見出し画像

30 歳になったので人生を振り返る、そして次のステージへ

アラサーだけど Just 30 は今年だけだから、備忘録。
修正かけないで、ありのままを表現した。

誕生日の日の東京駅前、ウェディングフォト撮影を眺めた、6 組と遭遇した

さまよった大学受験


僕が高校生 1 年のときに両親が離婚し、母子家庭の子となった。
離婚原因は当人同士しか知らないし、今更聞こうとしても部外者ではあるので聞けぬ。喧嘩はなかったが、会話もなかった気がする。

こんな僕に疑問が生まれたのは、小学生未満の頃。家族で観覧車に乗る、というイベントが派生した。しかし、父は「トイレが近いため、観覧車へは乗れない」と別行動に。当時は「トイレが近い」という意味が分からなかったので、父に嫌われていると感じていた。

話を戻す。
高校を卒業して進路をどうするか。進学校のため、高卒で働くという案は暗黙の了解で削除された。
このとき、父が SE だから、同じ道に進めばなにかが変わるのでは?という雑念?より、情報系学部を希望した。
僕は文系だったので、ここで「理転」ということになった。
数学が好き、というのを周囲に伝えている、嘘ではない。一番の理由は父に認められたいという気持ちだったと思う。

部活動に熱心に励んだ結果、高 3 の夏に「理転」することになったため、受験勉強してもまず現役で合格は厳しいという現実。だがラッキーなことに指定校推薦の条件を満たしていたので、理系大学にころっと入学できることが判明。

見事に「情報系大学に入学」と、いかなかった。
入学したのは電気科。
理由は単純で、オープンキャンパスのときに情報学部の個別相談の列が長かったのに対して、電気はゼロ。先生と先輩に「電気の方が就職先が多いし、就職率も高い。プログラミングの授業もあるから SE 以外の選択肢も広がるよ」の一言。「就職」という言葉に惹かれたのだった。

甘えていた 20 代

SIer だからではないと思う。僕の働き方が受動的だったのかもしれない。案件をいただいたら「120%(プラスアルファで喜んでくれそうな何かを加える)」のものを納品する、それをモットーに頑張っていたのだが、なにか不都合や問題が発生したとき、「〇〇という問題がおきました、そのためこの手段では実現が難しそうです、いかがしましょう?」と顧客に判断を依頼した。きっと技術面で自信がないので言えなかったというのもある。それと先輩や上司と仕事をする場面が少なかったので、自然とこうなったのかもしれない。

2 社目で「キャリアチェンジ」した。といっても IT 企業であることにはかわりはない。しかし、僕が魅了されたのは「AI・データサイエンス」だった。この分野は業務歴なしなので、転職も「未経験」という扱いだった。
僕の場合は、退職と転職時期にどうしようもない「無」の時間があった。それが悪影響を及ぼし、書類審査は通らない、面接までたどり着いても 1 次で落とされる。40 社ほど頑張った結果、ありがたいことに 3 社から内定をいただいて、その中で絶対に「AI・データサイエンス」ができる会社を選んだ。40 という数字、多いか少ないかはわからないが、3 社以外は最終面接にたどり着けていない。
「絶対にやりたいことができる」という決め手は、部署名がそうだった&人手が足りていない様子、だった。
入社して自分がやりたいことは全部やらせてもらったと思う。案件も一人でできたし(上司は PM)、好きな調査もできた。
しかし問題は起きる。
IT 業界のエンジニアの嫉妬(たぶん私情)と戦い、僕は折れた人間である、ということにしておく。

20 代後半(ゆうて 28 ? )で転機

3 社目の転職。これはラッキーがラッキーを呼んだのか、退職して 3 日後くらいにラブレターをいただき、転職活動は 1 社のみで終了。
僕がいままで働いていて、「教育」って大事だよなと思うところに「教育系」の会社からオファーをいただき、スルッと内定をいただいた。
たまたま内定をいただいてしまった、と表現するのが適切かもしれない。

入社して、研修を受け、テストに合格し、正社員という実績を解除したが、これも多分ラッキーが重なってしまったのだと思う。
今までの働き方が全く通用しない。
そこで一回ダウンした(体がだめになった)。

辞めるという選択肢は僕にはなかった。
こんないい会社、こんなにいいメンバー、他の会社であるだろうか?というくらいものすごく温かい。そしてやりたいことはやらせてもらえるんじゃないか?という環境。
むしろ僕は「この会社で働いてます!」を言いたい。
しかし、今の僕は「ただ足を引っ張っているだけ」のように感じた。厳密には「今もなお感じている」が正解だ。

「ただ足を引っ張っている」、この発見が僕の 20 代での転機だと思う。僕の弱みを知り、強みを知ってくれるメンバーがいる。この幸せでありがたい環境はもう出会えないかもしれないと感じる。オーバーな言い方かもしれないが、本当にそう感じる。
実際、8 年も仕事をしていたら自覚すべき部分だが、僕は僕のことを全く知らない。でもメンバーが知ってくれている、僕が理解できるようにヘルプしてくれている。これはいつかお礼をしたい、と思うわけだ。

