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彼は自分だったかもしれない 松中権

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一橋アウティング事件を知った時の状況は?


 2016年8月5日(日本時間)、僕はリオにいて、リオオリンピック・パラリンピックの仕事に向かっていました。その頃広告会社に勤めていて、現地でジャパンハウスという日本の文化や歴史、技術力等を世界中の人に伝える期間限定の場所作りをする仕事をしていました。オープニングセレモニーが現地時間の2016年8月4日夕方にあって、セレモニーを終えて、片付けを終えて、みんなで借りていた宿泊施設の部屋に戻って、残務を処理して、シャワー浴びて、寝ました。時差も少しあって朝方に目が覚め、パソコンに向かっていたら、Facebookのタイムラインが、LGBTQ +コミュニティの人たちがした一橋大学の投稿で埋め尽くされていました。それが事件を知った最初です。まず投稿のタイトルが目に入りました。「一橋大学」、「ゲイ」と書かれていました。「アウティング」という言葉はその時普及してなかったから使われていなくて、「同級生に告白」「自殺」みたいな感じで書いてありました。それで、どういうことが起こってるのかわからなかったからとにかく記事を読みました。一部すごく詳しく書いてある記事があって、その時点でわかる事件の全貌が分かりました。ショックという言葉はすごく単純化された言葉で、何と言えばいいのかわからない感情というか、そういうものがばーっと沸き起こったという感じです。

 ゲイの学生さんが亡くなったこともショックだし、自分の母校で亡くなったこともショックでした。当時は何回か一橋の授業に呼ばれたこともあって、それは一橋の卒業生で色々な分野で働いている方々の話を聞く授業や、いくつか全然違う先生からお呼びがかかってLGBTQ+のことを話していた授業もあります。でも、それは自分から積極的に何かアクションを起こしているわけではなくて、声がかかったからありがたく行こうくらいの意識でした。男子生徒が亡くなっちゃったんだ、、という感覚でした。

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 アウティングの現場のLINEグループのやり取りを見た時に、ショックというか、事件のやり取りの裏側で亡くなった彼が感じていたこととかアウティングされた時の感情というのが、本当に自分ごとのようにフラッシュバックといいますか、亡くなったのは彼なのですが、その言葉とかそのシーンとかが自分が経験した大学時代のシーンと重って思い出されました。ロースクールの仲間のコミュニティというのがどれぐらい密になっていてどういう関係かというのは、僕自身は経験していないから分からないし、LINEグループも僕らの時代にはないので、LINEグループ仲間に暴露された時の感情自体は100%自分の学生時代とは重なりませんでした。しかし、会話のやり取りは実際に自分がしてきたことでした。パッと言われた時に数秒で誤魔化したり、嘘をついたり、なかったことにしたり、違う話題に振ったり、ちょっと笑いに変えたり、機械作業のように行っていた会話がそのLINEグループの画面上に広がっていて、最初のニュースを見たときのショックとは少し違い、気持ち悪くなってしまいました。過呼吸になってしまって、部屋の中にあった近所のコンビニで買ってきた袋を見つけて、口に当てました。それが事件との最初の出会いです。

帰国後からのアウティング事件との接点は?


 リオから戻ってきた時、帰りの飛行機の中で、どうやって会社を辞めるかなみたいなことを考えました。でも、16年働いている会社だから辞めるにはどうするんだろうとか、むしろ自分はカミングアウトして、周りともある意味本来の自分で接しながら仕事を楽しくやっていましたし、同時に行っていたNPOの活動と両輪で、2つのことを一緒にすることの自分なりの良さも感じていて、これは何か活動に活かせる部分もあるとも思っていました。2016年の後半、8月に帰ってきてから秋~冬にかけて、会社をどうやって辞めればいいのかを考えたり、秋にあるNPOの総会の準備をしたり、自分の整理をしていました。2016年の12月頭に上司に辞めたい時期を伝えて、NPO内部でも専任になることを許可されました。そしたら会社で、1月からインターン人事で異動してほしいという話が出ました。もう人事も決まっているし、向こうの人も決まってるから、どうにかなんとかいることはできないかと言われて、半年だけいるということを交渉されました。それが、2016年の後半です。

