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たわいもない話、 こそ。

本文入る前に、言い訳がましく。

要点つかない1,529文字の、
ひとり言。


「たわいもない話は大事かも」という仮説をもとに、
仕事上での「たわいもない話」を自分のなかで紐解きたい。

まずは、ことば遊びから。

「たわいもない」の意味は
「取るに足りない」
「取り上げる価値がない」
などがあがる。

また、
「たわいもない」を分解すると、
「たわい」「も」「ない」にわけることができる
「たわい」には「思慮分別」という意味がある
「他愛」という漢字が当てられる
「も」は助動詞になる
「~もない」で「最低限あるはずだけど、ない」状態
「~さえ、ない」と同義語
つまり、
「普通ならあるはずの思慮分別さえない」
という場面で用いられる言葉。

参考
https://news.mynavi.jp/article/20210906-1940696/

「思慮分別さえない」...... 。
「物事の道理や善悪を注意深く判断せず」ってことか。

そっか。

そこで思う。
誰かとの会話、特に仕事では、
全てが道理や善悪を注意深くする必要がはたしてあるのか?

個人の見解は「ノー」。

考察までいかないが、
個人の見解をタラタラと、はじめる。


仕事の場面を想起する。

公の場。
課外での交渉、上司への相談報告、会議内のプレゼンなど、
特に実績や存続自体を左右するような場面では、
理路整然な思慮分別が希求される、はず。

一方、
日々、自部署の場。
特に職場環境へ馴染むことや、
仕事を円滑にするためには、
「たわいもない話」が重要になってくる、かもしれない。
肌感として。

なぜなら、
思いつきで考えられることとして

たわいもない話こそ、
・その人の「人となり」が見える(価値感)
・話をしていいんだという心境(安心感)
・あらたな発見(気づき)
・緊張感からの休息(メリハリ)
など得られることが期待できる。かも。

日々の仕事場面では、
ガチガチな「レジメ」通りの話ばかりより、
ある程度の「アソビ」がある話を随所に入れた方が、
人っぽい。あくまで個人の見解。

仕事で、
目的通りの「成果」と
目的以上の「効果」を期待するとしたら、
その過程で「たわいもない話」をどれだけしたか。
なのかもしれない。

そのためには、
たわいもない話を
「する」スキルと、
「してもらう」スキルが、
必要なのかもしれない。

あ。もちろん、
ずっと「たわいもない話」ばかりだと、
緊張感を苛まれてしまう。
一歩間違えると、
「馴れ合いの職場」
「空気が読めない人」に豹変しかねない。

要は、「たわいもない話」には、
「メリハリ感」ってやつが伴走する必要があるだろうか。

経験則であるが、
「たわいもない話」ができる人は「仕事で成果」を出せ、
「仕事で成果」を出す人は「たわいもない話」をしている。

わたしは、このような人を、
「仕事が上手な人」と呼んでいる。

繰り返しておく。

やはり、
仕事を円滑に進めるためには、
「たわいもない話」の上手な使い手と受け手になる
必要があるのではないか。


冒頭に戻る。

「たわいもない話は大事かも」の仮説。

わたしの経験と見解から、
・やっぱ大事。

わたしの経験と見解から、
・仕事で成果を出す人は「たわいもない話」が上手。

って、内容にくわえて、
その理由をタラタラ残してみた。



飛躍がひどい、ひとり言。

スマホを指でタップすれば欲しい情報が入り、
AIが文章を作ってくれる、昨今。

そんな効率性が正義と謳われる現代社会だからこそ、
義務教育とかで、
「たわいもない話の授業」とかいいじゃないかなぁ。
楽しそう。

物事を捉える感性(インプット)と
それを伝える能力(アウトプット)は
どこで養うんだろう。

もしからしたら、必要ないのかもな。
これからは。

けど、やっぱ。
スマホやAIが教えてくれる情報も大事だけど、
しょーもない話も大事にしなきゃ。


まとまりなく、
思うがままタラタラ残してしまった。

では。では。

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