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徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は「期待され続けてきた」人物だった。1837年に生まれた。水戸藩主、徳川斉昭の子として。子どもの頃から、父親に特に目をかけられて、将軍候補として育てられたというから、よほどの才能があったのだろう。

この当時の日本は、まさに内憂外患であった。

幕府の役人であった大塩平八郎の乱(1837年)は起きるわ、アヘン戦争で中国が負けるわ(1840~1842年)、挙句の果てにはペリーが黒船によって来航してきた(1853年)。

国内では「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れた。

幕府の大老となった井伊直弼(いいなおすけ)が、かなり強引に開国を決めて、不平等な内容の条約を結び、さらには安政の大獄なども行ったため、幕府への風当たりはますます強くなった。1860年、桜田門外の変において、この井伊直弼が殺される。今で言えば、総理大臣が暗殺されるようなものだ。まさに幕末の風雲、というか、乱世である。このような中で、英明をうたわれた徳川慶喜の登板を、世の中は期待し続けていた。

井伊直弼が殺された後で、徳川慶喜は「将軍後見職」という職に就き、ついに政治の表舞台に出ることができた(1862年)。それまでにも将軍に推そうという話もあったが、失敗に終わっていたのである。

紆余曲折を経て、15代目の「最後の将軍」に就任したのは、1866年のことだ。ところがその翌年、1867年には、有名な「大政奉還」を行うことになる。政治のトップである将軍になっておきながら、政治をする権限を朝廷に返す、という離れ業をやってのけるのである。

政治をする権限を朝廷に返す。

彼としては、渾身の一策であっただろう。政治などほとんどしたことがない朝廷、文句ばかり言っている朝廷が、この乱世を乗り切れるわけがない。徳川家、つまり自分を頼ってくるしかない。そうなったら西欧流のトップとして、新しい政治の仕組みを作って、存分に歴史を動かしてやる、といったところか。

ところが相手もさるものだ、「王政復古の大号令」という見事なカウンターを決めて、彼の鼻をへし折った。「辞官納地」、つまり役職を辞めて土地を朝廷に返上しろ、と逆に迫られてしまったのである。幕府軍と朝廷軍(薩摩藩と長州藩中心)との間に、「鳥羽伏見の戦い」が起こった。幕府軍は負けた。賊軍・朝敵のレッテルを貼られて。

ここで、彼は、後に最も賛否両論が分かれる選択をした。朝廷、つまり新政府軍に逆らわず、徹底恭順の意を示したのである。

旧幕府側も一枚岩ではない。彰義隊、会津藩、蝦夷共和国、有名どころでは新選組副長の土方歳三など、新政府軍に抵抗する人たちも多かった。いずれも失敗して、滅亡するか、降伏した。トップであった元将軍が恭順しているのだから、無理もないだろう。いわゆる戊辰戦争(1868~1869年)が、こんなにも早く終わるとは、新政府にとってみても想定外だった。

彼は、逆らわなかった。戦わなかった。

抵抗した旧幕府の人たちから見れば、とんでもない臆病者、変節漢、不義理の塊である。将軍様、旧主君とはいえ、彼に対しては複雑な思いを抱いたに違いない。

政治の表舞台における彼の人生は、終わった。しかし、彼は生きた。

趣味の写真などを取りながら、生き続けた。死去するのは、何と1913年のことである。大正時代。享年77歳。その間に、明治政府に反抗しようとか、幕府を再興しようとか、そういう事実は(表立っては)無かった、と言われている。

1908年(明治41年)には、明治天皇から「大政奉還の功」によって、勲章をもらった。大貴族にもしてもらった。「戦わなかったこと」によって、国力を減らすことなく明治新時代を迎えられたのは彼のおかげだ、というのがその理由である。大政奉還から、約30年後のことであった。

徳川慶喜。この名前を初見で「よしのぶ」と読める人は少ないだろう。だからでもあるのか、(とても長い)余生を送った静岡では、「ケイキ様」と呼ばれて親しまれたという。

一方で彼には、「豚一殿」という異名もある。豚肉が好きで、幕末当時では珍しい肉食をするものだから、このように呼ばれた。むろん、この場合では「ちょっと変わっている人」というあざけりの意味合いがある。しかし、明治時代に入ると文明開化の影響で「牛鍋屋」が繁盛し、現代の日本では「豚丼」や「とんかつ」が普通に食べられていることを考えると、彼は恐ろしいほど時代を先取りしていたようにも思える。

彼は、期待され続けた。その上で、負けた。しかしその負けたあとの徹底した恭順によって、賛否両論はありつつも、歴史を動かしたと言える。

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