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【雑記】教育についての持論

私は、中高社会科・地歴公民科の教職課程を履修しています。
6月には北海道の母校で教育実習があります。

それもあって、人並みくらいには教育に思いを馳せてきたつもりです。

実習に行く前に、これまで考えたことや学んだことについて、主題ごとにまとめておこうと筆を取りました。相互に連関している部分、していない部分もありますが、ご容赦を。
臆病ながら、あくまで現時点での、という注意書きを添えて。

注:長くなりすぎたので、小分けにしたりしながら読んでいただけると嬉しいです。

自律について

自己肯定感と自律性が見えない勝者たち

上京してきて、これまでの人生で会ったこともないようなすごい人たちに出会いました。
現場主義で何もかもやろうと動きまくる人、すごく深く物事を考えている人、哲学的に考えながら実践も惜しまない人、世界をまたにかける人、話を聞くのが人並外れてうまい人、スマブラがめっちゃ強い人、などなど。
本当に出会いには恵まれました。

しかし、思うことがありました。
そんな輝かしい彼らのうち少なくない数が、胸を張れていないこと。
誰がどうみてもすごいのに、どうにか自分の欠点を探すかのような。自ら、自らを叩き落とすかのような。

どこまで結びつけていいのかはわかりませんが、単一の軸にもとづく能力主義がひとつの要因なのではないかと感じます。例えば、共通テストで何点取れるか。あるいは、一流企業に受かったか落ちたか。社会的に影響力のある、とある軸の評価が、他の何よりも優越してしまう。

かのマイケル・サンデルは、アメリカの能力主義(=一流大学至上主義)の学生について、こんなことを言っています。

彼らは経済的・社会的に恵まれているにもかかわらず、わが国のどんな子供たちのグループよりも、うつ症状、薬物乱用、不安障害、身体の不調、不機嫌さを抱える割合が高い。研究者がさまざまな社会経済的環境にある子供たちを調べると、最も問題を抱えているのは裕福な家庭の子供である場合が少なくない。

マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『実力も運のうち 能力主義は正義か』(ハヤカワ文庫、2023年)、321項。

最も象徴的だったのは、次の文です。

能力主義の戦場で勝利を収める者は、勝ち誇ってはいるものの、傷だらけだ。

同書、322項。

だからか、私はあまり羨ましくない。とても恵まれた環境で育ち、熱心な親を持ち、英語をペラペラに話す彼らを見て、なぜかそうなりたいとは思わない。


自ら生き抜く力

私が重要だと思うことは、自分が「自分自身に価値がある」と思えることです。なぜなら、自分はこれまでこれからもこの自分でしかいないから。

心理学者のアルフレッド・アドラーは、教育の目標は「勇気づけ」であると言っています。と、研究者の岸見一郎さんが言っています。

子どもが、自分の課題を自力で解決できるという自信を持てるように援助することを、アドラーは「勇気づけ」と呼んでいる。必要があれば、子どもが援助を求めることは大切ではあるが、基本的には、子どもが自分の課題に自力で取り組む援助をすることはできても、親にはそれ以上のことはできない。このことを知らずに、子どもを勇気づけるという大義名分のもと、子どもを操作、支配しようとする親は多い。

岸見一郎『アドラー 人生を生き抜く心理学』(NHK出版、2010年)、176項。

その勇気づけの目標は、「子どもが人からの評価に左右されないように援助すること」です。親が子どもを操作しようと試みても、他人の課題を肩代わりすることなどできはしない。自分が他者の期待を満たすために生きていないのと同じように、他者も自分の期待を満たすために生きているのではない。

上皇后である美智子さまは、こんなことをおっしゃったことがあるらしいです。

「幸せな子」を育てるのではなく、どんな境遇に置かれても 「幸せになれる子」を育てたい

『歩み 皇后陛下お言葉集』(海竜社)よりと、ネットに書いてあった。

心の底から同意します。


子育てについて

「自律」でもかなり述べましたが、もう少し。言いたいのは、失敗させろということです。

喧嘩をさせておく

こんなシーンがあったとしましょう。
公園の砂場で我が子が他の子どもと遊んでいる。突然、我が子が友達の道具を奪ってしまう。取られた子は泣き出してしまった。

多くの場合、親が謝りに行くのではないでしょうか。保育所や学校でも同様です。いわゆる大人の介入があります。「ごめんね、この子が」「ほら、ごめんなさいは?」「返してあげなさい」と。
これは工藤勇一さんや木村泰子さんがよく挙げる例です。

しかし、それではいけない。それを重ねていくことで、子どもの当事者性が奪われてしまうからです。
「困った時は大人に言えばいい」「誰かに言ったら解決してくれる」といった具合でしょうか。