 ちょうどリオから帰国したくらいには、現在Equality Act Japanと呼ばれる、平等法とか理解増進法とか差別禁止法とか、LGBT差別をなくしていく法律をつくろうとする団体をまさに神谷さんとかと作り始めていました。2016年はまだ、LGBT法連合会も超党派の「LGBTに関する課題を考える議員連盟」もできたばかりでした。最初は正直、法律とかに関わることで、権利ばかり主張する嫌な怖い人たちみたいに思われるのではないかと思っていたため、ロビーングとか法制度などにはとても距離を置いていました。むしろ、理解を広げるとかそのための場を作っていくことが大事だと思っていて、それが僕らの活動の中心でした。けれど、帰国してやはり命を守れるような法律があることが本当に大事なのだなというのを感じて、神谷さんに誘われてミーティング等に参加し始めました。2016年の秋~冬手前ごろ、Change.orgの署名活動を始める時に、自分自身の中で一橋アウティング事件のことをちゃんと残していく、知ってもらう必要があると思い、そのタイミングで法律についての活動を始めました。2017年の6月末に退社して、それ以降、一橋のことも含めて法整備の活動にも本格的に関わるようになっていきました。

 アウティング事件との接点を持ったのは、鈴木賢先生などが明治大学で企画した報告集会で、誘いを受けて話をした時です。それまではあまり一橋のことを語ることはなかったのですが、でも語らなければならないかなと、何か自分の中で決意がありました。その時に、亡くなった男子学生のご家族の方がいらっしゃっていて、声をかけてくださいました。裁判の傍聴に行ったり、裁判の担当弁護士の方々も友人なので情報はもらったりしていたのですが、具体的にアクションを起こそうとなっていったのは報告集会後だったと思います。

どんな学生時代でしたか?


 自分自身がゲイだと気づいたのは小学校高学年くらいです。中学校の頃はテレビの中では保毛尾田保毛男がいた時代だったので、自分自身を否定したり、治ると思っていたり、もちろん周りには誰にも言っていませんでした。中学校、高校に行くともちろん男の子に対する気持ちはどんどん強くなっていくけれど、石川県金沢市というすごく保守的な町出身なので、そんなことはもちろん言えませんでした。自分の身を守る意味でも、クラスの中でもちょっと意気のいい男子コミュニティの中に身を置いて、そこにいることで、1人になったり、いじめられたり孤独になったりしないようにしていました。自然に防衛本能が働いていた高校時代でした。

 自分の中では、自分の居場所は日本ではないなとどこかで思っていて、一橋大学を選んだのは、一橋大学の赤本に如水会の留学制度が紹介されていて、多くの学生を海外に送り出しているというのを見たから、ここだと思ったんです。高校時代にちょっとかっこいいなと思っていた人が一橋の赤本を持っていたというのもやはりあって、一橋行ったらどうしよう、もしかして同じ学校で学べたりするかなとか、学生時代の妄想はすごいので、もしかしたらその人は当事者じゃないかもしれないけど、でももしかしたら当事者かもしれないしと、期待も込めて一橋を受けたりしました。

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 その人は受からなかったけれど自分は合格して、留学をすることを入学当初からも考えていましたが、なんとなくちょっとしたテニスサークルとかに入ろうと思っていました。そのサークルで使っていた小平のテニスコートの隣が、陸上ホッケー部が使っていたホッケーグラウンドでした。パッと見たら、マネージャーさんらしき女性の方とちょっとかっこいい男性の方がおいでおいでと言っていて、その場に行ったらみんながホッケーをやっていました。これも楽しそうかもと思うのと同時に、ちょっと年上の先輩がいて、その人がかっこよく見えました。練習もハードですし、上下関係などの規律をきちんとすることを学ぶ機会にもなっていました。でも、男子のチームだから、必ず大学生で男子と言うと多くは女の子の話をしていて、合コンをするとかそういうことばかり話している、そんな環境でした。その中で、自分はもちろんゲイだということに気づいているけれど、それを言うとこの場を失ってしまうかもしれないといった不安もあって、高校時代から続けて、当たり前のようにヘテロセクシャル(異性愛者)のふりをしてずっと過ごしていました。合コンに付き合うとか好きな女の子のタイプを空想で話すとか、そういうことを機械作業のようにこなすことは大学生の時点で出来ていて、それ自体に対してすごく違和感を持つということは実は正直ありませんでした。それが当たり前だったし、自分を守るためにそれをすることが、遺伝子の中に組み込まれていると感じるくらい当然にできちゃう作業になっていました。