なんか見えてきた

日本海

僕は人よりも情報のインプット量が多いらしい。
祖母の三回忌で佐渡へ行った。日本海をまたぐので、船の上は圏外になる(船のフリー Wifi を使用できるかもしれないが、僕はフリー Wifi には繋がない派)。自動販売機で 楽天 Pay が使用できます!と記載があるので、楽天 Pay を使おうとして気づいた。圏外なのでバーコード更新できず、使えない。現金しか無理だと。そこで発見したのが「古い500 円玉も新しい 500 円玉も使用できます」の記載。外国人観光客向けにか「old と new」の英語表記もあった。ここで疑問が生じた。「新しい 500 円玉、いつからのが対象?」現金離れをしていたので旧・新がよくわからない。あ、でも 100 円玉あるじゃん!ということで、飲み物を買う目的は果たされた。詳細は不明だが、500 円玉には旧と新があることも知った。 
船の次は新幹線。新潟駅で新幹線を待っているときにミラクルが起きた。自動販売機の近くで親戚たちと列を作って待っていたとき、外国人に声をかけられた。「すみません、コインを入れても買えないです」親戚一同、「?」となっている中、僕はその方がどういう操作をしたのかを考察し始めた。コインは入れたそうだ、一回、返却レバーを試すか。すると、500 円玉が出てきた。僕は船の中でのことを思い出し、自分の財布を再度漁った。そこには 500 円玉が入っていた。この方、どこの言葉の出身かわからないし、日本語も難しそうだったので、僕の500 円玉を見せて、「同じのをするね」と言って自動販売機に入れた。するとすぐ、返却された。「あ、これが新 500 円玉対応していないのね!」とわかったのはいいが、その方に説明するのが難しい。どの言葉でこの仕様を説明すればいいかわからない。「他に小銭はある?」を聞きたかったが、「(僕が電子マネーで勝った方が早いな)」と思って、「どれほしいですか?」と聞いた。その方は「水です」と指さした。「(これは水ゼリーと書いてある、所見だ、甘いらしい)」。それを頑張って伝えたら普通の水でよかったそうなので、電子マネーで購入。「プレゼント、フォーユー」と言った。130 円あれば物々交換、なかったら両替できないし、多めにお金をいただくのは性に合わない。プレゼントがいいと思った。でもご丁寧にその方は小銭を全部出して、130 円を数え始めた。「あってる?」と聞かれて「あってるよ!、ありがとう!」で問題解決。
親戚一同は何が起きたか不思議だったようで、上記の旧新問題を伝えたら「そうなの?知らなかった、物知りだねぇ」
僕は今日得た学びをアウトプットできたので 80% スッキリしたわけだ。残りの 20% は「令和 4 年は新だったけど、新になったのは年号何年から?」だ。親戚一同のリアクションよりも、500 円玉に興味がいった。

これが世の中の常識ならば、僕は恥ずかしながら今まで知らなかった。
だが、結果的に外国人は目的を果たせたので、僕は何らかの役に立ったのかもしれないという気持ちになった。

このやり取りがあって、何かを発見する量は、人よりも多いかもしれないと感じた。仕事面でも「よく気がつく」と言ってもらえる。「僕が今できるのは、これかもしれない」と少し自信が持てた。「これは仕事において使えるものかもしれない」と。

30 になった今

正直、社会人としてのレベルはかなり低い。年齢の割に仕事ができない、社会人としての常識がない、と言われても「すみません(今まで甘えていました)」としか言えない。
これを素直に受け入れて、学んでいく、その過程で業務内で小さな気づきを得て、誰かの役に立てればいいなと思う。決して開き直ってはいない。祝日前も「質問の仕方」でご指摘いただいた。猛反省している。

職業(ほぼ)プログラマを卒業して、今、僕の職種が何かは怪しい。まだ僕の勤め先を言えるほどお仕事ができていないと感じるため。

AI・データサイエンスをやっています、くらいしか言えない。
だが、そんな僕でもまだお仕事をくれる会社にすごく感謝をしている。いつか花開くので、もう少し雇っていただきたい(願望)。

さあ、残りの話を回収をしよう

父に認められたくて、そんな気持ちからプログラミングも好きになったわけだが、そもそも嫌われていなかった事実が判明した。
父の話を聞くとわかる、「冬の電車通勤は、急行は乗れない。トイレ我慢できない」だった。極度の冷え性で夏場もトイレで3 回は目が冷めてしまうと言ってる。観覧車に乗るのが嫌だったのはわかった。

そして、誕生日の昨日、LINE がきた。
「一緒に御飯を食べに行きたい」なんだ、嫌われていると思って必死に頑張ってきたけど、そうじゃないのか。
でも、おかげで好きなことを仕事で活かせているよ。ぎりぎりね。
ありがとう、父。母も兄弟もありがとう。
今まで、逃げていたことにも目を向けよう。まだ勇気がでなくて難しい場面が多々あるが、つらい過去にふたをするのではなく、そこから新しい何かを発見していこう。少しずつ。

さいごに

随分と長いブログになってしまった。ここまで読んでくださった方はいないだろうと思いながらも記載する。僕はそろそろおしゃべりしたいだけの「老害?」になってしまったのかと。

「うん、そうかもしれない」

好きな人にこんな話をしても「翡翠さんらしくていいと思うよ」なんて言ってくれるので、なんとか生き残っている。
この関係性は、知り合い以上恋人未満というところなので、なんとも言えない関係であるのは確かで、いつ終わるかもわからない。
いい意味でも悲しい意味でも終わる前にお仕事で花咲かせたい人生だ。いや、咲き続けたい。

そんな 30 歳初日の夜。

誕生日プレゼントいただいた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?