『恋愛運・培養マシン一号 “きらきらきら”』ヒスイの恋愛短編(4300字)
恋とは、勝手に終わるもの。
わかっていても、皮膚がザクザクと干からびていく痛みに変わりはない。そして痛みから逃げ出すために、疾走する女もいる。
たとえば、神崎愛(かんざき あい)・二十六歳。
愛は、4年もつき合ったカレシに捨てられた。
ずっと泣きつづけてから、愛はN大学にある、友人・服部俊也(はっとり しゅんや)の実験室を訪ねた。
ノックをすると、中から俊也ののんびりした声が聞こえた。
「どうぞー。ゼミ生はノック不要でいいですよー」
「ゼミ生じゃないわよ、愛です! この時間に予約を取ったでしょ?」
「あー、そうだった、忘れてた。やあ、愛。ひさしぶり」
色白・小太りの俊也は柏餅のような顔になった。
どうでもいいが、こいつほどイケメン度ゼロな男も珍しい、と愛は考える。愛の元カレとは対照的だ。長身で細くて、良く日に焼けていて、歯切れよくしゃべる男だった。
しかし、今はどうでもいい。大事なのは、恋愛運のほうだ。
愛はつかみかからんばかりの勢いで、言った。
「俊也、あたしの恋愛運を倍増させて! この研究室に恋愛運アップの機械があるんでしょう?」
愛はスマホを高々とかがげた。画面には、学術記事が載っている。
『心理流動学・恋愛運気の増大傾向~機械化による実証実験』。研究者・服部俊也。
そして愛の目の前には、心理流動学の准教授・俊也がいる。
俊也は伸びすぎた前髪を金属クリップでとめながら、答えた。
「あー。恋愛運アップ、じゃないんだけどね。とりあえず、入って」
俊也は一歩引いて、愛を研究室の中にいれた。部屋のスチール棚の上には小さな培養器が置いてある。
愛はまっすぐに培養器に向かった。
「――これね、記事で読んだやつ。“恋愛運・培養器が完成”って」
ちっちっ、と俊也は指を振って愛の言葉を否定した。指の角度はきっちり90度。几帳面な男だ。
「愛。きみの言葉には誤りが2点ある。
ひとつ、これは“恋愛運・培養器”じゃない。正式には“気運エネルギー・増殖マシン”だ。人間が持っている特定の機運を増殖させるマシンだよ。
二つめは、“完成”って点。これはまだ試作品で、一般に使用できるまでにそうとう時間がかかる」
愛は泣きはらした目をキュッとつりあげた。
「どれくらい、かかるのよ」
「そうだなあ。臨床実験と治験を繰り返すから、五年後くらいだね」
「五年後!
俊也、あたし、今その培養器が必要なの。あのバカ元カレを見返したい。
今すぐ、ただちに、あたしの最低な恋愛運をなんとかして!」
俊也は白衣をひるがえして、意外とスピーディに逃げ出した。
柏餅のくせに、と愛は俊也をにらみつける。
「だって、愛。これはまだ試作品だ。動物実験しか終わってない」
「動物実験はうまく行ったんでしょ、学会で発表したんだもん」
「動物実験って、ラットだよ? きみ、ねずみじゃないでしょう」
「今のあたしの恋愛運はラット以下よ! ……ねえ、臨床実験って、人間でやるのよね?」
「うん。有志の学生を集めようと思っている」
「じゃあ、その中に、あたしを入れてよ」
ふう、と俊也は息を吐いた。
「まあ、被験者にはN30・F属性も必要か……ちょうどいい、かな」
つぶやいてから、俊也は試験管を取り出した。
「愛、ここに涙をいれて」
「――は?」
「運気培養には、本人の体液が必要なんだ。健康運なら唾液、金運なら血液、恋愛運なら涙」
「ふうん」
愛は元カレのことを考えた。
好きで好きで、今でも大好きな元カレ。でも愛のことを、金づる・時間つぶし・都合のいい女、としかみていなかった元カレ。
体いっぱいに残っている愛情と未練が、涙になって透明な試験管に落ちていく。
ぱたり、という音が研究室に響いた。
「はい、いいよ」
サクッと言って俊也は培養マシンの中に愛の涙をしまった。