大人は警察官になってはいけない。「なぜ取ったか」や「なぜ取られたと思うか」を聞き、その上で解決策を探る。「この後楽しく過ごすためにはどうすればいいか」を子どもが決定していけばいい。
それが平和に「つながる」のであって、「平和な状態を継続する」ことが目的化してはいけないと私は考えます。

しかし、そうはいかないのもまた現状でしょう。だから私は葛藤しています。
子どもの居場所支援をしていたときも、預かっている責任があるから、怪我をさせるわけにはいかない。となると、あらゆるリスクを排除したくなる。「すべきだ」とは思っても、他者を説得するだけの自信が、まだ身についていません。


人間の促成栽培はできない

これは、教育学者の汐見稔幸さんの言葉です。

子どもが自ら学んでいくことが大事であって、三人称的な知識を一人称化する、つまり、自分なりの意味を見つけていくことが重要。

早期教育は、その大切なプロセスを邪魔するものであり、妨害してしまう可能性が大きいのです。幼い間にたくさんの言葉を覚え、計算が速くできるようになったとしても、自分が嫌だと思うことを嫌だと言えなくなってしまったり、自分がやりたいことに没頭できなくなってしまったりすることが多くあります。

汐見稔幸『教えから学びへ』(河出新書、2021年)、168項。

要は、何を目指すか。リスクについてどう考えるか、ということなんだと思います。


民主主義について

正直なところ、私はまだ、「民主主義こそが最高の政治形態だ」と胸を張っては言えません。おそらく、言えるようになることはないと思います。
なぜなら、民主主義は最上を目指すというよりも、あくまで最悪を避け続けることに要点があるからだと思っているからです。

ウィンストン・チャーチルは、以下の有名な言葉を残しています。

“democracy is the worst form of government – except for all the others that have been tried from time to time.”

正直出典はいまいち。

民主主義は最悪の政治形態である、ただ、これまで試みられてきたすべて形態を除けば。

民主主義はポピュリズムにも陥るし、政治への不信や無関心は大きな問題になっています。正直、すべての人間はそんなに理性的であれるのかと思ってしまうこともあります。
それでも現時点でひとつ決めるとすれば、消去法でこれか、となる。長くなりましたが、前提がこんな感じです。


自由の相互承認

教育哲学者の苫野一徳さんは、民主主義の本質は「自由の相互承認」だと言います。そうだなあと思います。

「みんな自由に生きたいと願っている。でも、自由をめぐって戦争をしたり、一部の人が大多数の人の自由を奪っていたら、誰も自由に生きられない。だったら、誰もが自由な存在であることを、お互いに認め合うことをルールにした社会をつくるしかない」。そうヘーゲルは言ったのです。
すべての人が、対等に自由な存在であることをお互いに認め合う。そのことをルールとした社会。これが民主主義の根本原理です。別言すれば、他者の自由を侵害しない限り、どんな価値観や感受性や信仰を持っていても、どんな主張や行為をしていても自由であることを、まずはお互いに認め合う。これが「自由の相互承認」です。

工藤勇一・苫野一徳『子どもたちに民主主義を教えよう』(あさま社、2022年)、48項。


当事者性と民主主義

政治学者の宇野重規さんは、民主主義の根幹は「参加と責任」だとおっしゃっています(宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書、2020年))。

これを受ける形で、こと教育においては、とりわけ「当事者性」が重要なのだと思います。これは工藤勇一先生が強調していることです。

「子育て」で少し触れたように、当事者性を持って決めることが極めて重要です。「自由の相互承認」のように、「みんながOKと言える最上位目標」を決め、対話を通した合意形成をしていく。多数決ではありません。理想論に聞こえるかもしれませんが、割とできることだと思います。

もちろん、これまでも、「自由」「個性」「主体性」を重視する学校はいくつもありました。しかし、必ずしも民主主義教育と直結していないように、私には思えます。私の考える民主主義の実現に不可々な学校には、次のような要素が必要だからです。 まず一人ひとりが、可能な限り自由に生きられる学校を目指すことです。すると、生徒、教員、保護者の考え方・価値観は多種多様ですから、そこには必ず対立が生まれます。 ここからが最も重要なことですが、この対立の解決を誰かに委ねてはいけません。生徒・教員・保護者それぞれが、その学校をつくっている「当事者」として、対話を通して一つひとつ解決にむけた答えをだしていくのです。そのためには、「誰一人置き去りにしない社会を実現する」という普遍的な最上位の目標で合意するプロセスを、みなが経験しなければなりません。

