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narrow

ずっと、この声が辿り着く場所を探している。

Chapter1:抱懐ほうかい

 輪郭のぼやけたネオンが反射して、歩道のアスファルトを照らす。日が暮れてもうすっかり夜だというのに、この繁華街は白飛びしそうなほどに眩しい。その明るさに目をひそめながら、人ごみの中をすり抜ける。すれ違う人の多くは仕事終わりのようで、急いで帰路に向かっている人もいれば、同僚たちと連れ立って世間話や愚痴に花を咲かせる集団もある。人の行き交うスピードや、複数方向の言葉のやりとりがめまぐるしい。喧騒の中にいるときゅっと体が縮こまる気がして、ギターケースのショルダーを握りしめる。このギターだけが、東京の夜から私を守ってくれる。

 通りを抜けると、駅前の広場に着く。毎週水曜日、私はここで路上ライブをしている。ゆっくりとギターケースをアスファルトに降ろすと、ファスナーにつけたピック型のキーホルダーが音を立てた。無意識に詰めていた息を吐き、深く吸い込む。改札を通り抜ける人々を眺めていると、吸い込んだ息はため息になって出ていく。いつものようにギターを抱きかかえ、ケースを広場に向けて開き、名前を書いたスケッチブックを立てかける。歌い始めようとして喉を震わすと、声が掠れて消え入りそうになってしまう。ごまかすために下を向き、落ちてきた髪の毛を耳にかけ、もう一度最初のフレーズを口にした。

 夢を見ることは容易いけれど、夢を追うことは時に残酷だ。夢という言葉がこんなに燦然と輝いていて、それでいて可愛い音の響きをしているのが憎い。この世界でそんな夢を語っていい時間は、幼少期のほんの一瞬だけしかない。歌手になりたいと口に出せなくなったのは、確か中学卒業に近づいたころだっただろうか。真正面から否定されたり愛想笑いや曖昧な反応をされたりして落ち込まないわけはないし、仮に応援されたとしても内心どう思っているのか想像してしまって、結局傷つくことは目に見えていた。現実を見ろなんて大人は言うけれど、敷かれたレールを眺めていると眩暈がしてくる。どうせなら夢の眩しさにくらくらしていたい。そんな思いをずっと胸の中に秘めている。

 音楽で生きていくためにはひとりで歌っていても意味がない。そうして腹をくくって路上ライブを始めたものの、この忙しい街で私の歌に耳を傾けてくれる人はいなかった。瞳に力を込めて、周囲を見渡す。ここ数日で一気に冷え込んだからか、みな揃って薄手の上着のポッケに手を突っ込んでいる。そしてこちらにちらりと目をやって、あるいは見向きもせずに足早に去っていく。イヤホンをしている人なんかは私の存在に気づいてもいないようだった。たった一度その足を止めてくれたら、一回でいいからその耳を開けてくれたら。そんな妄想ばかりしている。その反面、こんな歌じゃいつまで経ってもひとりよがりで何一つ灯せないのはわかっていて、自分に嫌気が差す。少しずつ、心が削ぎ落されていく。少しずつ、力が入らなくなる。

 ひとしきり歌い切って腕時計を見ると、短針が一つ進んでいた。左手の指先は弦で擦れて熱くなっているのに対し、ピックを握る右手は冷え切っている。そろそろ帰らなくては。空虚に向かって軽く頭を下げて、片づけのためにしゃがみこんで広場から目を背けると、安心と虚しさが同時に襲ってくる。今日も誰にも届かなかった。私の歌じゃこの街を灯せない。歌声は、どこへも辿り着けず彷徨い続けている。それでも来るかもわからない、私を見つけてくれる人が現れる日を夢見て、また来週もここで歌うのだと思う。衝動の限り、私は歌い続ける。よいしょ、と小さく声にして立ち上がり、背負ったギターケースを盾にして私はネオン街に紛れ込んだ。