「明日から培養を始める。効果が出るのは、二週間くらいあとかな」
愛は目を閉じた。二週間後の自分をイメージする。
元カレが腰を抜かすほどにカッコイイ男と、街を歩いている自分の姿。
それだけで、愛の気分はあがってきた。
一カ月後、神崎愛は肩までのセミロングの髪を跳ねさせ、服部俊也の研究室に来た。
「俊也、このアホ! 恋愛運、ちっとも上がらないわよ!」
「そろそろ来ると思った。入りなよ」
俊也は半歩ほど横へ移動して、愛を研究室にいれた。
愛はまっすぐに恋愛運培養マシンへ走っていく。中には、ずらりとガラスシャーレが並んでいた。
半透明の培地と、ふんわりしたコケみたいな“運気実験体”が見えた。
「どれよ、あたしの恋愛運は?」
「それがさあ」
と、俊也は伸びすぎた髪をまとめながら言った。
「愛の実験体だけ、うまく培養できなかったんだよね」
「……どういう意味?」
「マシンの中で育たなかったんだよ。培地が悪かったのかなあ」
「つまり、あたしの恋愛運は上がってないわけ?」
「そう」
「ジョーダンじゃないわよ! ちゃんと育ててよ、あたしの恋愛運!」
がつっと、愛は俊也の胸ぐらをつかんだ。
愛は身長153センチ。俊也は174センチ、本来ならつかみかかっても届かないが、今日の愛は7センチのヒールを履いている。のこりの15センチ差は気合でカバーした。
「なんとか、してよ。俊也」
「わかったから……手、ゆるめて、愛。息が……とまるよ……あのさ、もう一回やってみる。今度は培地と育成期間を変えるから」
「どんな手段を使ってもいいから、恋愛運を倍増させてちょうだい!
どうでもいいけど、あんた、日に焼けたわね?」
うん、といって俊也は笑った。
「最近、フィールドワークで外に出ているからさ」
「ふうん……心理流動学にフィールドワークなんて必要なの?
ま、いいか。それもこれも、あたしの恋愛運を上げるためよね」
「あたりまえだろ」
俊也は胸を張った。
「こう見えても、僕は友情に厚いんだ。ミッション・インポッシブルなんてありえな――」
言い終わらないうちに、愛のヒールが俊也のすねを蹴とばした。
「ごちゃごちゃ言っていないで、成果を出してよ。早くカッコいいカレシが欲しいんだから」
「……うう、痛い。じゃ、ここに涙を」
愛は差し出された試験管に、涙を絞りだした。ぱよん、という軽い音を立てて、くやし涙がきらめくガラス管の中に落ちた。
さらに三週間がたった。
神崎愛はショートボブの髪を耳にかけながら、研究室のドアをノックした。
「やあ、愛――ん? 今日は静かだね」
俊也は軽く身体をひねって、愛を通した。愛はゆっくりと歩いて、小さなソファに腰をおろした。
「俊也、実験はどうなの?」
「うん。それがさ」
「うまく行かないのね、あたしのだけ」
俊也はきれいに整えた髪をかき上げて、つぶやいた。
「原因が、よくわからないんだ。培地も温度も湿度も変えてみた。だけど、きみの運気だけ培養できないんだよ」
「――もういいの、俊也」
愛はスーツの襟をととのえて言った。
「恋愛運はあきらめる。あたしには恋愛の才能がなかったのよ。仕事にシフトすることにした」
「仕事って、日本の伝統工芸品をアクセサリーに加工して、海外に売るってやつ?」
うん、と愛はうなずいた。
「七色に光る和紙のピアスが、SNSでバズったの。今、いろんな企業へ企画を持ち込んでいて、買ってくれるところが出てきたのよ。
恋愛は、とうぶん要らない」
愛はスカートのすそを払ってから、立ち上がった。
「俊也、少しやせたね」
「昼も夜もフィールドワークをしているんだ。食べている暇がなくて。愛、あのさ――」
言い終わらないうちに、愛はにこりと笑って、行ってしまった。
俊也は閉じられたドアをしばらく眺め、棚から試験管を取りだした。じっと試験管を見つめてから、目元にあてた。
すゆり、と一滴だけ、涙がガラスに入っていった。
