最後の年賀状

手元に一枚の年賀状がある。
二枚の白黒写真を葉書サイズにプリントした物だ。
大きないのししの像の両脇に父と母が立ち、精悍な顔つきの父の前には当時6歳の兄がジャイアンツの帽子をかぶって立っている。
保育所の帽子をかぶり、いかにも腕白ボウズといった3歳のボクが母の横に立つ。
母は少し前かがみでボクの手を両手で包んでいる。当時の母は30代半ばぐらいだろう。なかなかの美人である。
もう一枚は全く同じ場所の24年後。めっきり老けた父と母、兄、義姉、二人の孫。
母は初孫でもあった長女を抱いている。こちらの写真にはぼくは写っていない。
写真の周りに父の手書きの言葉が並んでいる。
 
『おめでとうございます 1995年元旦
 24年前と同じ場所に立ちました 伊豆いのしし村です
 次男聖は南米のどこかに・・・・・・
 老木の 朽ちるのを待たず 若木伸び
 いまのところ まあまあの毎日です』

ボクはこの時、当時付き合っていたニュージーランド人の彼女と、南米一周半年間の旅に出ていたのだ。
実家では毎年、父が年賀状作っていた。
今でこそ年賀状に写真を入れるのは珍しくなくなったが、以前は年賀状は郵便局で買ってきて一枚一枚手で書くものだった。
そんな中でも家の年賀状は、家族と干支の動物をなんらかの形で入れ写真に撮り、家の暗室で現像した手作り年賀状だった。
この年賀状は当時としてはとても珍しく、なかなか好評だった。
羊年には大きな紙の上にボクがヘタクソな羊の絵を書き、その前で家族で写真を撮った。
猪年には伊豆いのしし村へ家族で出かけたり、丑年には牛の人形を入れたり、何かしらアイデアを出して、毎年撮っていた。
そして1995年の年賀状が、父親が作った最後の年賀状となった。

1995年11月、ボクは1年半ぶりに日本へ帰ってきた。
半年間ニュージーランドのスキー場で働き、半年間南米を旅し、さらにまた半年ニュージーランドで働いたあとの帰国だった。
久しぶりの帰国とあって、父と母が成田まで出迎えに来てくれた。
長旅の疲れからボクは口数も少なく、久しぶりの再会に喜ぶ母の質問に、「うん」とか「ああ」とか短い言葉で答えていた。
家に着き、母は僕が好きな物を作ってくれて一緒に夕食を取った。
何を食べたのかは覚えていない。
近くに住む兄はその日に都合が悪く、僕の帰国祝いは明日にしようということだった。
夕食後、荷物を広げた。
ザックの中には南米で買ってきた家族へのお土産が入っていたが、明日兄が来たときに渡せばいいと思い、その日の夜は近所の友達の家に遊びに行った。

次の日は快晴だった。
自分の部屋の窓を開けると、白い雪をのせた富士山が青空をバックによく見えた。
美しい山だ。
ボクは無性に山に行きたくなった。
1人で山に行こうと思いついたボクに母が言った。
「天気もいいし私も行こうかしら。お父さんもどう?」
父は最初は迷っていたが、母に押され3人で山に行くことになった。
行き先は真富士という山で、ボクは高校の遠足で登ったことがある。
母がいそいそと弁当を作り、父の運転する車で家を出た。

途中、両親がやっている食堂へ寄った。
父母はその前年、ボクが留守にしている間に食堂を始めたのだ。
その店は大きな交差点の角にあり車で通ればすぐに見えるのだが、交通量の多い交差点なので車を停められない。
ちょっとだけ停まって駐車場の場所を聞くこともできない。
私鉄の駅のすぐ側だが、歩行者は地下通路を通るのでふらっと入ってくる人もいない。
店は高台で富士山もくっきり見え、土地は最高なのだが商売には最悪、という場所で二人で細々とやっていた。
来るのは知り合いだけで、とてもこれで食ってはいけないようだ。
それでも母は何かしらやっているのが嬉しい、といったようで店のことをあれやこれやと話してくれた。
11月の空は見事に澄み渡り、店の前から富士山がきれいに見えた。絶好のハイキング日和だ。

