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「MASTERキートン」の書庫 ~鳥見桐人の漫画断面図4~

図書館は知の宝庫である。

漫画喫茶にばかり行く俺ではない。時には図書館にも、行く。人生について考える、昼下がりの午後。

図書館には、雑多な人間が集まる。定年退職したであろう高齢者、受験を間近に控えているであろう中学生、子ども連れの主婦、何をしているのかよくわからない人…。俺はその中でも、ダントツに「よくわからない人」の代表例として見られているんだろうな。まあいい、俺はプロティアンだから。

…キャリア論の世界には、『プロティアン』という言葉がある。

この名は、ギリシア神話の神、プロテウスに由来する。変幻自在の神で、火にも水にも獣にも姿を変えることができる。環境に応じて、自分の軸を持って、変幻自在にキャリアを構築していくべし。「プロティアン・キャリア」の考え方は、これだ。俺は、この言葉に初めて出会った時、まるで自分のことのように感じた。なぜか、世の中にいていいよ、と言われた気がしたのだ。

このようなキャリアを持った人物は、他に誰かいるだろうかと、頭の中でページを繰ってみた。知り合いの中には…と顔を思い浮かべる。すぐに、1人の顔が思い浮かんだ。

しかし次の瞬間、その画像は、ある中年男性の顔にとってかわられたのである。

「MASTERキートン」だ。

俺の脳内では、書庫にて一心不乱に歴史書を読み漁る彼の姿が浮かび上がった。俺は立ち上がった。本を戻し、図書館を出る。行先はいつもの漫画喫茶である。その場面を読みたくなったのだ。

「MASTERキートン」とは、勝鹿北星さんと浦沢直樹さんの漫画だ。ここで取り上げる登場人物は、30~40歳代くらいの、外見は冴えない、ただの中年男である。

しかし彼の(設定された)キャリアは、まさに変幻自在、プロティアンと呼ぶにふさわしいだろう。イギリス人の母と日本人の父を持つ。イギリスのオックスフォード大学で、考古学を研究。軍隊に入って特殊部隊所属、軍事やサバイバルの教官にもなった。大学の非常勤講師。保険の調査員(オプ)で探偵。プライベートでは、妻とは離婚しているが、娘が1人いる。

考古学者であり、戦闘能力やサバイバル能力にも長けており、講師をやれば探偵もやる。語学は、何か国語に通じているかわからない。イギリスと日本を主な拠点としつつ、世界中を旅する。

盛り過ぎな気がしないでもないが、漫画的にはこれくらい盛ってもいいだろう。色々な国のことが描けるようにという、ご都合主義的な設定はあるだろうけれども、これほど「プロティアン・キャリア」を持つ人物もいないように思う。

プロティアンとは、ただの「節操のない者」ではない。自分の軸を持っているからこそ、しなやかに変幻自在にキャリアを構築できるのだ。彼の自分軸は、考古学者。その原点は、大学にある。

彼の教官は、学生結婚をして子どもが生まれて、生活のために余裕がない彼に落第点をつけた。その上で、彼にこう言ったのである。

「昼間、働かねばならないのなら、夜、勉強したまえ」

鍵を渡す。それは教官専用の「書庫」の鍵であった。そこには、彼を虜にする歴史書の、原典の数々が置いてあったのである。彼は夢中で読みふける。考える。この時間が幸せな時間であったと、彼はこの場面で回想する。

急ぎ足で進む俺の前に、漫画喫茶「てなもん屋」が見えてきた。

旧友は世界史好きである。この旧友が経営している漫画喫茶には、当然、歴史のロマンにあふれた「MASTERキートン」が置いてある。しかも、単行本、文庫版、愛蔵版、果てはアニメ版まで、全巻揃っている。どんだけ好きなんだ。俺は、彼に言った。

「書庫のシーンが読みたいんだが…」
「ほらよ。単行本なら3巻だ」

相変わらず察しの良い奴だ。にこにこしている。奴の怒涛の世界史蘊蓄話が始まる前に、俺は本を手に取って彼の前を離れ、席で読み始めた。

「書庫」という舞台設定が良いな。改めてそう思う。

「図書館」だと、オープン過ぎる。誰でも入れるイメージだ。開かれた知の空間。かと言って「書斎」や「研究室」だと、クローズ過ぎる。第一、教授や他の研究生もいるだろうから、自分の世界に没頭できるという感じではない。

その点、「書庫」は特別だ。「書」の「倉庫」なのだ。ふだんは陽の目を見ず、読まれない書物が集められ、ひっそりと秘蔵されているイメージ。しかも「夜」なのだ。人もほとんどいないだろう。共有財産でありながら独占できるという、知る人ぞ知る知の空間。まさに、至宝の空間である。

自ら学び、自ら考える者。ストイックに己の思考を鍛えていける者だけが、書庫を使いこなせる、と思う。図書館が「知の宝庫」とすれば、書庫は「知のトレーニングジム」だ

しかも「教官専用」の書庫、ときた!

オックスフォード大学の教官専用。聞いただけで歴史の積み重ねと重厚さを感じさせるではないか。この空間に、登場人物は足を踏み入れていく。時には仕事もそこそこに、この書庫に入り浸ったことであろう。昼も夜も、ない。ひたすらに読み、ひたすらに考える。学問の喜びに浸る。その描写が、素敵だ。

この回ではないが、彼の父親は、彼に言っている。

「学問はどこででもできる。便所の中でもな…」

書庫でも、できる。便所の中でも、できる。学問とは本来、自由なものなのである。

彼のキャリアは一直線ではない。大学の講師はクビになる。水の合った社会人学校は閉鎖される。学閥に入ることを拒否したことで、考古学の合同発掘作業からは外されてしまう。バイトのつもりの保険調査員のほうが本業になりつつある。この登場人物、けっこう踏んだり蹴ったりのキャリアなのだ。しかし彼はくじけない。なぜならば「考古学」という、自分の軸があるから。その軸を作ったのが、この「教官専用の書庫」であるように、俺は思う。

旧友がいつのまにか近づいてきて、俺をスタッフ休憩室に呼んだ。しょうがない、少しだけ、奴の話につきあってやるか。

「どうだ、お前も全巻揃えたくなっただろう!」
「うーん、ここに来ればいつでも読めるからな…」

そう考えて、ふと、思い当たった。図書館で最初に浮かんだ顔。そうか、こいつの顔だ。世界史の教師の職をいつの間にか辞し、全財産をはたいて、自分の世界を構築する漫画喫茶をオープンさせた男。俺は、奴に言った。

「お前もプロティアンだな」
「…俺の自分軸は『漫画』だからな」

そう言い返すと、奴はおごそかに、こう加えた。

「漫画は、どこででも読める」

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いかがでしたでしょうか?

勝鹿北星さんと浦沢直樹さんの名作漫画、「MASTERキートン」より、書庫のシーンだけを切り取って紹介しました。「てなもん屋」の店長、この漫画、すっごい好きそうですね。

単行本なら3巻、「屋根の下の巴里」に出てくるエピソードです↓

なお、今回紹介した『プロティアン・キャリア』の考えについては、法政大学教授の田中研之輔さんの著書に詳しく載っています↓

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