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「あのスプーンには『生きる力』が乗っていた」ヒスイの失恋ご飯エッセイ

人間は、毎日ものを食べる。
テレビを見ながら、タブレットやスマホを見ながら、
ときにはしゃべりながら、食べる。
美味しく、楽しく、
塩辛く、忙しく。

食べることは人間の生きていく基本なのに、
ときには、
『物の食べ方』すら忘れてしまうこともある。


2年前、私は男にフラれた。
だいぶ、ヒスイのほうが入れ込んでいた恋だったので
もう、死にそう。
というか、脳細胞は半分以上、死んでいたのかもしれない。

何を見ても、彼を思い出した。
ほっそりした長い指、
コーヒーを淹れる動作(彼は、カフェマスター)
やや前へ傾いた首筋。

こちらが好きだっただけに、
恋の終わりは残酷なほどに明快でした。
彼は他の女を取り、
その女ともロクに続かず、
半泣きのラインを送ってきたかと思えば
また別の女に手を出した。

そのたびに振り回され、
たちあがった分だけ、また沈み込むことになり、
私は
脳細胞がこわれていく音を
毎朝、聞いていた。

ものを、食べるどころではなかった。
食べ物を口に入れる、
噛む、
呑みこむ。

一連の動作の
波が寄せては引いていくような流れすら
脳細胞から
消えていった。

水だけ、飲んで生きていた。
透明な温度もない水だけが
自分に許されているもののような、気がしていた。



そんな私を心配したのが、
親友のMちゃん。
Mちゃんはふだん、とてもクールな人で
テレビでセレブの不幸が報じられていても、

『そういう人生を選んだのだから
 責任をとるしかないわね。
 人間、花だけを摘んで生きていくことは
 できないのだから』

と言うタイプ。

Mちゃん自身、
これまでにけっこうハードなことを
数々クリアしてきたので、
ちょっとシニカルというか
冷静すぎるというか、
他人との距離感に、厳しいところがある。

それが冷たいと感じる人もいて
好き嫌いがはっきり分かれる。
Mちゃんを嫌いな人は
徹底的にきらいで、
彼女の影さえ、憎んでいた。

きれいすぎる外見のせいで、
同性からは、ものすごい嫌われる(笑)。

Mちゃんも、そういう女子が大嫌いで、
だから需要と供給のバランスはとれているのかな(笑)


逆にMちゃんを好きな人は
彼女のあらゆる部分に惹かれ、
表層の下にある
柔らかい、温かい部分を
知っていた。

私はMちゃんを大好きな側で、
彼女自身がなんと言おうと
本当はあたたかいひとだと
わかっている。


そんなMちゃんが 
あの日、一組のカトラリーをもって
うちへ来たのだった。

DONGWON LEEによるPixabayからの画像

韓国のカトラリーセットは金属製のスプーンと箸のセット。
スプーンは『スッカラ』といって
柄が長く、くぼみが浅い。
いろいろなものを混ぜたり、
すくったり、
あえたりするのに、ちょうどいい。

Mちゃんは、その韓国カトラリー1セットをもって
うちへやってきて、
食事を作ってくれた。

粥。
キムチがたっぷり入った
辛いやつ。

豪快に回し入れたゴマ油からも
いい匂いがした。


私の鼻は何カ月ぶりかで
食べ物の匂いを、感知した。
ちょうど
花弁がひらいて、めしべとおしべが春の空気中にさらされるみたいな
あざやかな
嗅覚の再生だった。

とはいえ、できあがった粥を食べるほどには
まだ回復していなかったらしく、
いい匂いの粥を前にしても
私の指は、
ためらっていた。

ものを食べる。咀嚼する。栄養素を体に入れる。
味わう、という道筋を
すっかり見失っていた。

味と匂いと、舌ざわりと
生きていく意欲を受け止めるための受容体が
閉じたままだったのだ。

湯気を立てる粥のまえで
ぼんやりしている私に向かって、
Mちゃんは鋭い声で言った。

『ヒスイ、たべるのよ。
 食べるのよ!!』
『……うん』

それでもまだ、私の中の『生きる』ための受容体は
レセプターの花を
開かなかった。
正直に言うと、
食べることと自分の体が
命をつなぐということが、
つながらなかったのだ。

私と食べ物。
私と生きていく意欲をつなぐルートが
ぶちんと、
ぶった切れていた。

せっかくMちゃんが来てくれたのに、
お粥まで作ってくれたのに。

ありがとう、といおうと
顔を上げた。
口を開いた。
そのとき

すぽり。

と、金属のスプーンが
口に入ってきた。
Mちゃんが、私の口に
スプーンごと、粥を入れたのだった。

その、なめらかな舌ざわり。
粥で、ほんの少しぬくもった温度。
金属が歯に当たる音。
そしてなによりも
やや酸味のあるキムチの味わいと
鼻から抜けるゴマ油の匂いが
強烈に
猛烈に

『生きること』を
叫んでいた。

目の前に、
とてもきれいなMちゃんの顔があった。
ほんのりと
涙ぐんでいた。

「ヒスイ、たべるのよ。
 あんな男に負けちゃダメ。
 あんな男、しょせん小粒だった。
 あんたが、時間を費やす価値もないような、男だったよ。

 食べて、元気になって
 見返してやるのよ。

 ふたりで」

ふたりで、と、
Mちゃんは言った。
長いあいだの友人であるのに、
Mちゃんが
『ふたりで』なんてことを言ったのは
それが初めてだったと思う。


……いや、初めてだったし。
それ以後も、ないな(笑)。

あの時のキムチは
ちょっと古くなってて
すっぱかったけど。

おいしかった。

Mちゃんの友情のように
酸味の下に、
柔らかく深く、温かい味わいを
収めていた。




あのとき、Mちゃんが持ってきたスプーンと箸のセットは
今でもうちにある。
もう使うことがありませんように、とおもい
大事にしまっていたら。

同居人が、
「料理に便利だなー、これ!」といって
ガシガシ使うようになった(笑)。

それを横目で見ながら、
鼻の奥にほんのりと
キムチの匂いを思い出す。

かすかにうるんだ
Mちゃんの眼を、
思い出す。

Mちゃんの眼は
『生きていく力』で
いっぱいだった。
あのスプーンの上には
『生きる力』が
乗っていた。


#元気をもらったあの食事




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