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『ブルー/境界線/ブルー』ヒスイの小さな恋愛短編

「あたし、この世とあの世の境界線をみたことがあるの」
 コーヒーの香りただよう6月の火曜日、朝6時半。
 理性的な僕の彼女・立花みのりは、キッチンでコーヒーの準備をしながら、奇妙なことを話しはじめた。


 あたしね、と、みのりは精密メジャーでコーヒー豆をはかってドリッパーにセットする。
「子供のころ、夏休みは毎年、琵琶湖に行っていたの。叔父の会社の保養所があったから。
琵琶湖って遠浅の浜がいくつかあって、深いところでも水深1mくらいなの。湖だから大きな波もない。子供が泳ぐにはちょうどいいってわけ。
水が澄んでいて、足のあいだを魚が泳ぐのも見られるの。それが大好きだった」

 みのりの手は流れるようにお湯を落としていく。
 1人分の豆は12g、お湯は83度、1杯のコーヒーは150ml。
 みのりは、数字に厳しい経済アナリストだ。数字も部屋の中もナノレベルで整っていないと気に入らない。
 ついでに、昨日の夜、僕が白いシャツと色柄ものをいっしょに洗ったのも気に入らないんだ。

 くだらないことだが、大ゲンカした。家事がケンカの原因になるのは同棲の弊害だ。
 ――シャツくらい、どうでもいいだろ。
 僕は不機嫌に自分の手を見る。掌には、ぽつんとほくろがある。それすら不格好に見えた。
 家事も仕事もへたくそな、男の手。
 みのりとは、半年しか年が違わないのに、30になる前から仕事で差をつけられている。


 コーヒー用のやかんが90度に傾けられて、5センチの高さから秒速3mlの湯を落としていく。
 みのりの話は続く。

「2歳7か月の夏も、あたしは湖で小魚を追いかけていた。近くに父もいたし、深さは2歳児の胸くらい。ところが、足をすべらせたのね。
 次の瞬間、目の前が透明なブルーでいっぱいになったわ。ブルーにはゼリーみたいな濃度があった。
 ゲル強度28%くらいかな。ちょうど鮭皮ゼラチンを使った高齢者用テスト食材みたいな柔らかさ。
 あ、鮭皮ゼラチンっていうのは将来的に高齢者の食事に転用できるんじゃないかって、企業が研究をはじめていて——」

「それ、いいから。きみは琵琶湖でどうなったの?」
 ああ、とみのりはちょっとだけ目を大きくした。
「つまり、沈んだの。
 まわりにはねじれた水草があって、体はゲル強度28%の青いゼリーで支えられていた。ゆっくり沈んでいく途中に、金色の境界線が見えたのよ」
「境界線?」

 みのりはコーヒーを僕に渡した。いい香りだ。
「境界線って?」
「目の前では、青いゼリーが層を作っていたのね。ゼリーの最上層に金色の直線が見えた。線のむこうには、また別のブルーがあったの。
 目の前の青とは、違う青だってわかったわ。別の世界なんだなって」
「……それで、おぼれたの?」

 コーヒーを持ったままつぶやく。陶器のマグカップが、やけにざらざらと感じる。みのりはとがった鼻を鳴らす。

「敦、ものごとは論理的に考えてよ。2歳7カ月で溺れていたら、いま、ここにいるあたしは何なのよ」
「そだな」
「——手がね、助けに来たの」
「お父さんが助けたってこと?」

 みのりは首を振った。白い頬に朝の光が当たって、産毛の一本一本が銀色に輝いた。

「違うの。父はすぐそばにいたんだけど。助けてくれたのは、子供の手なのね。
 ちいさくて、ふんわりしているんだけど、柔らかい中にピシっと太い線が入っていた。あれはきっと男の子の手ね。
 その手が、あたしを引っぱり上げた。あたしは手とともに金色の境界線を抜けた。
 線の向こうは、いつも通りの青空だったわ」
「――じゃあ、それは、あの世とこの世の境目じゃなかったんだろう」

 みのりは笑った。
「そう。これは推論にすぎないけど、金色の直線は、水面に太陽が反射していた部分ね。それだけのこと。
 こんなこと、誰にも話したことないの。
 自分で沈んで、自分で浮き上がったようなものだから、両親も知らない」
 僕は黙っていた。みのりがスーツの襟を整える。

