江戸っ子力士逝く

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龍虎さんが亡くなった。(2014年8月29日死去)

二枚目で遊び人、突っ張りを主武器とした「気風のいい」相撲で、つねに番付よりも人気が上回っていた力士だった。私も好きだった。

龍虎を名乗る前の四股名は「花武蔵」という派手なもので、龍虎と改名してから関取昇進。一時期は所属の花籠部屋で唯一の関取で、部屋を支えた。その後、輪島ら学生出身力士が台頭して花籠部屋が大部屋になるのに、兄弟子としての龍虎の存在は大きなものがあっただろう。

私が相撲を見始めたころはすでに人気力士だったが、1971年の九州場所で、アキレス腱断裂の重傷を負った。まだ公傷制度がなかった(この龍虎の負傷が公傷制度制定のきっかけになった)ので、3場所全休で幕下まで陥落。それでもめげずに復活したのが、派手好きな龍虎らしいエピソードだ。

当時はまだ十両以下の取組にはテレビ中継がなかった時代だったが、特別に龍虎の取組だけは報じられていた。もちろん、私も熱心に応援した。あのころの贔屓力士の一人だった。

負傷が癒えて復活のころ、雪駄や草履は負傷箇所のアキレス腱に負担がかかるので靴を履くように医師に勧められたそうだ。医師のアドバイスには従ったものの、着物に靴ばきは、洒落者の龍虎には耐えられないセンスだったんだろう。

龍虎は、洋服姿で場所入りした。パンツ、シャツにジャケットを着用し、そのうえ「髷が見えてはおかしい」とかでハットまで。専門誌に写真入りで紹介されたそのスタイルは、モデルかと見まがうばかりに、粋で見事なものだった。長い大相撲史上、洋装で場所入りした例を、ほかには知らない。

推測だが、私は、本当に医師の勧めがあったのかは怪しいと思う。洋服姿での場所入りのほうが、先に龍虎の頭に浮かんでいたのではあるまいか。彼のセンスなら、それくらいのことは考えつきそうだと思う。龍虎とは手が合って遊び仲間だったという元横綱の北の富士さん、どうだったんですかね?(笑)

引退後は年寄放駒を襲名。先に亡くなった元理事長の魁傑の先代の放駒親方にあたるんだが、2年ほどで相撲協会を退職してタレントに転身したのはご存じのとおり。

退職前だったか、「太陽にほえろ!」に堂々とゲストスターとして出演し、警視庁SP(まだ創設されたばかりだった)の役で、ぎごちない演技ではあったが、並み居る七曲署の刑事たちを圧倒する存在感を見せていたのをよく覚えている。

その後、タレントなどに転身して成功した力士は数多いが、間違いなくその先頭を走っていたのは、龍虎だった。

合掌。

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