車を一時間ほど走らせ、登山道入り口へ着いた。
僕は若さに任せ山道をガシガシと登る。父は膝が痛いようで遅れ気味だ。
母が感心したように言った。
「あんたは健脚だねえ」
数時間かけて山頂に登り、母が作ってくれたおにぎりを食べた。梅干しも自家製である。
空はどこまでも青く澄み渡り、富士山が遠くに見える。
平日とあって人は全くいない。山頂での景色を独占だ。
帰り道、あと麓まで1時間弱ぐらいの所だろうか、母が言った。
「今日はお兄ちゃん達が来るから、すき焼きでもしましょうか」
兄は数年前に結婚して、自宅から車で20分位の所に家族で住んでいた。
昨日はあいにく都合が悪く、今日僕の南米でのおみやげ話を聞きながら一緒にご飯を食べようということになっていた。
そしてその言葉が、母が残した最後の言葉となった。

先頭に父、次いで母、そのすぐ後ろを僕が歩いていた。山道はなだらかな下りでどう見ても危険があるような場所ではない。
突然、母がバランスを崩した。僕は母が足をのせた場所がザックリと崩れるのを見た。
直後、母の体は右手の斜面を落ち、数m下の杉の木に激突した。
まるでスローモーションのように、だが僕は何もできずに母が落ちるのを見た。
そのまま母の体は斜面を滑り落ちていき、数十m下で止まった。
父があわてて言った。
「おい!頭をぶつけたようだぞ」
「うん!オレは下へ行って見てくるから、父さんは助けを呼んできて」
「分かった、頼むぞ」
父はそう言い残すと足早に山を下っていった。
母が落ちた斜面は40度ぐらいあっただろうか。僕は無我夢中で斜面を駆け下りた。
どうか助かってくれ、それだけを考えながら母の元に着いた。
母は血まみれになりながら止まっていた。体を揺するとかすかにうめき声のようなものを発した。
良かった、助かった、生きてる。僕は体中の力が抜けてヘナヘナとその場にしゃがみこんだ。
登山道まで上げようにも母の体はぐったりと重く、とてもかついで斜面を上がれる状態ではない。
なぜこんなことになってしまったのだろうか。
母が足をのせた登山道の肩が崩れる様子や、ゴムまりのように落ちて木にぶつかる姿が、フラッシュバックのように頭に浮かぶ。
何かがおかしい。
ふと気が付いた。
静かすぎる。
母を見ると息をしていない。
なぜだ?ついさっき、うめき声を出したじゃないか。
体を揺すってみたが反応はない。
ぼくはあわてて覚えたばかりの心肺蘇生法(人工呼吸と心臓マッサージ)を始めようとした。
日本に帰る1ヶ月前に僕はニュージーランドで講習を受けていたのだった。
人工呼吸をしようとしたが、斜面は不安定で母もろとも落ちそうになる。
呼吸が止まってどれくらいになるのだろう。早くしなくては。
なんとか母のぐったりした体を木の根本にひっかけ安定させた。母の鼻をつまみ息を吹き込む。だが息は入っていかない。
何が悪いのだ。落ち着いて思い出せ、僕は自分に言い聞かせた。
そうだ気道確保だ。一番最初にやることを忘れていた。
講習では平な床の上で練習をしたが、40度の斜面ではわけが違う。少し体を動かすのだって一苦労だ。
それでも教わった通りに気道を開き息を吹き込む。
母の胸がふくらみ空気が入ったことが確認できた。2回くりかえす。その後心臓マッサージを15回。
だが心臓を押すと、母の耳から血が流れだしてきた。僕は怖くなって手を止めてしまった。
こんな時はどうすればいいんだ?講習ではおしえてくれなかったぞ。
何分、いや何秒そうやっていただろうか。
あまりの静けさに耐えきれず僕は再び人工呼吸と心臓マッサージを始めた。
その度に母の耳と鼻から血が流れ出す。
本当にこれをやって良いのか?だが何もしなければ確実に母は死ぬ。
その現実から目を背けるように僕は作業を続けた。
どの位の時間が経ったのだろう。
僕は疲れて動けなくなり、放心状態で母の横に座った。
無理だと知りながら神に祈った。
「神様、もしいるのならば母を助けて下さい」
そして大声で泣いた。
僕の鳴き声は人気のない山にこだました。
山の夕暮れは早い。
子供の頃から秋の夕暮れ時がきらいだった。
とてもきれいなのだが、秋の夕日を見ていると泣きたいほどに悲しくなった。なぜかは分からない。
その後にやってくる秋の夜長がきらいなわけではない。
夜になってしまえば夕暮れ時の悲しさは忘れてしまうのだが、理由もなく夕暮れ時がきらいだった。
そんな美しい秋の夕暮れ時に、僕の腕の中で母は息を引き取った。