 でも、LGBTQ+という言葉はその頃ないけれど、当事者、性的マイノリティのことを小馬鹿にしたりネタにしたりする会話はあって、合コンに行ったり好きな女の子のタイプを誤魔化したりすることはできたけれど、そういう会話が出て来た時に一緒に笑わなきゃいけないとか、ケラケラ笑っているのが自分の1番信頼しているチームメイトや先輩であるというのを目の前で体感しなきゃいけないことは辛かったです。それが自分の中では4年間ずっと続いて、すごく仲のいい同期なんだけど、どこかやはり距離を持ってしまっていました。ゴンっていろんなことをやっているね、部活もやってゼミもやって頑張ってるね、と言われるけれど、どこにも自分は属していないという感覚がずっとありました。自分の人生がふわっと宙に浮いているような、自分のことを幽体離脱して見下ろしているような感覚がずっとあったので、このままだと自分の人生では無くなっちゃうなという感覚がすごかったです。

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 大芝亮先生という国際政治経済のゼミに所属していたので留学生も何人かいて、そのうちの1人がメルボルン大学から留学した方でした。話を聞いて、メルボルンって、オーストラリアっていいなと思って調べてみたら、その頃オーストラリアはマルチカルチュラリズム(多民族主義、多文化主義)を欧米からアジアにシフトするというのを旗印にしていて、国自体も多様性ということを全面に出している時期でした。他にも、シドニーの「マルディ・グラ」という毎年一回ある大きなLGBTQ+のパレードイベントのニュースとか、当事者のカップルが本当に手を繋いで街中を歩いているとか、メルボルン大学のホームページにはgay studiesというページにオープンリーな先生の下で勉強できるとかいうことが書いてあって、そういうところに行ってみたいと思いました。僕自身は、多様性とか何か自分の中で惹かれるものがあって、メルボルン大学に留学したいと思うようになり、大学の2、3年生とかで如水会から応募するけれど、部活も4年間やりたいというのもあったから、留年してメルボルンへ行きました。

 そこで初めてカミングアウトしました。メルボルンはシドニーに比べて日本人も少ないし、自分と繋がっている人もいないだろうと思っていたから、ここだったらできるかもと思って、カミングアウトしました。そのころのメルボルン大学には、クィア・ルームという大学と学生自治会が一緒に運営しているレインボーフラッグがかかった場所があって、入学して2週間ぐらいの時に扉を開いて入って、カミングアウトをしました。そこからは本当に楽しい学生生活で、留学をしている高揚感もあるけれど、やはり「自分のことを明かせる」ということをずっと経験できた2年弱でした。いろんな国から来ている人たちと友達になって、「彼女いるの?」と聞かれた時に、僕は実はゲイなんですと答えられるだけで、友人になっていくスピードとか進度とかが全然違って、これが人と人が仲良くなっていくプロセスなんだということを経験して、4年間自分は一橋で何をやってきたんだろうなということも思いながら2年間を過ごしました。すごく自分らしくあったという感じです。

 その体験が自分の中で大きかったので、正直学部生の4年間のことは、嫌な思い出とかこんな辛いことがあったということで覚えているというわけではなく、ものすごくあれもこれもあって楽しかったというふうに思い出されるわけでもなく、通り過ぎてったもの、無かったものとして自分の中に記憶されています。思い出そうとしても、友人とのこんなシーンがあったというのはあまり思い出せなくて、本当に心から楽しんでいたとか、心から怒ったとか、そのような4年間を過ごしていなかったんだというのを今でも感じます。そして、それはすごく勿体無いことだなぁと思います。せっかく4年間一橋のキャンパスにいたのに、そういう時間の過ごし方をしてしまった、もしくは、するしかなかったということは自分にとって勿体無かったと思うし、多くの学生さんが自分のようにキャンパスで過ごしているということも勿体無いと思うし、あってはならないと個人的には思います。

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▲メルボルン留学中の一枚



メルボルン後、クローゼットに戻っていく日常をどう感じてた?

