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日本は、基本、国境は海ですよね。
自然にできている国境は、
自然国境、などとも呼ばれます。
そのせいなのかどうしても、
「ウチ」と「ソト」を分ける意識、慣習が
ナチュラルに身についているようです。

「海外」という言葉が、
端的にその意識をあらわしています。

「海を隔てて、こちらは国内、ウチ」
「海の向こうは、外国、国外、ソト」
「ウチ」と「ソト」という意識を、
かなりはっきり分ける国、なのです。

「鬼はソト、福はウチ」なのです。

世界は、決してそんな国ばかりではない。

陸地に人為的な国境線があって、
この線から向こうは外国、という
地続きになっている国はざらにあります。
というか、そういう国のほうが多い。
国境を越えて攻められやすい、
そういう地理条件を持った国も、多い。

当然、そういう国では、
自然の国境があるわけではありませんし、
民族も言葉もごちゃ混ぜになりやすいので、
「場所だけ」で判断することは難しい。
「個人」をじっくり見て、敵か味方か、
自分の仲間か、そうではないかを、
見極める必要があります。つまり、
「ウチ」と「ソト」という「場所」ではなく、
「人」をじっくりと見る必要がある
のです。

対して、日本では、どうか?

「ウチの会社」という言葉を使ったりしませんか。
本来、同じ会社であっても
千差万別な人がいるのが当たり前。なのに、
同じ場所にいる、というだけで
「身内感」が出てきたりしませんか。
個人ではなく、所属で判断したりしませんか。

もちろん、それが良い悪いの話では、ない。
考えの傾向の話です。

この「ウチ」と「ソト」を厳密に分ける
一番のメリットを挙げれば、
「ウチ」が「気の置けない気楽な環境」に
なりやすいこと
でしょう。
同じ場所にいる=仲間。身内。一味。
共通の言葉、共通のネタが、通じる。
暗黙の了解も、伝わる。
これはとても安心感があります。
同調圧力? 赤信号、みんなで渡れば怖くない。
圧力は、「かける側」の多数派になれれば、
これほど心安らかなことはないのです。

対して、一番のデメリットは
「組織に埋没し、個性が生まれない」
ということ
かな、と思います。
知らず知らずのうちに、
組織内で均等化していく…。
中にだけいてはわからないうちに、
「外から見れば金太郎飴」
「ガラパゴス諸島」
になっていく…。
ガラケーなども、ソトの視点から言われなければ
たぶん気付かずに使われていたことでしょう。

景気のいい時代、
一社専従、終身雇用の時代であれば、
メリットのほうが多かった、と思います。
他がどうかなんて、知ったこっちゃない。
鬼がウチに入ってさえこなければ、いい。
年功序列、退職金もがっぽり。何が悪い。

ですが、現在は
そういう時代ではありませんよね?
デメリットのほうが、はるかに大きい。

となれば、どうすべきか?

「意識的に」組織のソトに出ていき、
「自分なりの顔」をアップデートし続けて、
個人的なあれこれを積み重ねるべき、

ではないでしょうか。

「ウチの中だけで仕事を完結させる」
こういう意識が強いうちは、
仕事ははかどりませんよね。
ウチだけでこなせる仕事は、限られますから。
ソトのネットワークを使ってこそ、
様々なことが、できます。
鎖国から、開国へ。

「何をやるか」「どこでやるか」より、
「誰とやるか」が仕事では大事だと、
よく言われることですが、

ウチばかり見ている人には、
同じような「ウチ向きの人」しか
視界に入ってきません。

逆にソトに目を向けて、
自ら意識してソトに出て、活動することで、
同じようにソト向きの人とも
知り合うことができます。

ただ、いきなり物理的にソトに出るのも
けっこう大変なことですので、
とりあえずネット上で、自分はこんな人間だ、
こんなことを日々思っている、と
発信してみてはいかがでしょうか?

おっと、これはSNS、noteやリンクトインを
使っている皆様には、釈迦に説法ですね。
自ら意識して「ソト」に出てきている人が
ごろごろいるのが、この場なのですから。
「ウチ」に引きこもっているだけなら
そんなには必要ない「プロフィール」も、
ここでは「見える化」して
「誰にでもわかるように」書く必要がある。

…人間、必要がないと、書きませんから。

ウチからソトへ。

無意識にウチとソトを分けてしまって、
自分を「見えない化」しがち
日本にいるからこそ、

自分の個性を「見える化」し、
「あなたと一緒に仕事がしたい」という、
「個人」としてのファンづくり
励むべきかな、とも思う、今日この頃です。

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