ふっと気が付くと、登山道の方から父が呼ぶ声が聞こえた。
「おい!大丈夫か?」
僕は泣きながらさけんだ。
「母さんが息をしないんだよ!」
しばらくの沈黙のあと、父が大声で言った。
「そこにはお前しかいないんだから、お前がしっかりしろ」
ぼくは泣きながら父の言葉を聞いた。
やがて山が闇に包まれる頃、救助隊が着いた。彼らの声が僕の所に届いた。
「お~い、大丈夫ですか」
ぼくは駄目だと知りながら聞いた。
「心臓マッサージをすると耳と鼻から血がでるんです。どうすればいいんですか?」
誰もその問いに答えてくれなかった。
救助隊は僕のいる場所に降りてきて、てきぱきと母を担架に乗せ、登山道へ戻った。
僕も後を追い、父と合流した。
「父さん、母さんが、母さんが・・・」
僕の言葉は涙でかき消された。
「分かったから、お前がしっかりしろ」
父もどうしていいのか分からなかったに違いない。
その後、僕らは救助隊の後ろをトボトボと歩いて下山した。
麓には知らせを聞いて駆けつけた兄一家、親戚のおばさん、従姉妹達、ヤジウマなどがいた。
救急車の赤いランプが夜の山で明るく光っていた。
兄が僕の所に来て泣きそうな声で言った。
「なんでこんなことになったんだよ!」
なんでこんなことになったんだろう。僕にも分からない。
本当なら今頃はすき焼きを囲んで、僕の南米の土産話で盛り上がっているころだ。
久しぶりの家族の対面がこんな形になってしまうなんて。
僕は黙って首を横に振ることぐらいしかできなかった。

母の遺体は一度病院に運ばれ、その後、家に着いたのは深夜になっていた。
僕は何年ぶりかに兄と一緒の部屋で寝た。
次の日、起きて居間に行った。母は泥と血にまみれた昨日の服ではなく、きれいな服を着て布団に横たわっていた。
昨晩、僕らが寝た後で父が着替えさせたと言う。父はどんな気持ちで母を着替えさせたのだろう。
父がうめくように言った。
「オレが死ねばよかったのに・・・」
僕はいたたまれなくなり、自分の部屋に戻った。
涙を拭き、荷物から南米で買ってきた膝掛けを出した。
派手な色使いの多い南米の織物の中でも、黒を基調としたシックな感じの膝掛けである。
ペルーのマーケットで時間をかけながら、母に似合う色を選んだことを思い出した。
僕はその膝掛けを母の体にかけた。
僕の土産を目にすることなく母は死んだ。

午後、自分の寝床でうつらうつらしていると、玄関で人の話し声が聞こえた。
隣りのおばさんと母が話している。そうか、昨日の事は夢だったんだな。そうだ悪い夢を見たんだ。
起きあがり頭がはっきりしてくると、昨日の事が次々に思い出された。
つい今しがた聞こえた母の話し声はもう聞こえない。
あれは夢ではない。現実だったんだ。僕はそれに気づき再び泣いた。
翌日の新聞の地方版に小さく記事が出た。
『ハイキング中の女性、足を滑らせ転落死』
これだけを読めばまるで母の過失で事故が起こったようにとれる。
だが断言しても母は足を滑らせたわけではない。母が足を乗せた場所がザックリと崩れたのだ。
それを見ていたのは僕だけだ。母に過失はなく、前日の雨で地面が緩んでいたのが原因だと思うが、それを追求したところで母は戻ってこない。
僕は悔しい思いでその記事を読んだ。
知らせを聞いて小学校時代からの友達が何人もたずねてくれた。
口々にお悔やみの言葉を言うが、その言葉は何の助けにもならなかった。
僕はうつろな心で友達の言葉を聞いた。
母の死後、共済の積み立てや保険など、色々なところからわが家にお金が入ってきた。
遺産の整理をしていた父があきれるように言った。
「人が死ぬとお金が入ってくるんだなあ」
だがお金がいくら入ってこようが、死んだ人は戻ってこない。
葬式、救助隊への挨拶、お墓の購入、事故現場へ花を持っていくなど、色々な事がありあわただしく時が流れた。
そして僕は実家から逃げるように、冬の仕事である福島のスキー場へ向かった。

