない、と

それを受け止められたとき、ことばは生まれなくなる

そんな気がしている


はじまりがあれば終わりがあるように
完結してしまうものに、「クリエイティビティ」はないのかもしれない

終わりが見えないから、もがき続けるし
終わりが見えないから、次を探し続ける

安寧の世界の中で生み出す言葉が
創造性をもたないものというわけでももちろんない


ただ、真に迫ることば、一文、作品が
理解できない世界から生まれることも確かである

それは表に出る時、その世界の住人が必死に言語化に近づけたものを、編集者がおおむね近い言葉、言うなれば「大衆の」言葉にしたものである

そこからヒトは影響を受け、感じ、共鳴する

わかる、というのはまたその人が作り上げたメタファーであり、
自分が共感しうる偶像を創り上げているのだと思う

わかっているのは、あなたが感じ、作った
「わかるもの」なのである




わかるってなんだろう

自分の気持ちなんて誰かにわかるはずもないし
わかってもらえなくてもいいと思う

なのに、
あなたのことはわかりたいと思ってしまう


ただ相手を「わかりきりたい」というのは
相手の世界を壊すことにもなり得る



今日もあなたは私のしりえないあなたの世界を生きていて
だからこそ明日わたしの目の前に現れるあなたは


昨日よりも、
今日よりも、

過去いちばんのあなた

そこを壊すことはできないし
したくもない


あなたの世界が
より彩りのあるものになっていたら


それでいい
それだからこそ、いい

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