工藤・苫野『子どもたちに』、13-14項。

また、議論をする際に重要なことは、意見の変容を受け入れることだと私は考えます。意見が変わらないことを前提としたもの、論破することを目指したもの、「みんな違うよね」にしか落ちないもの。それらは対話〈dailogue〉の形をしていても、内実は独白〈monologue〉の言い合いではないでしょうか。
冒頭で「現時点で」と付言したことには、こうした言い訳があります。


科学について

科学は、民主主義に似ていると思います。
そしてこれは教員のあり方にも大きく関わります。

失敗の受容

なぜか。
私の知る限り、科学も民主主義も、道を誤る可能性を孕むからです。そして重要なことは、その誤りを内部から修復する力があることだと思います。

私たちは間違えることによって先に進む。
これは、言語の習得も同じです。
必ずしも正しいとは限らない推論、つまりある程度の飛躍をし、間違えることで修正する。

言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体も学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである。

今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(中公新書、2023年)、204項。

このプロセスの駆動力となる力を、両氏は「アブダクション推論」と呼びます。アブダクションは想像力によって、もっともらしい説明を試みるのですが、必ずしも正確なわけではありません。しかし、この飛躍こそが加速度的な成長を生むのです。

アブダクション推論は、誤った結論に至る可能性がある。しかし、誤りを修正することで、物事の理解は深められる。科学においても、仮説を立て、実験をし、実験の結果が仮説と異なっていたら仮説を修正することによって、人類の科学的知識は発展してきた。アブダクション推論は新たな知を生み出す推論である。知の創造に失敗と誤りはつきものである。

同書、256項。

静的で、持続可能で、永遠普遍の法則など存在しないし、それは科学的なものではない。
教育学者の上田薫は、科学とは常に変革するものだといいます。

科学が偉大であるのは、その法則が時間・空間を超えて普遍的に効力を持つからではない。せっかく生み出した法則を、惜しげもなくみずから破壊して新しい法則の形成に立ちむかうという勇断あるゆえにである。その意味において、法則にはむかう例外こそ、法則の母なのである。

「社会認識と人間形成」『上田薫著作集第10巻』(黎明書房、1994年)、188項。

開かれた学び

このことを教員は強く自覚すべきだと考えます。言い換えるならば、慎ましさを持つべきだということです。

ある意味で創造性は、現在の秩序を破ることであり、教育する側には不都合になります。都合のよい枠の中で許された創造ほど、虚しいものないのではないでしょうか。
もちろん、枠があるから例外があるわけで、土台は大いに尊重すべきではありますが。

この点で、私は上田薫と意見を一にします。

わたくしは教師が子どもたちを自分の思想のとりこにしようとくわだてるとき、それを非教育的だと考える。それは自分の限界について謙虚な態度を欠くということであり、裏返せば未知なる未来を背負った子どもたちに対して不遜だと考えられるからである。教師は子どもたちに対して、自分をやがて乗り越えていくことを期待しなければならぬ。それでもなければ世界は進歩せず、子どもたちもまた幸福になることがないであろう。そしてもし教師が、子どもに対して、未来に対して、そのように謙虚に考えることができるならば、子どもたちの社会認識をそれぞれの個性的脈絡のなかにおくことに努力を傾注し、まちがっても教師や教科書のそれをまねさせることはしないはずである。子どもの主体性を確保する学習は、このようにしておこなわれる授業においてのみ成立する。

同論文、187項。

子どもの思考の道筋は紆余曲折。それを、それぞれに合った仕方でサポートするのが教師の役目である。上田は、「短兵急に一定の結論に引きつけてしまうことは、一般的にいってつねに教育的失敗である」とまでいいます(192項)。


道徳について

道徳と倫理の違いはなんでしょうか。
辞書的には、以下の違いがあります。もちろん辞書ごとに異なりますが。

【道徳】
社会生活の秩序を保つために、守るべき行為の規準。
【倫理】
行動の規範としての道徳観や善悪の基準。

新明解国語辞典第八版より。

あえていえば、道徳は「もともと社会的に守るべき基準がある」一方で、倫理は「守るべき基準をつくりあげる」ことに比重が置かれているのではないでしょうか。
これは、「超相対性理論」というポッドキャスト(近内悠太さんゲスト回)で紹介されていた考えです。

考えてみると、「生命倫理」「環境倫理」「情報倫理」などとは言っても、「生命道徳」「環境道徳」「情報道徳」とは一般に言いません。
これらは未知の分野であり、私たちは正解を持っていないからです。

