犬養毅(いぬかいつよし)。1932年の「五・一五事件」によって暗殺された総理大臣。

「話せばわかる」「問答無用」。

議会政治の申し子のような彼が、有無を言わせぬ暴力の軍隊に殺された! 以後、議会は徐々に力を失い、軍部が台頭した…。

だが、そんな一文「だけ」で彼の業績を片づけるのは、いささか乱暴ではないだろうか? そもそも、犬養毅は、議会でどのように活躍してきたのか、知っているだろうか? 死んだ場面だけ知っていて、それまでの生涯を知らないのは、いかがなものか?

本記事では、そんな彼の生涯を追う。

犬養毅は岡山県出身。1855年の生まれだから、ペリー来航の2年ほど後に生まれた。20歳の頃に福沢諭吉の慶應義塾に入学。その後に新聞記者となり、西南戦争の従軍記事で名を上げた。1882年には大隈重信のつくった立憲改進党に入党。35歳の頃、1890年の第1回衆議院議員選挙で初当選した。

私学の二大巨頭、慶應の福沢、早稲田の大隈、両方に縁があり、しかも新聞記者だ。…当然ながら、当時の政治に対して、批判的な眼をたっぷり持っていた。

彼は「憲政の神様」という呼び名でも知られる。42年間で18回連続当選。同じく「憲政の神様」と言われた、尾崎行雄の記録に次ぐ大記録だ。しかし、ともすればこの呼び名が独り歩きし、「ああ、議会で大活躍した人だね」という断片的な理解に終わりがち。

…でも、なぜ神様とまで呼ばれた人が、死んだところだけ有名になるのか? それは当時がまだ、議会で大活躍する=政治の実権を握れる、という時代ではなかったから。そもそも、選挙権自体が、一定の税金を納めることのできる富裕層の男性だけに限られる制限選挙。まだ普通選挙では、なかった。

いわゆる「政党政治」「議会政治」は確立されていない。元老と呼ばれた実力者たちが政治を動かす「元老政治」だ。1910年、韓国併合。1911年、関税自主権の回復(不平等条約の改正)。日露戦争後に、日本が徐々に国力を高めていた頃である。

犬養は、この状況に、猛然とかみついた。

1913年、元老の指名により第3次桂太郎内閣ができた際、立憲国民党の犬養は、立憲政友会の尾崎行雄たちとともに、「第一次護憲運動」を起こした。「憲政擁護会」をつくり、桂内閣に不信任をつきつけたのだ。その際のスローガンは「閥族打破・憲政擁護」、要するに「一部の特定の人たちだけで政治を行うのはおかしい、ちゃんと憲法を守って政治を行え」ということだ。

盟友の尾崎行雄は、議会でこう発言した(意訳)。

「(桂太郎たちは)常に口を開けば『私たちは忠誠に厚い、忠誠に厚いのは自分たちだけだ』と言うが、よく見れば、玉座の陰に隠れて政敵を狙撃しているだけ。天皇陛下の命令を弾丸の代わりにして、政敵を倒そうしているだけではないか?」

「隠れるんじゃないぞ、議会があるのだから、ちゃんと議会に出て、議論で戦え!」と言われた桂太郎、ぐうの音も出ない。かと言って、議会で議論してしまうと、犬養や尾崎たちに分がある。そこで議会を解散しようとしたが、猛反対に遭った。日本各地でも暴動が起こった。大衆を味方につけた犬養たちは、ついに桂内閣を総辞職に追い込んだ。世に言う「大正政変」である。

…その後、紆余曲折を経て、「平民宰相」と呼ばれた原敬(はらたかし)が、大政党の立憲政友会を率いて、1918年に総理大臣に就任した。これは彼が、「閥族」の有力者、山縣有朋にうまく接近し、力を蓄えることができたからだ、と言われる。

一方、犬養は閥族を敵とみなし、決して近寄らなかった。その差があらわれた。

彼には、致命的な欠点があった。政敵を攻撃するあまり、毒舌をふるいすぎるのだ。「毒舌家」犬養の演説は理路整然、無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。しかし、いくら正しいことであったとしても、人前でボロクソに言われたら、そりゃあ、その人は恨みを抱くだろう。事実、彼の周りは敵だらけ。原敬のように、清濁併せのみ、仲間をたくさん集め、大政党を率いる、ということが、できなかった。言いたい放題の野犬。小さな政党の党首、「永遠の野党」という時代が、とても長かったのだった。

1924年には「第二次護憲運動」を起こし、1925年には普通選挙法と治安維持法がセットで成立したが、彼はすでに脇役の一人で、主役ではなかった。率いていた立憲国民党も、革新倶楽部と名を変えて、最後は大政党の立憲政友会に吸収された。彼自身は、政界を引退した。

…え、政界を引退?

そう、実は彼は、総理大臣になる前に、引退しているのだ。その晩年の3年間で復活し、思いがけず総理大臣にまでなった後に、散っていったのである。

彼の引退を岡山の後援者たちは許さず、彼を「勝手に立候補させて」議員を続けさせた。一方、立憲政友会の有力者たちは、党内のゴタゴタを収めるため、彼を「勝手にかつぎあげて」迎え入れ、総裁にした。「憲政の神様」なら、神輿としてかつぐには申し分ない。

時は1930年、立憲民政党の濱口雄幸総理が、ロンドン海軍軍縮条約を進めていた。犬養、これにかみつく。軍隊は、天皇が統帥するもの。政治がこれに口出しするのは統帥権の干犯だ…! いわゆる統帥権干犯問題だ。彼は内心、軍縮には賛成だった。しかし、今や大政党の総裁で、小さな党の党首ではない。総理大臣の椅子は目の前だ。力を得て自分の政治理念を実現するためにも、政府を攻撃すべき。「軍縮には賛成、内容には反対」という老獪な理屈で、政府の条約案に反対したのだった。

濱口総理は暴漢に襲われ重傷を負う(のちに死去)。後をついだ第二次若槻礼次郎内閣も、1931年の満州事変を抑えきれず、すぐ総辞職した。政敵を鋭く論破する力を持っていた犬養は、その力を十二分に発揮した、と言える。

1931年末、ついに内閣総理大臣に就任した。

もともと中国通、辛亥革命の中心人物である孫文を支援していたこともある。満州事変を「言葉の力」、つまり外交の力で解決しようとして、1932年に成立した満州国を承認しなかった。…そんな状況の中で、彼は五・一五事件によって、暗殺された。

「統帥権干犯」を言い出し、いわば軍部を擁護した彼が、なぜ殺されなければならなかったのか?

本来なら、満州事変当時の総理大臣、若槻礼次郎が殺される対象となるはずだ。しかし若槻はすぐ総辞職、行き場を失った怒りが、代わりに総理大臣になった犬養に向けられた、とも言われている。…野党として政府を攻撃した理屈で、軍部が勢いづき、回り回って自分の命を失った、とも言えよう。

「話せばわかる」の神様は「問答無用」で殺された。しかし、彼は最後まで言葉の力を信じていた。死の床の中で「今の(自分を撃った)若い者をもう一度ここに呼んでこい。よく話して事情を聞かせてやる」と言った、という。

これ以降、議会は冬の時代を迎え、軍部が表舞台に立つ時代になる。犬養毅は、議会の中で議論という牙を磨き、たくさんの政敵を攻撃した。その彼が最後に言葉ではなく、物言わぬ銃口によって攻撃された。まさに、歴史の皮肉と言えるだろう。賛否両論にまみれた議会人の最後だった。

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