「早朝ミーティングがあるから、先に出るわね」
「うん」
「台所、片づけておいてね」
「ああ」

 みのりは立ち止まって笑った。
「敦はあたしの話を聞いちゃいないのに、つい話しちゃう。なぜかしらね」

 ぱたん、と軽い音を立てて玄関が閉まった。僕は立ち上がり、朝食を片付ける。
 出勤する。




 仕事を終えて帰って来ると、良い匂いがした。みのりがキッチンで鮭を焼いていた。
「今日は和食だよ」
「手伝うよ――」

 食後のお茶は僕が入れる。みのりはスマホで株価を読み上げている。
「東証プライム。
ナント、終値1937円、前日比32円高、出来高555。
福福組、終値4655円、前日比92円高、出来高125。
輸送機器、ダンソー。終値8005、228円高、出来高20742……動きが大きすぎるな。明日チェックすること。
あのさ、敦――」
「なに」
「昨日、怒っちゃって、ごめんね」

「……こっちこそ、ごめん。今日はちゃんと色柄ものを分けて洗ったよ」
「ありがとう。アートデジタル、終値6850円、前日比150円低、出来高860……」

 みのりは、僕には全くわからない数字を読み上げていく。隣に座って、僕はぼんやりと記憶を探っている――3歳の夏の記憶。



 背中を、太陽が灼いていた。
 ピリピリするほど熱く、だけど胸はひんやりした透明なゼリーでおおわれている。僕は手足を動かして泳いでいた。
 眼下には、金色の筋を帯びたうす青いゼリーが広がっていた。

 ふいに、ゼリーがふるふると揺れはじめた。金色の筋に小さな裂け目ができ、そこから丸い手がのぞいた。
 僕は泳ぐのをやめて、ゆっくりと手を伸ばした。

 おろした指先が金色を搔きわけて、とぷりと柔らかいものをつかむ。
 小さくて、やわやわしたもの。
 柔らかさはぽちゃぽちゃの手になり、ちょうど2歳7か月くらいの子供の形になってから、ふわりと消えた。

 あれは、夢だったんだろう。
 あるいは僕の未来だった。

 いま、"未来"は、何もかもを忘れ果てたような声で、数字を読み上げている。
 僕は数字に隠すようにつぶやいた。

「あの時さ、きみ、ねじれた水草を持っていたよな。
いつか、僕の背中が太陽で焼けこげそうになったら、今度はきみがたすけてくれるかな」

 そこまで言ってから、ハッとする。みのりは訳が分からないだろう。僕にだって、よくわからない。

「ごめん、お茶を入れなおしてくるよ」

 立ち上がろうとすると、そっと手をとられた。みのりが笑っている。
 僕の手をひっくりかえし、

「もちろん助けるわ。あなたのほくろ、あのブルーの中でもはっきり見えたのよ。おぼえてる」
「……そうなんだ」

 みのりは体を乗り出して静かにキスをした。
 キスはかすかに、夏の味がした。


【了】(2700字)


『ブルー/境界線/ブルー』


NNさまの企画66
#ヒスイの鍛錬100本ノック
#お題・湖底

今後のお題
【2】SNS   【4】水 【7】歩道橋 【8】終幕 
【10】マトリョーシカ 【12】落書き
【14】エレベーター 【16】忍者 【20】歌 
24】お茶 【32】昔話 【43】鬼 
【46】枯れ木 【54】蜘蛛 【55】タイムスリップ 
【57】ポーカー 【58】春告げ鳥 【61】舌先三寸 
【66】ポップコーン  【70】スキャンダル
【73】アナログレコード  【80】まちぶせ 【81】ゆうびんやさん 【82】★みなとさん3★ 【84】天気予報
【86】豆電球 【88】ペンギン
【89】★みなとさん4★  【91】体重
【92】ダリア 【94】はらごしらえ 【95】ロングヘア 
【96】遅配  【99】船 【100】カブト

ああっ、大事なことを忘れていました!!
今日のお話は、
「生糸さんの詩」とリンクしています。


この詩の鋭さには、かなわないと思うけど。
ヒスイなりに、がんばりました!

ではまた明日――💛


※※ こちらのお話は、ヒスイエッセイをベースにしております。

おついでに、よろしくお願いいたします💛

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ヒスイ~強運女子・小粋でポップな恋愛小説家
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