その年は新しい職場ということもあり知った顔も少なく、寮でも1人でパズルをやって時間をつぶしていた。
何かに没頭していれば、悲しい過去を忘れることが出来る、僕はそうやって母の死から逃げていた。
人とのつきあいがわずらわしく、ひきこもりのような状態だった。自分でカラを作りそこから出るのを恐れていた。
人に対してよそよそしい態度をとる傍観者であり、『自分は可哀想な人なんだ』という被害者でもあった。
それでも数ヶ月も経つと仕事にも人にも慣れ、楽しいことが増えていき、母を思い出す時も減っていった。
時間というのは悲しみの痛手を薄めてくれる魔法の薬のようなものだ。
数年経つと母の死は遠い過去となっていき、僕は新しい生活に埋もれていった。だが僕の心の傷は完全に癒されたわけではなかった。
女房と結婚する前の事だったと思う。クライストチャーチ郊外の所を散歩したことがあった。
急な坂道だが、特に危険という所ではない、子供でも歩ける場所だ。
その時に彼女のすぐ後ろを歩いていて、僕は怖くなってしまった。
自分が落ちる事の怖さではない。目の前の彼女が落ちるのではないかという怖さである。
この幸せな時が次の瞬間に崩れてしまうのではないか。愛する人を目の前で失うのではないか。
母の落ちる様子が思い出され、それが目の前の彼女に重なり、どうしようもなく怖くなった。
その時は彼女に訳を話し、僕の後ろを歩いてもらったが、母の死はトラウマ、精神的外傷となって僕の心に残った。
その彼女とも結婚、そして娘の誕生。自分自身も夫から父親へと変わっていった。
さらに数年が経ち娘も成長して、母の死を思い出すことは少なくなっていった。
家族でハイキングに何度も行ったが、結婚前に感じた恐怖を感じることはなかった。
僕が先頭を歩くのがほとんどだったという理由があるが、それさえもトラウマが無意識のうちにそうさせていたのかもしれない。
いずれにせよ、それ以来その手の恐怖は無かった。
代わりに自分が落ちて死ぬかもしれないという恐怖は何度かあったが・・・。

スキーパトロールという仕事を何年か続け、その間に色々な血なまぐさい現場にも遭遇した。
頸動脈の数㎝横をザックリ切り、すんでの所で命を拾った人もいれば、コース外で立木にぶつかってお説教をした人が数日後に病院で亡くなったということもあった。
崖から落ちて血まみれでフラフラしている人を助けたこともあれば、同じ場所で死体を運んだこともあった。
人は死なないときは死なないし、死ぬ時は本当にあっけなく死んでしまう。
そういった経験を経て、山歩きのガイドとなり数年が経った。
ある晩、クィーンズタウンの友達の家のテラスで、美しい夕日に染まる山を見ながら宵の一時を楽しんでいた。
1人でビールを飲みながら、ふと母のことを思い出した。
なぜあの時、母は急に山に行くと言いだしたのだろう。最初は僕1人で行くつもりだったのに。
事故の日のことがくっきり心に浮かんだ。
雨上がりでぬかるんでいる山道。路肩についた足元がザックリえぐれて転げ落ちる瞬間。
僕は自分をその場に置き換えてみた。
自分の体は全く同じように落ちて、すぐ下の木に激突しただろう。
全てがつながった。
母が身代わりになってくれたのだ。
母はぼくのために死んでくれた。
涙があふれて止まらない。
自分自身が人の親になって初めて分かったことがある。
親にとって子供が先に死ぬ事ほどつらいことはないだろう。
そんなことが当たり前に起こる戦争は人類が止めるべきことの最たるものだ。
あの時の母親にとって一番見たくない物。
それはニュージーランドから帰ってきたばかりの息子の死体だ。
今となっては知る由もないが、だから急に山に行くと言い出した。
そして自分の人生をかけて、僕に色々なことを教えるために死んでくれたのだと思う。
涙が止まらない。
母の愛を感じた。
母は死んではいない。肉体はなくなったが、ここに存在している。
そしてその時に思った。
もしもこの先、自分の娘に同じような事があったら自分が死のう。
映画『クリフハンガー』の冒頭で、1本のロープにぶら下がった父が娘と息子を救うため、ナイフでザイルを切って自ら死んだように。
ああやって死んでやろう。そしてその時にはこう言いたい。
「オレはやりたいことは全部やってきたから思い残すことはなにもない。先に死ぬぜ。あばよ」
そして笑いながら死んでいこう。
だが死ぬまでには、やっておかなければならない事もある。

