「さんさん録」の缶コーヒー ～鳥見桐人の漫画断面図５～

あえての缶コーヒー。

最近ではコンビニで挽きたてコーヒーが手軽に飲めるようになり、むろんそれはそれで良いのだが、缶コーヒーの奇妙な魅力は失われていない、と思う。

そもそも、「コーヒーを缶に入れる」という発想が斬新だ。コーヒーと言えばコーヒーカップに入れて飲むのが常識だった頃から考えると、今の時代はなんと選択肢が増えたのだろう、と感じる。

俺は近くの公園で、缶コーヒーをあおりつつ、一息ついていた。

戦中には、「敵国飲料」として輸入停止になったという。大正時代に増えてきたコーヒー党は、密かに嘆いていたに違いない。それが戦後にアメリカ合衆国の影響もあってか、コーラとともに「自由と平和」の象徴の飲み物と変わった。今では、宇宙人労働者までもがＣＭ内で缶コーヒーを飲んでいる。

昔の知り合いから頼まれた仕事が一段落した、そのタイミングであった。

…肩がこった。洒落た喫茶店にでも行くか、とも思ったが、この気分には何故だか、缶コーヒーが似合うような気がした。

缶コーヒーは、自由だ。コーヒーカップは洗い物が出るし、コンビニコーヒーはレジで買ってドリップする時間がもどかしい。その点、缶コーヒーは、自販機で買って、ぐいっとあおって、缶を捨てる。それだけだ。量も少なめで、絶妙なバランス。手軽に一息つくには、最適の飲み物なのだと思う。

…公園で缶コーヒー、か。そんな風景を、どこかで見た気がする。

そうか、「さんさん録」だ。

こうの史代さんの漫画、「さんさん録」。タイトルだけを見ると、「太陽の観察日記か？」とでも思える奇妙なものだが、その実は、ある登場人物の記録である。

この作品の主人公は、初老の男性だ。いわゆる「じじい」なのだ。作者の言葉によると、もっとも作者が苦手な「じじい」を描くことによって、自分の漫画への煮詰まり感を確かめたかった、という。もし、この作品が良くない方向へと転がっていたら、作者の名作漫画「この世界の片隅に」も生まれなかったかもしれない。

このじじいが、家事を行うことになる。

そこに意外なラブストーリーがからんでいく形で、一風変わった物語が進んでいく。こうの史代さんと言えば、「この世界の片隅に」でさらなるブレイクを果たした漫画家なのだが、もともとは日常的なほのぼの風景を描き出すのを得意としていた方だ。

その手法が、「この世界の片隅に」においても、非日常と思われる「戦中」の日常生活を描き出すのにマッチしたのだろう。戦中にも日常生活があったことを、この作品を読んで思い出した人も多かった、と思う。

初期の作品である「街角花だより」の頃から、彼女の作品には実用的な豆知識が適度に挟まれていた。「さんさん録」にも、ちょっとした家事の実用的なヒントが含まれている。漫画は人生に彩りを添えるだけでなく、実際に使えるもの。その思想が、このヒントに込められているようで、俺は嬉しくなるのだ。

「じじい」とは、原則、頑固なものである。

男尊女卑の世界で長らく生きてきた者にとって、男女共同参画社会は頭ではわかっていても、体が動かない人もいることだろう。しかし、この作品の「じじい」は、その時代の変化を受け止め、自らを家事する男へと規定する。そのしなやかな変化が、読者の心を打つ。なぜならば、性別を超えて、自分の過去や現状や近未来を、その姿に見るからである。家事をしている人も、していない人も。ここに出てくる家事のヒントを目にすることで、実際にやってみようかな、という気になる。もっとも俺は、掃除は苦手なほうなのだが…。

その家事まみれの凡庸な日常生活に、スパイスをかける女性が登場するのである。彼は、ひょんなことから、その女性と公園で会うことになるのだが、なぜか、その着物姿の女性は言う。「缶コーヒーが飲みたい」と。

…気が付くと俺は、漫画喫茶「てなもん屋」で、さんさん録の「そのシーン」を読んでいた。ワンドリンクは、コーヒーにした。缶コーヒーは好きだが、ゆっくりと漫画を読む至福の時間には、カップに入れたコーヒーがふさわしい。

このシーンにおいて、着物姿の女性は、お見合い帰りであった。周りが放っておかない美人。さぞや結婚へのプレッシャーがあったことだろう。ごちそうも、食べた。しかし彼女を満腹にさせたのは、その年齢なら結婚して当然、という価値観の押し付け、内心の葛藤、自由になれないもどかしさだった。着物という不自由な服装が、感情に拍車をかける。

缶コーヒーは彼女を解き放つ、自由の象徴なのであった。ここで「缶コーヒー」を場面の小道具に持ってきた、こうの史代さんのセンスに、俺はうなった。

漫画や物語において、飲み物はよく小道具に使われる。宴会のシーンでのビール、洒落たディナーでのワイン、落ち着かせるための水。しかしここまで缶コーヒーを効果的に使った例を、俺は知らない（しいて言えば「カイジ」で、強欲社長が「微糖」に難癖をつけて、部下をパシリに使って「無糖」を買いに行かせたシーンくらいだろうか）。

缶コーヒーを飲み、解放感を味わった彼女は、登場人物に嘘か本音かわからない言動をするのだ。さらに物語は深みと苦みを増していく。だがその顛末を、ここで書くのは野暮だろう。作品を実際に読んで頂いたほうがよい。

…頃を見て、俺の旧友でもある店長が近づいてきた。話したくてうずうずしている様子だ。俺たちはスタッフの控室に移動した。

「日常に非日常をからめるのは、こうの史代さんのお家芸だな」

俺の率直な感想に、店長は答える。

「うむ、彼女の初期の作品、『こっこさん』でも、それは出ている」

もちろん彼も、こうの作品をすべて読んでいる。彼女の作品についての漫画談義が始まった。

「『長い道』という作品では、恋愛をすっ飛ばして結婚生活という日常の描写から始まって、そこから非日常に進んでいく。それに対して『さんさん録』は、結婚生活の終焉から、新たなる家族生活の日常を描いていく。ここに見事な対比があるんだよな…」

「『夕凪の街 桜の国』という作品でも、原爆という非日常を描きながらも日常を描く。ここで描ききれなかった部分やテーマを、『この世界の片隅に』で開花させた感じなんだ。政治や哲学うんぬんを持ち出されるよりも、戦中生活の中での楠公飯（なんこうめし）や隣組の歌を持ち出されたほうが、逆に臨場感が出てくるんだ」

…漫画を語り始めると、止まらない２人だ。喉が渇いた。とうにコーヒーカップは空になっている。俺は、店長に言った。

「おい、たまには俺がおごってやる。…缶コーヒーでも飲むか？」

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いかがでしたでしょうか？

今回は、こうの史代さんの漫画「さんさん録」より、「缶コーヒーのワンシーン」を切り取って取り上げました。彼女の作品としては「この世界の片隅に」がとても有名ではありますが、「さんさん録」も必読です。特に、家事をする方におすすめ。

さんさん録 (1) (ACTION COMICS)

例のごとく、ネタバレのし過ぎを防ぐため、登場人物の名前は出していません。気になった方は、ぜひ。