Chapter2:邂逅かいこう

 いつのまにか秋は深まり、毎週寒さが増したのと同時に日が暮れるのが早くなったことを感じる。ついこの間までパーカーで快適だった夜も、今やコートなしでは過ごせない。空いた首元を覆うように、コートのフードをぎゅっと寄せる。ファー部分は少しくすぐったいが、その暖かさは心許なさを補って私を強くしてくれる気がする。でも、こうしていられるのも歩いている間だけだ。ギターを握るには、この手を離さなければならない。もう少し。あとちょっとだけこの時間に縋っていたい。やっぱり、私は弱い。

 今日は妙に空気が乾いている気がする。自分を律してここに立っているはずなのに、間違えるはずのない手元から目を離せない。俯いていると、通り過ぎる靴音がやけに大きく聞こえる。かき消されないようにと無駄に声が大きくなって、喉が張り付いてくる。今更緊張なんかしたってしょうがないのにと思う。わかっていても、強張った体は言うことを聞いてくれない。

 ふと意識を現実に戻すと視界の端、奥の方で誰かが立ち止まっている。ここで歌い始めてから、はじめてのことだった。誰が?どうして?いつもと同じことをしているだけなのに、なんだか後ろめたいような気がしてくる。何か悪いことをしたんじゃないかといろいろな不安が頭をよぎる。それと同時に、もしかしたら歌を聞いてくれているのかもしれないというほんの少しの期待がちらつく。好奇心に負けて恐る恐るピックを持つ手元から視線を上げると、少し離れたところでこちらを見つめている一人の青年がいた。

 すらりとしたシルエットの彼。パーカーのフードをかぶっていてよく見えないが、同世代だろうか。この時間のこの街に学生がいることは珍しかった。連れがいるわけでもなく、誰かを待つそぶりもない。ただひとり、そこに立っていた。

 三秒ほど見つめていると、こちらの視線に気づいたのか顔をそらされる。やはり私に興味などないのかもしれない。一度姿を認識してしまうと、不思議と不安も期待も溶けてしまった。そこにいるのは誰だっていい。私がすることは何一つ変わらないのだから。ただ、今日は顔を上げられずにいたから好都合だった。彼を見つめるわけでもなく、それでも視界の中央あたりに見据える。勢いをつけるように、アップテンポの曲を選ぶ。彼の視線がまたこちらに向いたのを感じる。

 短いイントロから歌に入って三行目まで歌ったところだった。彼がパーカーのフードを外したと同時に、反対の手を耳元に持っていく。指先がなにか線状のものを絡めとって、ポッケにしまい込んだ。その動きの意味を理解して、弾かれたように心臓が跳ね上がる。私の歌を聞くために、イヤホンを外したのだ。一気に全身に熱が回る。身体が震えだす。今、目の前に曲を受け取ってくれる相手がいる。この瞬間をずっと待っていた。

 声が前へ前へと走り出そうとする。聞いてくれたからと言って、好きになってもらえるかなんてまだわからない。言い聞かせてはやる気持ちを抑えようと思うけれど、高揚感に身を任せてしまいたくもなる。無我夢中だった。今まで気にしていた通りすがる人たちの目線も、全部どうでもいい。歌えれば、それでいい。

 たった一曲で、肩が上がるほど息切れしている。ピックを持つ手の震えは収まらない。冷静になって、何をこんなに必死になっているんだろうと俯瞰している自分がいる。でも、楽しかった。ここまで突き動かされたように歌えたのは初めての経験だった。肌を刺すような冬の空気を吸い込めば、熱が引いていくようで気持ちがいい。自分の呼吸音と同時に、離れたところから拍手が聞こえてくる。我に返って、これは夢じゃないのだと実感する。彼はこの歌を受け取ってくれた。良いと思ってくれたのだ。寒いはずなのに、顔が火照っていくのを感じる。ギターを抱きしめ、たったひとりの観客に対して深々とお辞儀をする。まだいくらでも歌える気がした。