その意味で、前提が壊れつつある時代において、上から与えられるのではなく、下から築き上げていく倫理の重要性はますます増してきていると思います。


遊びについて

ここまでの議論を無理やりに集約させるとしましょう。
そのために最も適切なのは、「遊び」ではないかと私は思います。


遊びの減少

よくいわれるのは、子どもの遊ぶ時間が減少しているということです。子どもが親と一緒にいる時間が増えているからです。喫煙や飲酒の危険性は減りますが、自由気ままに遊ぶ時間も大いに減っています。
ではその時間に何をしているのか。勉強をしたり塾に行ったり、習い事をしたりといった具合でしょう。

しかし、いわゆる危険への挑戦は、大人になるためには欠かせません。アメリカでは、今日の18歳の情動面における成熟度がX世代(1960-70年代ごろの生まれ)の15歳と、13歳はX世代の10歳と同程度だとされています。
メンタルの疾患も増えているといいます。これはいろんな要因があるとは思いますが。

外でのパーティーよりもオンラインに親しむZ世代の若者たちは、物理的にはかつてないほど安全になっている。しかし彼らは、メンタルヘルス上の危機に瀕しているのである。

Jean M. Twenge, 'Have Smartphones Destroyed a Generation?', The Atlantic (September 2017), https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2017/09/has-the-smartphone-destroyed-a-generation/534198/ (Accessed 8 June 2024).(勝手に筆者訳)


遊びと学び

私は、学びには遊びが欠かせないと考えます。
少々長いですが、心理学者のピーター・グレイを引用させてください。

自由な遊びの中で、子どもたちは自ら決断すること、問題を解決すること、ルールをつくったり守ったりすることを学びます。さらに、他人に対して服従する者や反抗的に従属する者になるのではなく、他者と平等な関係を築くことを学びます。…元気いっぱいに外で遊ぶときは、…子どもたちは自分のからだだけでなく、不安もコントロールすることを学んでいるのです。人と一緒に遊ぶことで、どう交渉したらいいのか、楽しませるにはどうしたらいいのか、対立によって生じる怒りをどう調整したり克服したりしたらいいのかについて、子どもたちは学びます。…これらの知識やスキルは、言葉によって教えられるものではありません。自由な遊びが提供する、体験を通してのみ学べるのです。

ピーター・グレイ(著)、吉田新一郎(訳)『遊びが学びに欠かせないわけ』(築地書館、2018年)、22項。

一言でまとめると、子どもは、遊びの中で失敗や喧嘩をし、学んでいくということです。


遊びと創造力

創造性、流行っています。
しかし、これらは子どもがもともと持っているものです。
私は同世代の人並み以上には子どもと遊んでいるという自覚があるのですが、経験からも大いにそう感じます。

退屈を感じたら勝手にゲームをつくり出し、子どもは勝手に創造的に遊ぶのです。
再度ピーター・グレイを引用すると、こんな感じです。

You can’t teach creativity; all you can do is let it blossom, and it blossoms in play ——— 子どもに創造性を教えることはできない。できるのは開花させることだけであり、それが起こるのは遊びの中である。

Peter Gray, ‘The Play Deficit’, Aeon (18 September 2013), https://aeon.co/essays/children-today-are-suffering-a-severe-deficit-of-play (Accessed 8 June 2024).


若気の至りで大きなことを

思いっきり精神論をかましますが、私たちができることは、信じることくらいだと思います。

「欧州の知性」とも称されるルトガー・ブレグマンは以下のように述べます。権威を借ります。

問うべきは、子どもは自由をうまく扱うことができるか、ではない。 わたしたちは子どもに自由を与える勇気を持っているか、である。

ルトガー・ブレグマン(著)、野中香方子(訳)『Humankind:希望の歴史』(下)』(文藝春秋、2021年)、121項。


歴史について

歴史をなぜ学ぶのか。
歴史学を学び、歴史教員になりたい私にとってこの2年ほどは、常にこの問いに答えようとしてきた時間でした。

「歴史に学ぶ/歴史を学ぶ」という考えは、大きく2つに分かれると思います。
ひとつは、「私たちにつながる歴史」であり、もうひとつは「私たちにつながらない歴史」です。


つながる歴史

いわゆる「歴史を学ぶ」というときに想起されるのは、こちらでしょう。先人の教えに学ぶ。同じ過ちを繰り返さない。ルーツを辿る。
2022年度から導入された「歴史総合」は、まさにその考え方に立っています。私が大好きなCOTEN RADIOも、一面では同様だと思います。

「すべての歴史は現代史である」という言葉があります。
今の私たちが何者かを知るには、その過程を見ることが欠かせない。
その意味で、歴史を学ぶことはすべて現代につながっているといえるかもしれません。

