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「返品可能なジャンル分け」ヒスイ、小説「ハンチバック」を思う

「「私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。」市川沙央『ハンチバック』より


直木賞、芥川賞の受賞作が話題になることは、喜ばしいと思っている。
少しでも話題になれば本を読む人が増えるだろうし、
それによって、「ここじゃないどこか」へ行ける人も増えるからだ。

現実とは、ただ真っ正直に立ち向かえばいいわけじゃない。
時には逃げ、時には、たぬき寝入りを決め込んで
自分を守ることだって大事だ。

そんなヒスイでも、ときには
「ああ、世界をまっすぐに見て、戦うことも大事だな」と
思うことがあります。

市川沙央の小説「ハンチバック」では
重度の障害を持つ主人公が
現状の世界について、胸がすくような悪態をつく。

それは、この世界が「健常者」のために作られ
「健常者」の利便性を追求していることを
あらためて突きつける。

「私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。」
(「ハンチバック」より)

そうだ、読むという動作には、これだけの複雑な連携が必要なのだ。
それを私たちは、忘れている。
その傲慢さを、市川沙央は鮮やかに突きつけて見せる。


それはいい。

だが、今日言いたいことは、それだけじゃない。
ある新聞記事のタイトルの内容に
腹の底から怒りを覚えたからだ。

『障害者文学か、当事者小説か 芥川賞「ハンチバック」を読む』
(2023年8月28日付、朝日新聞)

は?

は???

障害者文学か、当事者小説か??
それって、何の関係があるんだ?
小説とは、それだけが空中に屹立しているようなもので
どこで、誰が書いたかということは
問題じゃないはずだ。

それとも。
コッチが根本的に間違っているのか?


<゜)))彡 <゜)))彡 <゜)))彡

「ハンチバック」は、「文學界」の新人賞を取り、7月に芥川賞をとった作品。
そして主人公は、作者と同じ年齢で、障害がある、となれば
私小説ふうに取られてもおかしくはない。
作者の市川自身もあるインタビューで

「「自分としてはせいぜいオートフィクション。重なるのは30%という感覚です。ただ私小説的に読まれるだろうと予想できた」と言っている。

だが、30パーセントだ。
たかだか30パーセント程度のシンクロ率なのである。
エヴァンゲリオンなら、ぜったいに乗れないシンクロ率である。

なのに、メディアは「障害者文学か、当事者小説か」といいたがる。
どっちでも、いいじゃないか(笑)。

「ハンチバック」を読めば、
そのインパクトの強さを体感すれば、

障害者文学だの、当事者小説だの、といった
ジャンル分けが不要、ということは、秒でわかる。

「ハンチバック」は「ハンチバック」というジャンルの小説なのだから。


<゜)))彡 <゜)))彡 <゜)))彡

小説を読む、ということは
千差万別の感情を
体内にため込むことである。
その感情が、いつか自分を支えてくれることもあるし
誰かに向かって放つ矢となることもある。

それは極私的な、かぎりなくパーソナルな体験であって、
けっして作家の属性によって
ジャンル分けされるべきものではないと思う。

書き手は、
自分の身近にある材料を使い、
こころゆくまで、小説という「異世界」を構築することが
仕事である。
市川沙央は「ハンチバック」でみごとに、空中に建つ異世界を構築して見せた。
読み手はただ、その世界にひたるだけでいい。


未読の方、どうぞ余計な先入観、前情報を抜きにして、
読んでみてください。
ガツン、と目の前に新しい世界が広がることを

ヒスイが確約いたします。
えーと。ラストはちょっと、難解でしたが……これもエヴァっぽい(笑)?



今日は、別のことをかこうと思っていたのに、
もう、朝から腹が立って(笑)。
名古屋弁で言うところの、
「まー、あれで、いちんち、ワヤになってまったでかんわ!」
(訳:あれで一日、モヤモヤしてダメになってしまいました(笑))
ってかんじです(笑)



ってことで。明日こそ本命記事を書きます(笑)

ヘッダーはUnsplashThought Catalogが撮影

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