その年のある日、僕は父親に電話をした。
「父さん、元気でやってるか?」
「ああ、ぼちぼちだな。そっちはどうだ?」
「こっちも皆元気だ。深雪は5歳になるよ」
「そうか。早いものだな」
「なあ、もう一度ニュージーランドに来ないか?見せたいものがあるんだよ」
「そうだな、オレももう一度ぐらいは行こうか考えていたんだ」
「じゃあ、是非とも来てくれ。今父さんに死なれたらオレが後悔するから」
「ハハハ、分かった分かった。じゃあ10月ぐらいかな。」
「うん、待ってる・・・。あのさ・・・父さん」
「なんだ?」
「今まで・・・育ててくれて・・・ありがとう」
最後の言葉は涙でかすれた。
この言葉を言うのに生まれて40年近くもかかった。
こんなこと面と向かって言えやしない。
「何を今さら言ってんだ。」
父の声も涙でかすんでいた。
電話を切って思いっきり泣いた。

数ヶ月後、父は1人でニュージーランドにやってきて、娘と父と僕の3人で南島を廻った。
行く先々で僕の友達に会った。
スプリングフィールドでブラウニー、フランツジョセフではタイ、テアナウではトキちゃん、クィーンズタウンではタンケンツアーズのクレイグ、マナポウリでトーマス、ケトリンズではトモコ。
皆、娘も良く知っている顔ぶれだ。
父は僕の友達がそれぞれの場所で、明るく生き生きと生活しているのを見て安心したようだ。
これが目の死んだようなヤツや、まともに挨拶もできないようなヤツ、グチばかりこぼしているヤツを友達だと紹介したら、さぞかし心配するだろうに。
だいたい、その人をとりまく友達を見れば、その人となりが見えてくる。
行く先々でデイウォークやハイキングをしながら旅をした。
アーサーズパスではテンプルベイスンへの道をちょっと登りランチを取った。
西海岸ではフォックス氷河、そしてお気に入りのシップクリーク。
クィーンズタウンではルートバーンのデイハイク。ミルフォードへ行く途中でキーサミット。ケトリンズでも名もないコースを歩いた。
ルートバーンを歩いた時、僕は父に言った。
「これがオレの仕事場さ。この国は車から降りて自分の足で踏み入れてみなければ何も分からない国なんだ。」
「そうだな」
父も母もこの国には何度も来たが、こういう山歩きはしていない。僕は続けた。
「オレが唯一心残りだったのは、母さんにこれを見せられなかった。それだけが後悔だな。『親孝行 したい時には 親は無し』ってホントだな」
「そうだな」
「父さんに今死なれたら、オレが後悔するってのは、こういうことだったんだよ」
「・・・・・・」
「それで、こうやって見せたから、あとはいつ死んでもいいよ。できればポックリ逝ってくれ」
「このバカヤロー。俺だってできればポックリ逝きたいわ。それよりな、お前、俺が死んでも日本に帰ってこなくていいからな。葬式にだって出なくていいぞ」
「おお、それはありがたい、助かるな」
「死んであわてて帰ってくるぐらいなら、生きているうちに会いに来い。」
父の本音であろう。何年も帰っていないのでそれを言われるとツライ。
「うーん、しばらく日本に行く予定は無いしなあ。じゃあもう少し生きてくれ」
「勝手なことを言ってやがらあ」
ニュージーランドに父が来るのは今回で最後かもしれない。
だが娘と一緒にこうやってこの国の隅々まで歩いたことを僕は一生忘れない。この瞬間は永遠のものだ。
5歳の娘がたくましく山道を歩くのを満足げに見守る父がいた。
良い親孝行ができたと思う。
親孝行とは、先ず親より先に死なないことであり、世界のどこにいようと明るく正しく楽しく毎日を生きること。
これが本当の意味での親孝行だ。
森を歩きながら父に言った。
「オレはこういう森が好きでなあ。できることなら、こういう森で住みたいぐらいなんだ」
「お前は自然児なんだな。母さんが死んでお前が山から離れるかと思ったけど、そうはならなかったな」
目の奥から熱いものがこみあげた。