 電通から内定をもらって、面接受けるときにカミングアウトしてはいけないというアドバイスを社員の方から貰ったので、内定もらった後もカミングアウトしていませんでした。でも、アドバイスをくれた方がシドニーの方だったのでお会いして、電通の仕事の話などを初めて聞いて、「コミュニケーションの仕事だから、君はゲイだとカミングアウトしていることを将来活かせるかもしれない」と言われました。今は絶対カミングアウトしてはいけないけれど、将来活かせるかもと言われた時に、仕事にとても希望を感じました。自分の特技とか特徴とか出身とか、ゲイであることさえもコミュニケーションや仕事に活かせるという話を聞いてすごく夢を抱きました。けれど、電通は体育会の部活がそのまま会社になったみたいなカルチャーだと聞いて、周りからは絶対難しいんじゃないかと言われました。

 将来自分がゲイであることを活かせることに希望を持っていたから入社しましたが、仕事だと理解していたものの、本当にしんどい数年間でした。コミュニケーションの仕事は好きだったけれど、仕事の量の多さにプラスして、マッチョな体育会のカルチャーで男性中心主義の文化がありました。自分はストレートのフリをしていて、男性同性愛者ではないことになっているから、男子コミュニティの中にいるわけです。そうすると、女性社員と男性社員が混ざって会議している時と、男性社員だけになった時のギャップみたいなことがやはりあって、それが猥談とかで済むならいいけれど、女性蔑視な発言とかがすごく多かったです。自分がとても信頼している上司とかも、女性がいなくなった瞬間にこんな会話するんだということがわかるわけです。そうすると、自分がゲイだとバレていたら、自分がいない時にこういう感じになるということも疑似体験できてしまうんです。その場でカミングアウトするなんてことは絶対選択肢になかったです。

 1999年~2000年のメルボルンでの体験というのは、一瞬だけご褒美をもらった、あの2年間だけはたまたま自分らしく過ごせたし、それがずっとできるわけじゃないけど、自分にとってはそれができただけでも、ほかの周りのゲイの友達と比べたら、ゴンはいいね、そんな2年間を経験したんだと言えるような、そんな位置付けでメルボルン在学中のことは整理していたという感じです。だから、入社してから自分らしくありたいとか、自分がゲイであることを周りに伝えた上で働こうとかは選択肢にありませんでした。どこかの時期で海外の電通グループのどこかに行こうかということは考えていました。

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▲メルボルン留学中の一枚


 その頃付き合っていた人もいました。男性として男性と付き合うこと、お付き合いする彼氏ができるということは高校・大学では想像できないことだったから、それだけでもすごく幸せでした。みんな隠しているけれど、いろんな世代のいろんな会社で働いているゲイの友達ができたりもして、就職してから16年会社にいて、カミングアウトするまでの半分の間はクローゼットだったけれど、会社の中は仕事の場所だと自分の中で整理して、プライベートでは周りに同じ境遇の友達がたくさん増えた時代だったので、満足していたと思います。周りには、幸せな経験をできない、例えばゲイとして生きながら、カミングアウトもして、周りにも友人がいて、セクシュアリティに関係なくネットワークを広げているみたいなことができない人がほとんどでした。ロールモデルのような人がもしいれば、自分もそういう生活したいな、そういうふうになるためにはどうしたらいいんだろうと考えると思うんですけど、そうしたロールモデルがいないので、ただ友人ができるだけでもちょっとだけ幸せが増えていくような感覚でしたね。

 ホッケー部の方々とは、大学を卒業してからほとんど会っていません。大学の繋がりを自分から主体的に辿ろうとしたことは一度もないです。国立(くにたち市。一橋大学が位置する。)という場所に行きたいと思ったことも正直一度もなかったです。懐かしむこともないし、毎年一回のゼミの先生を囲む会みたいなのもあるけれどなるべく理由をつけて休んでいました。行かないというか、行けば必ず結婚の話になるだろうし、異性愛者のふりをして過ごしていた大学時代とその頃の僕はもう違っていました。1回メルボルンで自分らしく過ごした経験をしていて、日本に戻ってきたら今度はゲイの友達とかが増えている時代でした。そっちの方が心地いいし自分らしくいられるからその時間を大切にしたいと思っていたので、わざわざ大学のゼミや部活の仲間と時間を過ごす意味はあるのかなと、どこかで思っていたんですよね。心を開いていた仲間でもないし、会ってしまうと色々な話をしなきゃいけない。嫌いな人はもちろん誰一人いません。だけど、大学時代の自分の感覚に戻りたくないという気持ちの方が強かったです。思い出したくないというか。アウティング事件がなかったら、ずっと一橋には関わっていないと思います。呼ばれれば話はしたし、如水ゼミという電通が寄附講座を持っているところで声をかけられれば話すけど、自分から何かアクションを起こすということは正直選択肢としてなかったです。一橋のアウティング事件があったから、これだけ接点があります。