 帰宅してからも陶酔感が抜けない。頭の中で手を叩く音が鳴り続けている。寝そべったベッドの上から、壁に立てかけたアコギを眺める。聞いてもらえて良かったね、と心の中で語りかけているけれど、本当は自分に向かって言い聞かせている。確かにそこには彼がいて、ほかの誰でもない私の歌を聞くために立ち止まってくれた。幻でも妄想でもない。勝手に口角が上がってしまうのを抑え、噛みしめる。また来てくれる確証なんてないのに、「次」に思いを馳せてしまう。浮かれすぎだとはわかっている。それでも間違いなくとびきりの夜だった。

Chapter3:燎火りょうか

 あの日から夜の街への漠然とした恐怖感が薄れた。私の声は誰にも届かないわけじゃないという実感は、喧騒やネオンライトの中を持ちこたえる力をくれた。そしてなにより、彼が毎週来てくれるようになったのが大きかった。来る時間はまちまちだが、私の姿を見つけるとすぐに有線のイヤホンを外してくれる。私の前で足を止めて、曲が終われば毎回拍手をくれる。手袋をしていないからきっと寒いだろうに、手を赤くしてその音を聞かせてくれる。最後まですぐそこにいて、終わるとほんの少しだけ笑ってくれる。そのひとつひとつが嬉しくて、愛おしかった。相変わらず彼の前では震えてしまうけれど、どうしたらもっと楽しんでくれるか想像すれば胸が躍ったし、そうやって決めたセットリストは足取りを軽くしてくれた。お互い話しかけないから、彼の名前は知らないままだ。でも歌を通して繋がっていることはわかっていたから、言葉はいらなかった。

 路上ライブを終えて帰宅した後は、いつも部屋でギターを手入れする。音楽もかけないで黙々と作業するから、その間は考え事をしていることが多い。ネックを布で拭いていると、ふと彼の様子が思い出される。ぼんやりと空を眺める姿が、目に焼き付いている。最後に浮かべた微笑みは、どこか寂しそうだった。彼が何を思い、あの表情をしたのか。私には知る由もなかったけれど、もっと純粋に笑ってほしいと思った。心からの笑顔を見てみたい。それは私のエゴでしかないけど、無性に叶えたくなった。そのために、私が力になれることはあるのだろうか。考えを巡らせると、たったひとつできることに気づく。曲を作ろう。私にはそれしかない。

 手入れしたてのアコギを掴んで、ローテーブルの前に座る。どうにもそわそわして、指先がアルペジオを奏でる。今までずっと衝動に任せて曲にしてきたから、誰かのために書いたことなんてなかった。もちろん構想も何もない。見切り発車で不安がないわけじゃなかったけれど、思いついてしまったからには止まれなかった。手当たり次第、必死に音と言葉を探す。

 しばらくして顔を上げると、溜め込んでいた息が吐きだされる。ずっと背を丸めて作業していたからか、体が痛くなってきた。軽くストレッチをするために立ち上がると、カーテンの隙間から真っ暗な空が覗く。気分転換にベランダに出るのも悪くない。部屋着だと寒いのは重々承知の上、屋外の空気に当たることにした。

 外といっても、開放感はあまりない。見えるのは街灯やビルの明かりばかりで、明るいのにあたたかさを感じられないのだ。こんなに街明かりがあったら星なんか見えるはずもなくて、夜空はただひたすらに沈むような黒をしている。彼はこの狭い空に何を見ていたのか。どうして影を滲ませて笑ったのか。この疑問をそのまま詞に乗せてみようと思い立つ。部屋に戻りルーズリーフを引っ張り出して、
「ここじゃ星は見えないよ」
とシャープペンシルで書き記した。まだ夜は長い。

 こうして初めて誰かを思って書いた曲は、冬を纏いながらもやさしさを詰め込んだものになった。あたたかさも感じられる気がして、我ながら上出来だと思った。水曜日が待ちきれなかった。