試験管を培養マシンにいれようとして、手を止める。
服部俊也・准教授は――そのままガラス管を床に落として、こなごなにふみつぶした。
「欲しい女に届かない運なんて――いらねえんだよ」
日が暮れてゆく。
暗くなった研究室の床で、培養されなかった恋心がきらきらきらと、いつまでも輝いていた。
二カ月後、神崎愛の住居・事務所兼用のマンションのドアがノックされた。
愛は魚眼レンズごしに外を見て、つぶやいた。
「なによ、これ」
ドアを開ける。そこには紺ジャケットにチノパン、髪を切って日に焼けた俊也が立っていた。
「やあ――恋愛運の培養結果レポートを持ってきたんだけど。見ないか?」
「見るわ」
愛は手を出した。俊也がぽん、と紙の束をのせる。
「紙なの? レトロね」
「0と1で出来上がっているデータじゃ、伝わらないこともあるから」
愛が紙束を開くと、そこには一面、いろいろな字体と多彩な色インクで言葉がつづられていた。
明朝体。ゴシック体。楷書体、行書体、隷書、宋朝、草書体。
すべての事態、すべての色のインクが同じ言葉を作っていた。
愛してる。
愛している愛している愛している。
愛している。
――愛。
俊也が言った。
「細胞培養には、無菌環境が必要なんだ。余計な菌が入ると、うまく培養できない。
きみの恋愛運を培養するとき、僕はいつもどおり無菌室で、滅菌ガウン、滅菌マスク、滅菌ゴーグル、手袋をはめて作業した。
だけど滅菌しきれないものが、あって。
どうしても、滅菌できないものがあって。
それが培養をさまたげていたんだ」
俊也はスニーカーのかかとで、床をこすった。まるでそこに、何かのカケラが残っているように。
そして静かに顔を上げ、愛を見た。
「僕の、余計な感情が防護服からにじみだして、きみの恋愛運は育たなかった。
僕のせいだとわかっているけど。
どうしようもない。
どうしようも、ないんだ。
愛が、好きなんだ」
愛は目を閉じた。耳元で、いろんな字体の言葉がメヌエットを踊っているようだった。
コトカタと小さな音を立てる言葉は、俊也が持ってきたものだ。
『愛してる。愛している愛してる愛してる』
ガラスシャーレの上で培養されなかった言葉は、俊也の体の奥でゆっくりと熟成されたようだ。
愛は目を開けて笑った。
「実験、成功したみたいね」
「え?」
「培地が、間違っていたのよ。場所も方法も間違っていたのよ。あたしたち、自然培養でよかったのよ」
俊也は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「――そうだね。ただ、自然科学の視点から言えば、実験とは回数を重ねて失敗から推論を導き出して修正することが大事で――」
「はいはい、続きは中で聞くわ」
愛は一歩下がった。できた空間にするりと俊也が入り込んだ。
ドアが閉まる。
あとには、色とりどりの言葉が光を浴びて、メヌエットを踊っていた。
きらきらきら。
【了】
『恋愛運・培養マシン一号“きらきらきら”』
本日は、恋愛運を培養できたら? というコメント欄のネタをいただきました。
そらさん、ありがとうございます(笑)
明日は金曜日! へいちゃんと一緒に短編を出します!
がんばります。
本日も最後までありがとうございます。
また明日の夜、お会いしましょう💛
ヒスイの鍛錬・100本ノック 53
#NN師匠の企画
#ヒスイの鍛錬100本ノック
#お題・ミッション・インポッシブル
今後のお題
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【97】rusty milk
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【100】カブト(永山さん)
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