見出し画像

ふくばはやと、福羽逸人という巨人!
1856年生まれ、1921年に死去。

…えっ、誰?と思った方には、ぜひ、
この機会に知って頂きたい名前。
彼の異名を紹介しましょう。

◆「日本の近代園芸学の父」
◆「園芸の技神」
◆「新宿御苑を造った男」 そして、
「日本のいちごの父」

…そうなんですよ。

日本のいちご栽培を検索すれば、
真っ先にこの人の名前が挙がります。
本記事では、この福羽逸人、
「ふくばはやと」さんの生涯について
紹介してみたい、と思います。

1856年、石見国津和野藩の生まれ。
今で言えば、島根県鹿足郡津和野町。
島根県の西の端で、山口県はすぐ近く。
津和野は「小京都」とも知られている
山間の小さな盆地の町です。

1856年と言えば、ペリーの黒船が来航して
まだ三年目のこと。
「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れる幕末です。

この山間部の小さな藩に、
福羽美静(ふくばびせい、よししず)
という一人の志士が現れる。

彼は藩主の命で京に留学、国学を学びます。
藩に戻って、藩校の養老館で教授に。
その評判が京都にまで聞こえたのか、
1863年、孝明天皇に近侍します。

しかし京都で政変が起きてしまう…。
「七卿落ち」と呼ばれる
尊王攘夷派の公家が追放された時、
彼らとともに美静も西に向かいました。
(七卿は、尊王攘夷の盛んな長州藩に)

さて、明治維新、時代が変わって、
この七卿の一人、
三条実美は太政大臣になるなどして
出世していくわけですが。

彼らを困難な時に助けてくれた
福羽美静も出世していく
んです。
1869年(明治二年)明治天皇の侍講に就任。
教育係の一人です。後には教部大輔に出世!

その美静の養子になったのが、
津和野藩士、佐々布利厚の三男であった、
後の福羽逸人、なんです。
1872年、16歳の時でした。
明治の新時代に、活躍していった人。

…養父である美静は、幕末には
「尊王攘夷!」と言ってはいましたが、
けっこう柔軟なところがある人だったようで、
「外国の長所を取り入れるべきだ!」
という意見を持っていたんですね。

ところが、これに反対意見が続出…。
教部大輔を免官されてしまって、
宮内省の歌道文学御用掛、
つまり和歌の先生になりました。

美静はおそらく、その養子、逸人には
「お前は、外国の長所をしっかり学べ!」
と言っていたのではないでしょうか?
逸人はドイツ語を学び、工部省の学校に入学。
「文明開化」「富国強兵」のために、
最新の工学技術を学んでいく…。

とは、ならないんだな、これが。

逸人には、好きなことがあったんです。
「園芸」です。
小さい頃から梅や柿や菊の栽培が好きで、
自分で接ぎ木などをして育てていた。
果物や花が大好きな少年。園芸オタク。
数学や物理学は、嫌いだった。

そこで彼は、農学校に転校します。
自分の「好き」を極めるために…。

1878年には内務省の農学関係の職場に就職!
甲州(山梨県)のぶどう栽培について研究し、
『葡萄園開設論』を提出しました。

これがフランス帰りの松方正義の目に止まる。
松方正義(まつかたまさよし)。
初代の大蔵大臣や
第四代、第六代の総理大臣を勤めることになる、
政界の大物です。

…フランスと言えば、ワインの本場、ですよね。
文明開化、近代国家建設のためには、
日本もワインに詳しくならなければならない。
欧米列強の人たちとうまくつきあうためにも。

こうして逸人は、兵庫県に設立された
「播州葡萄園」の園長に抜擢されました。
また、本場のワインや園芸農業を学ぶために、
イタリアやフランスにも派遣されます。

ただ、時の総理大臣、
伊藤博文は留学に難色を示していたそうで。

「あのさ、政府にはお金がないんだけど。
そんな趣味っぽいことに
お金を使う余力、ないんだけど…」

しかし、逸人はくじけない。

伊藤総理に直接面会をして、
いかにぶどう栽培や園芸農業の発展が
これからの日本に必要なのか、説明した。

「日本の農業の発展には、
ぶどう栽培やぶどう酒(ワイン)醸造、
これは、絶対に欠かせません!
それだけでは、ない!
欧米列強の優れた果物、花、野菜、
そういったものを栽培する技術こそが、
日本の農業の未来を花開かせるのです!!」

「好き」のパワーは、総理も動かす。

彼は見事、留学することに成功しました。
こうして彼は、欧米の最新の園芸農業技術を
日本に持ち帰り、活躍していくのです。

時には、ヨーロッパの宮廷の庭園を
この目でじかに見たい、と思い、
ロシアの式典(ニコライ2世の戴冠式)に
ついていったこともあったそうです。
この時も伊藤博文が難色を示しましたが、
「絶対に必要ですから!!」と押し通した。

筋金入りの園芸農業家。かつ、
花の栽培にも詳しいために
「花壇」や「造園」のプロにもなった。

彼の業績を、挙げてみましょうか。

◆和洋様式混在の「新宿御苑」をつくる
◆「日比谷公園」の花壇をつくる
◆パリ万博で「菊」の作品提出、驚嘆される
◆大正天皇の即位礼「大饗」の指揮監督官、
 食事会の献立などの一切を任される

養父のつながりもあってか、
宮内省関連の業績が多いのです。

ただ、何と言っても彼の業績の一番は、
果樹や野菜、花など、
園芸農業の技術を日本全国に広めたこと。

「米栽培」が主体だった日本の農業が、
彩り鮮やかになったのは、彼の影響が大きい。

その一つが、いちご栽培です。

彼は、西洋いちごを何とか
日本で栽培しようとして、
「ジェネラル・ジャンシー」という
いちごの種子をフランスから取り寄せます。
それを、新宿御苑の中で育てていった。

1899年、ついに大きな果実を実らせて、
「福羽いちご」という新品種として発表。
御苑いちご、御料いちご、とも呼ばれました。

当時、新宿御苑は「皇室のための栽培園」です。
このいちごも「皇室献上用」でした。
一般への栽培は許可されませんでしたが、
1919年、彼の晩年に、ようやく許可されます。

日本中で彼の「福羽いちご」は大人気となり、
みんなが美味しいいちごを
楽しめるようになっていったのです。


最後に、まとめましょう。

本記事では、福羽逸人の生涯と園芸農業、
彼のいちごなどについて、紹介しました。

「福羽いちご」は、現在の
とちおとめ、あまおう、とよのか、さちのか、
などの品種の先祖
にあたります。

いちご栽培で有名な県の一つ、栃木県には、
「おとめサンド」という
いちごスイーツがありましてね。

甘くて美味しい「とちおとめ」を
アイスと求肥(ぎゅうひ)と一緒に
最中の皮でぎゅうっと
サンドして食べる、という、

「こんなん、美味しいに決まってるやん!」
と叫びたくなるような、
もう、物凄く美味しい
和洋様式混在のスイーツです。

読者の皆様も、ぜひいちごを味わう際には、

「日本のいちごの父」
福羽逸人の生涯を思い出してみては
いかがでしょう。

皆様の好きないちごスイーツは、何ですか?

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!