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常に自分らしく前進あるのみ(前編) 大友宗一郎 (28歳)

はじめに

大分県内のとある県立高校で教鞭を執る大友さん。英語を専攻として子供たちに教えている大友さんですが、教員を志したのは過去の「教科書では学べない」経験からでした。教師になる道のりの中で紆余曲折があっても、自分のペースを崩さず、前を進むことで教師になる夢を叶えた大友さん。その教員を志すに至った原体験とは何か。そして今の子供たちに伝えたいことは何か。お話を伺いました。

※今回から前編 後編の2回に分けてお送りします。

大友宗一郎

おおともそういちろう|高校教員(教科:英語)
1992年生まれの乙女座。少年時代は剣道に野球、ECCなど活発な少年時代を過ごす。日田高等学校卒業後、福岡の大学に進学し、在学中にノルウェーの大学に1年間交換留学。福岡の大学を卒業後に秋田の大学院に進学し、教育修士号を取得。現在は大分県内の高校の英語教員として高校3年生の担任をしている。

全てが遊び場だった小学校時代

石井という日田盆地の西端に住んでいました。そこでは周囲の環境全てが私たちの遊び場でした。普通なら「〇〇ちゃん家遊びいく〜」という友人の家で遊ぶところを「△△公民館集合〜」とか行って、いざ集まると山や川に入って秘密基地とかを作ったりして(時効ですよね?笑)。
野生の動物もよく見かけたりしてました。今でも鮮明に覚えているのが、日がくれた夕方6時半頃に友人と2人で山道を走る下り坂を自転車で降っていると「たぬき」がひょっこり顔を出してきて、予期せぬ遭遇に興奮し「たぬきやん!!」を大声で叫びながら帰ったりしてました(帰宅時間はこちらも時効ですかね?この時の友人というのはこの記事を書いている私です。笑)
家という限られた空間ではなく、地域という開放感のある場所で時間を忘れて遊んでいたせいか、今の「マイペース」な性格が出来上がったのかなって思います。本当に地域に育てられました。
その傍、習い事は剣道とECCをしていました。剣道は規律が厳しく、練習もハードなのであの頃は辛かったですね。ただ結構真剣に取り組んでいて「松月館」という剣道塾のような場所にも通ってました。この経験を通してタフな性格は形成されたのではないかと思います。

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念願の野球少年に!

中学生になると念願の野球部へ入部しました。小学校の頃はスポーツクラブが剣道、サッカー、バトミントンと少なく、野球をしたい思いをずっと抱いてました。そこで中学になると即入部。初心者が多いチームでしたけどそれなりに頑張ってました。
学校生活では、1年の頃のクラスが学級崩壊状態で(笑)。授業を受けるどころではなかったので、あまり勉強した記憶がないんです。これは高校に入って痛い目をみるですけどね。ただ読書が好きだったことやECCに通っていたことが功を奏し、なんとか日田高校に進学することはできました。
中学卒業する頃になると、友人と別の進路に進む経験を初めてしました。なんせ私のいた小学校ではほとんど同じ中学に進学でしたから。どこか新鮮な気持ちと友人と離れる寂しさを感じていたのかなと思います。ある仲の良かった友人は進学せずに就職したり、別の友人は実業系の学校に進んだり。その中で高校入学後間もなくして退学した友人がいたりして。高校に馴染めなかったんですかね。「どうやったらこいつらは高校を続けられたんだろう」と不思議と考えていました。その時から「教師もありかも」と思うようになりました。

やり抜いく大切さを実感した高校時代

高校時代はとにかく野球尽くしの3年間でした。もともと入る予定ではなかったし、高校には勉強するつもりで入ったので、ここまで真剣に取り組むとは思ってもいなかったです。それはやっぱり、同学年のメンバーが少なかったことで一体感が生まれたことやそのメンバーに良さに恵まれたことが大きかったですね。一つでもかけていたら絶対にやめていたと思います。その時の野球部のメンバーとは今でもよくLINEとかでやり取りをしていますし、事あるごとに集まって飲んでます。私の宝ですね。この経験からは「好きなことをやり抜くことの大切さ」を学びました。

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将来の夢が「教師」に

高校1年生の頃の将来の夢は「科学者」か「作家」でした。(「作家」になる夢は諦めていません!)そのため日田高校には勉強するつもりで進学しました。ですが、先生にガツガツ質問するというよりはマイペースに勉強していました。当時の友人も高校に授業を受けにきているというよりも遊びに登校している感覚の人が多かったことに影響されたかもしれません。勉強科目も中学の頃と比べて細分化されたので得意不得意が現れたのもこの時からでした。5教科7科目と言われる中でも特に生物が得意でした。それはやっぱり小学校の頃に自然の中で遊んだ経験が大きいのだと思います。その時の「楽しい」「面白い」と感じた出来事が学習に深く結びついていることを実感しました。「これは学校では(教科書からは)学べないことだけど、一方でこれをどうやったら教えることができるのだろう?」と中学の友人に対して考えたことと結びつき、教師になる思いが少し強くなった経験でした。
将来の夢もできれば家に帰れる職業が良かったんです。両親が共働きで遠洋漁師と看護師だったので夜家を空けることが多く心のどこかで寂しさを感じていたのかもしません。そこで自分はしっかり家に帰れて、自分の子供の成長も追いかけられる仕事がいいなと思っていました。
そんな時、父親とひょんなことで将来の夢について話したことがありました。父は「私の祖父は苦労人で勉強したくてもできない環境にいたこと」、「その祖父から父は人の役に立つ 教師 や 弁護士 になってほしいと言われていたが自分の興味を優先したこと」、そして「宗一郎にはその祖父の思いを叶えてほしいと思っている」を話してくれました。そこで教師になるという夢が明確になりました。

後編へ続く..

そして大学進学から留学、現在の教員生活へと話が続きますが、そこでも今の決断に至る色々な出会いがありました..。
乞うご期待!!

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