巫女体質が本名や顔出しを避けるのはなぜ?|ハウルの動く城に学ぶ心のお清め
ようこそお参りくださいました。
「巫女体質のためのお清め教室」創始者の
神職 松井久子です。
さて、巫女体質の方の多くは、顔出し、実名で活動することを怖がります。
その理由はなぜでしょうか。
過去世で平安貴族だったから?
過去世で魔女狩りにあったから?
いやいや、過去世云々を理由にするのはやめましょう。
そのかわりに、今日はジブリ作品から学んでみようと思います。
魔女と言えば、ハウルの動く城にでてくる、「荒れ地の魔女」のことは、ご存知でしょうか。
映画の前半で、荒地の魔女は、昼間は日の光を遮断する乗り物に乗って移動し、主に夜の時間に美しく妖艶な姿で登場します。
その後、ソフィーと競い合うように、階段を登るシーンでは、お日さまの光に照らされてしまいます。階段を登るごとに、荒地の魔女の表情が崩れていく姿に驚いた方も多いのではないでしょうか。
私たちも、心の中はこの荒地の魔女と似たような状態にあるのです。
未消化な想いを無意識にいっぱい溜め込みながら生きているので、正々堂々と表に出て、日の光に照らされてしまうと、一見すると「醜い姿」に見えてしまうようなそれらの想いが吹き出してくるのです。
巫女体質の方が自分の本名や姿をどうどうと人前にさらさないのを選ぶ理由の一つは、この荒地の魔女の構造と同じだと思ってください。
古い心の痛みに直面する準備がまだ整っていないと感じる間は、色々言い訳を作って、どこか目立たないように立ち振る舞いたくなるのです。
そうやって、時が来るまで自分を守るのも、また、大事なことでもありますね。
さて、その荒地の魔女、最期はすっかり毒気が抜けて、かわいいおばあちゃんになってしまいます。
必死に取り繕ってよく見せようとしていた鎧が剥がれて、素の姿が出てくるわけです。
これは私たちの自我が祓われていく際のプロセスを描いてくれていると捉えることもできますね。
でも、このプロセスに終わりはありません。
私自身も次のステージに挑戦するときは、毎回毎回が荒れ地の魔女状態です。
祓い清めの道に終わりなし、ですからね。
それでも、一見、美しそうに見える姿も、醜くそうに見える姿も、どちらも愛しいと思うことができれば、軽やかな心で挑戦を続けやすくなるのではないでしょうか。
ちなみにジブリ作品のお話しが出たので余談ですが、
「風立ちぬ」に登場する菜緒子さんのように、「好きな人に綺麗な姿だけ見てもらいたい」という信念で行動するのも素敵だし、
荒地の魔女のように、美しい姿も醜い姿も結果的に全部さらしてしまって、周囲の人と顔を見合わせて喜怒哀楽を共にするのもどちらも素敵だな、と私は思っています。
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
あなたにお清めのご神徳がありますように。
追伸
本日より、9月23日に斎行する、みたままつりの準備に集中させていただきます。
その翌日は、靖国神社を奉拝いたします。
それが終ったらまた、お会いしましょう。
松井久子より
※ 「巫女体質」は松井久子の商標です。
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