オリジナルなんて、お呼びじゃない

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じつは……ともったいぶって告白するようなことでもないが、むかし朝日新聞のテレビ欄に私の投書が掲載されたことがあります。高校生くらいの時だったかな。

内容は「テレビの洋画劇場で映画を放送するときに、放送時間に合わせて映画をカットするのはケシカラン」みたいなことで、たしか「額縁に合わせて絵画を切り取ることはないだろう」みたいなカッコイイことを書いた記憶が。

額縁に合わせて絵画のほうを切ること、ありますよね(笑)

まあ若気の至りというやつでしょうが、これで原稿料5000円いただいたんだから、ありがたいやら、申しわけないやら。

とはいえ、映画放送時のカット問題は、このころ映画ファンの間ではけっこう論議されていて、おおむね「映画に対する冒涜」的に受け取られていました。ちなみにこのころは「日本語吹き替え」も不評でしたね。

いやいや、いま考えると、アオイね、言ってることが。

そもそも映画の「オリジナル」って、何?

撮影が終わり、編集やダビングをすませた映画、大雑把な言い方でクリエイター側を代表させてしまえば監督さんが作りあげた映画――作家論や芸術論的にいえば、そうして監督さんたちが作った、あるいは作ろうとしたものこそが「オリジナル」ということになりますね。その映画がそのまま映画館にかかるべきだ、なんて思ってる純粋な映画ファン、いまは少なくなってるのでしょうか。

たとえば、「ジョーズ」(1975年)でヒットメイカーに躍り出たスティーヴン・スピルバーグ監督ですが、まだ若造だったゆえか、あの映画での編集権は取り上げられていたとか。プロデューサーたちは、最終的な編集をベテランの編集者ヴァーナ・フィールズに委ねたのです。なので、あのスリリングなリズムやスピード感は、スピルバーグだけではなく、編集者フィールズの技術に負うところが多かったと言います。こうした技術的な問題ならば、まあ納得がいく場合も多いでしょうね。

でも、映画は、究極的には興行です。そして、興行には興行の都合があります。観客という名の消費者に、映画館へ足を運ばせチケットを買わせる、いってみれば「映画を売りつける」ためには、監督さんの持つビジョンを、時にはぶち壊してでも、映画を商品としてパッケージする必要があるのです(もちろん監督さんがそう意識している場合もあります)。

いちばんわかりやすいのは上映時間。今でも、やたらに長い映画は嫌われると言います。理由は簡単。短い映画のほうが長い映画よりも1日の上映回数を多く出来るから。なので、監督さんの意図に関わらず、容赦なく「尺を縮める」権利は、契約上プロデューサーが確保しているのが普通です。

ほかにも、例えば観客の年齢層を想定して、流血や残虐シーンの多少、そのドギツサの塩梅、性愛描写の有無……興行の成否に関わるレーティング(年齢制限枠。日本では映倫審査による)を左右する、こうした要素をめぐる攻防は、時に監督さんとプロデューサーの大喧嘩に発展します。

まあ、逆にこんな例もあります。大昔の英国ハマープロの「吸血鬼ドラキュラ」(1958年)は、当時は残酷描写に寛容だった日本市場向けに、流血シーン盛りめのバージョンを作ったとか。テレンス・フィッシャー監督が関知しないカットも存在したという都市伝説がありました。

アメリカの伝説的プロデューサー、ロジャー・コーマン大先生などは、海外で買い付けた映画をアメリカのマーケット向けに大改造するのが普通でした。短くカットし、シーンの順番を変え、ときには新たに取り足したフィルムを追加し、はなはだしい場合には映画そのもののジャンルまでもが変わるような改造をするのです。こうなるとオリジナルも何もありません。あくまで商売優先。乱暴といえば乱暴な話ですが、それでいてコーマン大先生、「1セントの損もしなかった」と豪語できるのだから、尊敬です。

そうした商売上の都合のほかにも、その映画そのものや一部のシーンの描写が「政治的に正しい」かどうかの判断があります。これは国や地域によって基準の違いがあるので、それぞれに合わせたバージョンを作り分けたりをする場合もあるわけです。

一方で、それに対抗して(?)、ヒット作を出して信用と資金力を身に着けた監督さんは、そのパワーをもって反撃し、自らの意図に近いものを実現させようとします。スピルバーグが「未知との遭遇」の「特別編」を実現させたのも、彼が一流監督として力を得たからでしたね。最初の公開(1977年)から3年後のことでした。

皮肉なことに、この「未知との遭遇・特別編」が興行的に成功したせいで、その後「ブレードランナー」など、こうした「完全版」「ファイナルバージョン」「ディレクターズカット」が、むしろ積極的につくられるようになりました。現在では、逆にこうした「スペシャル版」そのものを商売にしているくらいです。DVDやブルーレイで、さまざまなバージョンを売れば、ひとつのコンテンツで何通りものソフトを売ることもできるわけですからね。やり過ぎると嫌われるけど。

まあこうしたさまざまな事情の「結果」として出来上がるのが、無数の「バージョン違い」の映画たち。こうなると、どれをもって「オリジナル」とするかなんて、無意味ですよね。

こうした「バージョン違い」を楽しむのも楽しいし、薀蓄も豊富になるわけなので、かつては新聞に投書までした映画少年だった私も、今ではむしろこうした「額縁に合わせて絵画を切り取る」行為を支持しています。私も大人になったわけですね(笑)

わが家に「燃えよドラゴン」など同じ映画のソフトが複数あるのには(いくつあるかは訊かないで)こんな理由があるのですよ。もちろん、コレクター魂ゆえでもありますが。朝日新聞社からもらった原稿料5000円は、とっくに償却されております

【本文はこれで全部です。もしもお気に召しましたらご寄進下さい(笑)】

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