人は死を恐れる。
何故なら死とは、終わりであり、真っ黒で何もない所だからだ。
目に見える物だけを見ていたらそうだろう。
違う。
死とは、始まりであり、まばゆい光の世界であり、全てがある所なのだ。
人間の世界で言う死んだ人にも、そこに行けば会える。
歴史上、有名だった人にも会える。自分の母だって祖先にだって会える。
死とはそんな場所だ。
それには、いかに今を生きるかにかかっているのだと思う。
人間は目に見えるものしか信じない。目に見えないものの方が大切なのに。
なので目に見えるこの命が終わるのを恐れる。
自分が怖いので、もう充分生きた人でも、家族は医者に頼んで延命治療をしてもらう。
医師も人の死を敗北と考える人もいる。
僕の考えではムダな延命治療はやめるべきだ。
もう充分生きたでしょう、という人には死んでもらって、延命治療に費やしているエネルギーを子供の病気の方へ向けるべきだ。
僕は死を恐れない。いや、むしろ待ち遠しいぐらいだ。
だからといって自殺はしない。自殺は逃げであり、スピリチュアルの世界では自殺は殺人よりも罪深い。
自分は生かされている存在であり、この命を粗末に扱うことは許されない。
死の向こうには明るい世界が待っている。
さればこそ先に死んだ人の分まで、生きている今という瞬間を大切にして、明るく正しく楽しく精一杯やっていくのだ。
それが『何故自分はこの世に生まれてきたのだろう』という問いの答えだからである。
 
父がニュージーランドを去り、数年が経った。
娘は八歳になり、初めて日本に行った。
ボクはその時仕事で行けなかったのだが、妻が仕事で日本に行くついでに娘を連れて行った。
初めての日本は楽しかったようだ。
そりゃそうだろう、日替わりでディズニーランド、ディズニーシー、富士サファリパーク、伊豆三津シーパラダイス、果ては東京バレー公団のイベント尽くし。
家族とはいえ、ガイドとドライバー付きで贅沢三昧、何と言っても自分で金の心配をしなくていい。
ウマイ物もたらふく食っただろうに。
これで楽しくないなんて言おうものならぶっとばす、くらいの勢いだ。
ボクの実家にも行き、初めて従姉妹たちとも会った。ここでもウマイものを食べたはずだ。
ボクが行かなくても、娘を見ればボクがどういう生活をしているか父は想像できるだろう。
何と言っても子は親の鏡なんだから。
母の墓参りにも行ったというので、死んだ母も喜んでくれていよう。
ボク自身、石けんを作るのは生前母がやっていたことであり、EMの自然農法生活だって母が生きていれば絶対やっていたことだ。
供養とは死んでしまった人の事を想いながらいつまでもメソメソ泣き暮らすことではない。
自分なりに精一杯、明るく正しく楽しく暮らすことが、先に死んだ人への供養でもあるのだ。

ボクは再び年賀状を手にとってみた。
古ぼけた白黒の少し反り返った年賀状はボクの宝物だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?