【殴打、その他の夢について】浅倉 透 感想

まえがき
浅倉の撮った映画が観てみたいです。
演技指導で絶対感覚的なことしか言わなくて役者を困らせるやつ。そしてごく一部にだけブッ刺さって「あれは私のために撮られた映画」みたいな勝手に救われる人間がちらほら出てくるやつ。カップルが観に行って「よくわかんなかったね」って言われる。

・写像1
映画のあらすじを話す浅倉、ただし映画の話とは最後に言う。先に言おうよ浅倉ワールド。多分雛菜さんは慣れてるというか現実でもフィクションでもどっちでもよさそう。浅倉の見たものと伝えたいことの方が大事なのであって見たものが事実かは置いといていいものみたいな。【poool】だったかで読んだ本の話をしてるときと同じものを感じます。
殴り合いを浅倉は「泣くみたいに〜」って感情表現として捉えていて、その上で「夢から覚めるみたいに」。現実かなぁと。
感情とさ、現実って一致しないことがあるじゃないですか。嫌でもやらなきゃいけないし、時折状況に、世間一般のあるべき感情と違う感情が湧いたり。感情を表に出して、それで現実の方に近づいていくのかと。この映画『ファイトクラブ』らしいのですが私は観たことないです。

「雛菜 が 殴る ガツン」
上記の感情表現とそれがカメラに収まることが浅倉にとって殴られた衝撃に近いものを受け取ったんだろうなって。
浅倉のアウトプット能力は【チョコレー党、起立!】の反省文然り会話然りまあ伝わらないものとして書かれていると思ってるんですが、読み取る能力はある方だと思うんですよね。LPで行き場のないモヤモヤがあったり今回カメラ越しに雛菜さんの何かを受け取ったり。たまにこの感受性とアウトプットが噛み合うと「カレシ」みたいなことになる。
で、浅倉はずっと撮られる側、言うなればレンズの向こうにしか居なかったんですけど今回撮る側に回ってみてようやく撮られる側としての意識が掴めたんだなって。自然体を肯定しつつ見逃されてきた、正体不明のオーラに呑み込まれてきた浅倉は、だから学校とアイドルが大して変わらないって言えたんだと思うんですよ。ただそこに立ってるだけ、ちょっとポーズを取ってみるだけでよかったから。
でも撮られる側から見てみたら「もっと」って思えるってことに気が付いた。これ浅倉にとってかなり重要な話だなと。感情を相手に伝える。言葉じゃなくて、あくまでポーズや表示だけで。
それが最後の「殴ろう」に集約されている。

・写像2
顔のアップしか撮らなかった浅倉。浅倉にとって撮りたいものがそれで、こっちを殴ってくるのは感情だから。
担任の先生の怒った顔を「いい顔」って思う。もちろん撮った写真は全部浅倉の撮りたい「いい顔」。浅倉にとっての「いい顔」の定義が出来たんですよ。明文化はこの先されないとしても。
適当に学校の子達が喜ぶようなそれとも商業的な売れるそれとも違う浅倉のいい顔が出来れば、表現者になれるじゃないですか。
あの子は伝えたいことを持ってる子なのでオーラに加えて表現力が付いたら最強ですよね。「ガツン」に気が付いたことはすごく大事だと思います。
あとこの『写像2』。
球技大会→ノクチル写真鑑賞会→先生にカメラ提出がぐちゃぐちゃになって展開していく上に(あぁ、この順番じゃないとだめだわ)って思わせてくれるのでシナリオ構成がすごく上手い。浅倉ライターが時々やる手法ですけど。

・あとがき
言いたかったのは浅倉に撮られる側の意識が芽生えたってこととそれは大事な成長だってことです。
それはそれとして雛菜さんとのつっこみなしで進む、ある意味一番浅倉を浅倉のまま突き進ませる組み合わせが好きです。樋口や小糸ちゃんなら「何の話?」ってつっこみが途中で絶対入るし。
雛菜さんの話の聞き方って浅倉の足りてない出力に最低限整理できる情報を要求してて大事じゃないところは放っておいてくれるような気がする。映画かそうじゃないかは浅倉の伝えたいこととは別なわけで。雛菜さんにとってもそれは大事じゃなかったわけで。
その辺のフィーリングが合うから雛菜さんは浅倉のこと好きなのかなと思います。

以上。

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