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許します

この人は許せないと長年思ってきた人がいる。

5年ほど前の昼下がり。
奥の席でアイリッシュコーヒーを注文したご婦人の席から、ガシャッと嫌な音がした。
さりげなく席に行ってみると、革のコースターに乗せたグラスが小さな丸テーブルの隅に寄せられていた。下げようと思い声をかけて手を伸ばすと、そのグラスにはヒビが入り口は割れて欠けていた。
「えっ?!」と思ったけどご婦人は知らぬ顔。
まさか「割りましたよね」という訳にもいかずかと言って黙って下げるのも嫌で咄嗟に
「ヒビ入ってますが大丈夫ですか?」
と言ってみると
「大丈夫よ」と雑誌に目をやったままの答え。
それ以上は言葉が見つからずグラスとコースターをそのまま下げてきた。

この方、飲食後の食器を隅に寄せる癖があって
この時も多分コースターごと寄せていて倒したに違いない。革のコースターは滑らないのでテーブルに引っ掛かるような感じで、その勢いで倒れた。ということはこの仕事が長い私には見ていた事のように想像できる。

「すみません。」その一言があったなら気持ちもそこで終わっていたけど、何事もなかったかのような態度に「この人は許せない」お客にランクインしてしまったのです。
他のグラスなら代わりはあるけどこのアイリッシュのグラスは長年大事にしてきたグラスで、今は売ってなくて手に入らない。オークションやメルカリで見つけても瞬殺で売れている貴重なグラスだ。

飲食店を長くやる秘訣は「忘れること」だと以前偉そうに書いたけどこれは忘れることのできない出来事で、それ以来この方が来店しても笑顔の下は冷え切っている状態が続いていた。

そんなご婦人もコロナ以来見かけなくなって
忘れていたけど、先日ふらりとやって来た。
もう大きな外車には乗らず、自転車も危ないので歩いて来たという。
「ここにね、来たくても来れなかったのよ。ああ。やっぱりここのコーヒーは美味しいわ。あなたも頑張ってね」と。
母より歳上のご婦人はすっかり背中も曲がっていて、「10年ぶりに来たわ」って言うし。
それでもここを憶えていて来てくれたという事実。

許します。ええ。許しますとも。
そして私の気持ちもひとつ軽くなった。



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