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「切匙(狭匙)」という道具がある。

切る匙(さじ)? 狭い匙(さじ)?
何の道具だろう?と思われがちだが、

これは「せっかい」と読む。
すり鉢やすりこぎの内側に
ついたものをこぎ落とす道具、である。

この道具の名前から転じて、
「細かい所まで行き届かせて
他人の内に入り込む」ことを
「おせっかい」と呼ぶ
ようになったそうだ。

「おせっかい」(お節介)という言葉は、
良い意味でも悪い意味でも使われる。
だが、どちらかというと
悪い意味で使われがちだ。

『やり過ぎるんだよ、お節介野郎が!』
『あのおばさん、優しいんだけれど
お節介が過ぎるのよね…』

このように使われるとき、
「内心にまでズケズケ入り込んで
触れられたくないものまで触れてくる
イヤな人」
というニュアンスが出てくる。

そう、語源となった「切匙」から言うと、

「あえて」目に触れないようにしていた
センシティブで内心の核心的なことを
「こぎ落とす」ことによって
人目にさらす、明らかにしてしまう。
…そんなニュアンスなのである。

だが、あえて、提起してみたい。

「良いおせっかい」も、
あるのではないだろうか?

人間の世で生きていると、
どうしても「フェイクニュース」とか
「常識」とか「自明の理」とか、
「言わなくてもわかるだろ!」的な情報に
囲まれがちである。

おせっかいは、そんなものを
いったんこぎ落とす作用がある。
偏見や目の鱗をこぎ落とす。
貴重なもの、でもある
のだ。

そもそも「切匙」は道具だ。
ツールに過ぎない。
それ自体に良いも悪いもない。
使う人、使われる人が
どう思うか、の問題である。

大多数の「常識」「自明の理」に囚われず
考えるべき問題を明らかにする。
時代の先に進もうとする人は、
自分のほうから進んで「おせっかい」を受け
目の鱗をこぎ落とししている

ように思われる。

その一方で、「常識」「自明の理」に安住して
考えるべき問題を後回しにする人は
汚れがこびりついたすり鉢のようなもの。
「おせっかい、ノーサンキュー」とばかりに
そのままこぎ落とさず、汚れたまま、
次の胡麻をすろうとする。

もちろん、おせっかいはやり過ぎれば
害毒だ。
「すり鉢本体」まで削ってしまっては
木くずまで出てきて、本末転倒である。

だからこそ、適度にバランスを取り、
「おせっかい」をする、される。

それが「個の時代」「孤立社会」と言われる
現代を生き抜く一つのツール、
なのではないだろうか?
この時代、自由なようでいて、
いつの間にか「自分が触れたい情報」にしか
触れなくなり、孤立しがちでもある
ので…。

SNS、noteやリンクトインは、
まさに「リンク」して、
この「おせっかい」を
したりされたりしやすくするツールだ。

SNS上では、
(一部、おせっかいが過ぎる方もいるが)
この「おせっかい」をうまくできる人、
うまく受けられる人が、伸びる
ように思う。

※もちろん、センシティブなところを
削り過ぎないように注意は必要だが…。

ということで、本記事への「おせっかい」、
つまりリアクション、スキ!やコメントなど、
お待ちしております(笑)。

◆本記事は以前に書いた記事のリライトです↓

「良い塩梅」の「おせっかい」は大事ですね!

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