 本当はこの瞬間にも、一橋の中で当事者であるということで悩んだり苦しんだりしている人がいるけれど、そういうことは想像していなかったし、どこにでもいるはずだから一橋にもいるし他の大学にもいるということは事実としてはもちろんわかるけれど、母校に対する強い思いは持ったことがありませんでした。

 一橋のアウティング事件の彼は自分だったかもしれない、自分が死んでいたかもしれないと初めて思ったことが、一番大きな転機になったかもしれないです。そういうことを思う瞬間がなかったならば、自分自身の今のこういう考え方もなかったかもなぁと思います。自分自身の反省じゃないけれど、もっと何か自分は一橋にできたことがあるかもしれないというのはあります。亡くなった彼のために、直接的ではなくとも安心安全な場所を作る活動ができるはずだったという反省もあれば、LGBTQ+の活動をしているけれどどこまで自分が本当に命と向き合ってきたかとか、口ではLGBTQ+のこととか権利は大事だと言っていたけれど、どこまで本当に心から自分の言葉として語っていたかとか、場づくりが大事、風土が大事、カルチャーが大事って言ってるけど、やっぱり制度や法律があることの影響力を軽視していたのではないかといった自分自身へのすごい反省が、アウティング事件をきっかけに襲ってきた感覚があります。どこかで何か歯車が違えば、自分は違うところにいて、違う立場で見て、違う経験をしていたと考えると、アウティング事件は、誰でも被害者になりうるし、加害者にもなりうる。そういうことが早くなくなって欲しいと思います。

結審を迎えて

 正直結果は残念です。残された人たちの気持ちにきちんと寄り添った結果になればよかったなと思います。けれど、アウティングというものが人格やプライバシーを著しく傷つけるものだということが判決の中で語られたことは、残していかなくてはならないと思います。

 難しいと思うのは、当事者コミュニティの中でも、アウティングという言葉に対して、「なぜそんなことまで言うのか」、「アウティングはダメだと目くじら立てて言わないで欲しい」、「そういうこと言うとせっかく今自分は心地よく過ごしているのにまためんどくさい人たちのように見られる」という方がいます。僕自身も過去はそうだったなと思うこともあります。意識の違いは、自分は今偶然心地よく過ごせているだけと思えるかどうかだと思います。自分で気づくものだから、あなたは偶然心地よく過ごせているだけなんですよ、とはなかなか言えませんが、気づくきっかけはもっとあった方がいいし、自分たちも色々な活動で力を注ぐべきだと今は思っています。

大学に望むことは


 LGBTQ+、性の多様性について学ぶなら一橋大学だよね、というような大学になって欲しいです。様々な意味を込めて。そうなることが、アウティング事件がこのキャンパスであったということを1番前向きに捉え直すことだと思います。大学側がどう受け止め直すか、本来なら事件があった直後にそうして欲しいけれど、裁判の原告と被告という立場になったことが、それを理由にしてほしくはないけれど、すぐに受け止め直さなかった理由なのだとしたら、今はその裁判が終わり、今やる行動が訴訟の中身に関して影響があるわけではないことは明白なので、一橋としての前向きな答えを出してほしいと思います。

メルボルン大学のカリキュラムを調べて、そこにgay studiesというタイトルが入っていて、先生の紹介にオープンリーゲイと書いてあって、それを見た時の自分はここで学びたいと思いました。そういう大学になるといいなと思います。

 そして、学生が多様であることを大学が受け止められるためには、教職員の人たちの多様性も担保されないと絶対実現できません。働いている人たちもLGBTQ+のことをきちんと学べるような大学になるべきだと思っています。


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松中権
1976年、金沢市生まれ。LGBTQ+活動家。一橋大学法学部卒業後、株式会社電通に入社。海外研修制度で米国ニューヨークのNPO関連事業に携わった経験をもとに、2010年、NPO法人を仲間たちと設立。2016年、第7回若者力大賞「ユースリーダー賞」受賞。現在、NPO法人グッド・エイジング・エールズ代表、 プライドハウス東京代表、Pride Bridge会長など。



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当サークルは一橋大学CGraSS(ジェンダー社会科学研究センター)と一橋大学卒業生有志団体Pride Bridgeとの共同事業であるPride Forumに参加している一橋大学サークルです。ジェンダー・セクシャリティを専門としたPride Forum Resource Centerの運営や、学内イベント実施を行っています。(since 2020)

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