 しかし、その次の路上ライブに彼は姿を現さなかった。

Chapter4:凛々りんりん

 十二月も半ばに差し掛かり、人々が少しずつ浮足立っているのが見て取れる。いつものネオンに加え、街中がクリスマスイルミネーションに染まっている。その雰囲気が今はどうしようもなく息苦しくて、フードを深く被る。足元を見るだけで精一杯だった。

 彼が来なくなってからもう一週間が経とうとしている。意気揚々と新曲を携えていったあの日は気持ちが先行していたからか、あまり気にならなかった。たまたま都合が悪かったのか、あるいは体調でも崩したのかと心配していた。せっかく出来立てなのに披露できなくて残念だと思う余裕すらあった。でもこれまで一度も欠かさず来てくれていたという事実が心のどこかで引っかかって、あの日以来毎日駅前を訪れている。二日、三日目まではどうにか気丈さを保っていたと思う。でも週が明けても彼と会うことは出来なくて、心配は不安へと転じた。もう聞きに来てくれないかもしれない。この曲は彼のためだけに作ったわけじゃないんだと無理に言い聞かせてみたが、日を追うごとに心は擦り減っていった。でも捨てきれない一縷いちるの望みを握りしめて、今日もここにいる。

 もう幾度となく来た駅前。初めて立った日の緊張は痛いほどよく覚えている。その時でさえも歌い方はわかっていたのに、今は少しも思い出せなくなっていた。喉がしまって、声が詰まる。観客がいないこの広場に向かって、どうやって歌えばいい?彼がいなければ何十人、何百人通りすがろうと空虚のままだ。たったひとりに聞いてもらえればいいのに、その人が現れてくれなきゃ意味がない。風に煽られれば、消えてしまいそうだった。

 これまでの彼を思い浮かべてみる。いつもあのベンチを過ぎたあたりで気づいてくれること。細い指を白い線と交わらせてイヤホンを取る仕草。一定のテンポで拍手してくれて真っ赤になっているその両手。最後の曲だと言うと空を仰ぐこと。少し困ったように笑うその顔も、そのすべてが鮮明に目の前に広がっていく。目頭に熱が溜まっていく。

 急に電車の走る音がして、現実に引き戻される。一度も気になったことはなかったのに、やけに煩く聞こえて自分が委縮したのを感じ取る。彼の癖を真似て上を見れば、今日の空は冬特有の重い雲に覆われている。いっそのこと、雪が降ってしまえば帰る口実にできるのに。そう願ったところで雪は降らないし、指は悴んでいく。この狭くて沈むような空は嫌いだ。嫌いだけど、どこかで彼も見上げているかもしれないと思うと切り捨てられない。もういっそ、この空に託してみようか。こんな狭い空なら、いつかこの思いは彼に届くかもしれない。ちらほらと街の灯が消えだす。私は決意を固めて、冷え切った手をぎゅっと握る。これで最後にしよう。ただ待つのは、もう終わりにしよう。

 彼に贈るはずだった新曲のイントロは、やさしく包み込むような音色で。掠れ気味な声で、一節そっと口ずさむ。いつか彼に届く日まで、明日も歌い続けよう。あたたかくなってこの歌が季節外れになったとしても、伝えたいことは変わらないから。今はまだ、きっと彼のおもかげを探してしまうと思う。でもいつか、何度も見せてくれたそのイヤホンを外す仕草を見なくていいように、イヤホンを外さなくても私の音楽を届けられるようになろう。この声の行く果ては決まった。灯火は、強く燃え続ける。


あとがき

 楠木ともりさんの楽曲「narrow」のリリース3周年にあわせて、この作品を書かせていただきました。関連のある「ロマンロン」や「僕の見る世界、君の見る世界」も踏まえた上で、心を込めて執筆させていただきました。私がともりさんのファンになるきっかけとなった大切な楽曲に、ともりさんが認めてくださった私なりの言葉で向き合うことが出来て、とても幸せです。楽しんでいただけたら幸いです。


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