ジャッキー・チェンと勝負する(20)

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ようやく20回にたどり着きました。まだ先は長いなぁ。ちなみに本日発売されるのが第25巻なので、まだ追い着く心配はなさそう(笑)

さて、今回は「新ポリス・ストーリー」1993年の作品。

邦題に「ポリス・ストーリー」とついているので紛らわしいが、原題は「重案組」、つまり従来の「ポリス・ストーリー」シリーズ(警察故事)とはまったく別のもの。にもかかわらず、ジャッキー演じる主人公の刑事はどちらも「チェン刑事」だったりするのはなぜだ?(あちらはケビン・チェン〔陳家駒〕、こちらはエディ・チェン〔陳幫辦〕)

だが、見ていてゴッチャになる心配は皆無。まったく両作品のイメージが違うからだ。

「新ポリス・ストーリー」は、ここまで見てきたジャッキー作品とはまったく違うテイストの映画になっている。数あるジャッキー・チェンの映画の中でも、異色の存在だ。

ジャッキーの映画は、大雑把に言ってしまえば「明るく楽しく激しく」だ。壮絶で身を削るようなアクションを披露しつつも、主人公ジャッキーは常に明るく前向きに終始する。「ポリス・ストーリー」シリーズでもけっこう悲惨な状況に陥りながらも、笑顔を忘れないのがジャッキーだ。

ところがこの「新ポリス・ストーリー」では、ジャッキーにほとんど笑顔がない。いつもは必ずあるコミカルなシーンもまったくない。恒例になっていたエンドタイトルでのNG集もなしだ。

銃撃戦のトラウマを抱えつつ富豪誘拐事件に挑む刑事という主人公の設定もさることながら、映画全体が非常にシリアスなタッチで描かれているせいだろう。現実に起きたとされる誘拐事件を基に、本物の警察の全面協力を得て製作された作品なのだ。

初期のカンフーアクションや、前に取り上げた「ベスト・キッド」など、ジャッキーらしくない映画が他にないわけではない。だがそれらは総じて、「ジャッキー・チェンが作った映画」ではなく「ジャッキー・チェンが出ている映画」だったりする。ジャッキー自らは、常に自分らしくあるべく自分の映画を作っている。

この「新ポリス・ストーリー」は、ジャッキー・チェンが自ら製作・主演した映画だ。にもかかわらず、まるでジャッキーらしくないのはなぜだろうか。企画初期段階ではジェット・リーが主演に予定されていたからだなど諸説あるが、私はこの映画の背景には当時の香港映画の流行が厳として存在すると思う。

この映画が作られた1993年前後、香港では「奇案片」と呼ばれる映画が大流行した。現実に起きた事件を基にした実録犯罪ドラマで、その多くは猟奇殺人事件をあつかい、どぎつい描写と話題性で業界を席巻した。代表例としてよく挙がる「八仙飯店之人肉饅頭」も1993年の作品だ。その際どさゆえ、多くの作品は成人指定の「三級片」として公開された。

ジャッキーを含めた製作陣の頭に、この流行が無かったはずは無い。いや、大いに意識していただろう。よし、俺が「奇案片」の決定版を作ってやる、くらいの意気込みがあったんじゃなかろうか。

そのためだろうか、ジャッキー映画ではめずらしい濃厚な性愛シーンもあるし、暴行や殺人の描写も生々しい。たとえばジャッキーの目に、頭部の傷から大量の血が流れ込んで視界を妨げる描写など、普段のジャッキー映画とは明らかに異質だ。この辺は、監督に起用されたカーク・ウォン(黄志強)の持ち味だ。

周囲を固める俳優陣も、いつもの面々とは雰囲気が違う。誘拐される富豪役のロー・カーイン、凶悪ヤクザ役のワン・ファットといった悪党面が集められている。なかでも凄まじい迫力を滲ませ、ジャッキーとがっぷり四つに組んで渡り合う悪徳刑事役のケント・チェン(鄭則仕)が、この映画の狙いとカラーをはっきり示している。彼は大流行した「奇案片」の多くで犯人、被害者、警官などの役を多く演じている、「奇案片」ブームの立役者の一人なのだから。

こうして100%シリアスなジャッキー製犯罪ドラマが出来上がった。では、この作品は大成功だったのか? 確かにこの作品でジャッキーは台湾金馬奨の主演男優賞を獲得している。アクションだけでなく演技力も見せた、代表作のひとつといってもいいだろう。

だが、今見ると、けっこうアンバランスな印象が残る。それは、ジャッキー映画の命ともいうべきアクションに原因があるのだ。

「新ポリス・ストーリー」でも、ジャッキー・アクションは全開だ。殴り、蹴り、跳び、走る。銃撃戦やカーチェイス、大爆破シーンも満載で、その点では期待をまったく裏切らない。だが、シリアス100%で描かれたストーリーの中で、アクロバチックなジャッキー・アクションが生かされていたかというと、残念ながら答えは否だ。

浮いているのだ。

こんなジャッキー映画は他にはない。常に、ジャッキーの映画では、アクションシーンがまず生かされ、下手すればストーリーはそれに合わせて辻褄をつけるだけになっている。良し悪しではない。それがアクションを主とするジャッキー映画なのだ。

にもかかわらず、「新ポリス・ストーリー」は、アクションは主ではなく、従として作られてしまった。ストーリーのためにアクションがあるのだ。一方でそのアクションのスケールは、普段のジャッキー映画並み、いやそれ以上なのだ。そこにアンバランスが生じるのは、当然と言えば当然だろう。

あのジャッキー・チェンでも、こんな計算違いをするんだな。いやひょっとすると、最初からこれが狙いで、ジャッキーはこの映画で、俳優として本気の脱皮を考えていたのかも知れない。だがこの後のジャッキーの作品に、これほどのシリアスを指向した映画は、ない。監督のカーク・ウォンをはじめ、ケント・チェンら共演の俳優たちとも、以後二度と組んでいないのだから、このことが、この映画の「結果」を物語っているんじゃないだろうか。

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