しかし、それだけではありません。


歴史とは何か

「すべての歴史は現代史である」
イタリアの歴史家・哲学者のベネデット・クローチェこの言葉の妙は、また別のところにあります。

それは、「過去の事実は、私たちが住む現在からの眼差しでしか捉えることができない」あるいは「過去はそれ自体で完結せず、現代との連関によって意味や価値が定まる」ということです。

最も有名な歴史家のひとり、E.H.カーは歴史について、以下のように語っています。

かつて事実はみずから語ると申しましたが、これは、もちろん偽りです。事実が語るのは、歴史家が声をかけたときのみです。どんな事実に発言権を与えるのか、どんな順序で、どんな文脈で発言させるのか決めるのは歴史家です。

E.H.カー、近藤和彦(訳)『歴史とは何か 新版』(岩波書店、2022年)、12項。

歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きぬことを知らぬ対話

E.H.カー、清水幾太郎(訳)『歴史とは何か』(岩波新書、1962年)、40項。

つまり、歴史を見るということは過去を純粋なまま見るということではありません。
過去について考えるとき、私たちは常に現在に縛られているのです。


つながらない歴史

このことに気づかせてくれるのが、「つながらない歴史」だと私は考えます。
「つながる歴史」は私たちに共感を与えますが、「つながらない歴史」は違和感と驚きをもたらします。

三つ、引用させてください。多いですね。

世界史を学ぶということは、世界にはさまざまなものの見方があることを知ることにほかならない。自明のもののように思われた自分の物差しが実はそうでない、ということを知る驚きにこそ、世界史を学ぶ面白さがあるといえよう。

岸本美緒「時代区分論」、樺山紘一ほか『岩波講座世界歴史1 世界史へのアプローチ』(岩波書店、 1998年)、15項。

Visiting the past is something like visiting a foreign country: they do some things the same and some things differently, but above all else they make us more aware of what we call ‘home’

John H. Arnold, History: A Very Short Introduction (Oxford University Press, 2000), p. 122.

ある歴史的な出来事には、さまざまな偶然的なファクターが関与しています。歴史を学ぶというのは、そこに何ら必然性がなかったことを悟るプロセスでもあります。
この世界の壊れやすさ。
この文明の偶然性。
これに気づくために僕らは歴史を学ぶのです。

近内悠太『世界は贈与でできている——資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング、2020年)、241項。

現代を生きているだけでは、当たり前のことに気づくことはできません。それは他者がいるからこそ自分がわかるということとまったく同じです。

自分とはまったく違う他者の世界に触れてみる。今とは異なった人々が住んでいる世界です。
そこで得る違和感、驚き、それらが、歴史を学ぶ醍醐味なのではないかと私は思います。


教育と歴史の葛藤

この意味で、私がより重要だと思うのは、「つながらない歴史」のほうです。
しかし、そうはいかないのが現実、という気もしてしまいます。なぜなら、やはり関心が向きやすいのは自分に身近なことであり、自分につながってくるものだからです。

何より、それは分かりやすい。
「つながらない歴史」は、高度な知性と想像力を要求します。

前述の「歴史総合」という科目は、近現代史が中心になります。章立ても、「近代化と私たち」のように、間違いなく「つながる歴史」が意識されています。もちろん、これらは重要です。
ですが、それだけで歴史を学んだことになってしまうのはもったいない、私は素朴にそう思います。


自分自身について

最後に、なぜ自分が教員になりたいのかを簡単に整理したいと思います。

ひとつは、物事を学ぶのが好きだということ。もうひとつは、学んだことを人に伝える(教える)のもまた、好きだということ。

長い間、こうして説明をしていましたが、いまいち説明不足感が出ていました。そこで出会ったのが、近内悠太さんの『世界は贈与でできている』という本です。
私は読んだ本にすぐ影響を受ける質なので、もしかしたら必要以上に強調しているのかもしれませんが、それもまた一興。今しか書けない文でもあると割り切ります。言い訳終わり。

結論から言うと、私は「すでに受け取った贈与を、次の誰かに渡したい」という思いに駆られているのではないか、という考えに至りました。


贈与の原理

近内は贈与を「僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動」と定義します(4項)。

重要なことは、贈与は必ず「前史」を持つということです。
何もないところから贈与は生まれません。

「私は受け取ってしまった」という被贈与感、つまり「負い目」に起動されて、贈与は次々と渡されていきます。

同書、29項。

例えば、親からの愛は基本的に贈与です。
「親から不当に愛されてしまった」という負い目があるからこそ、贈与は次につながっていくのです。そして、贈与が次につながったことによって、自分の贈与が完了したことを認識できる。親が「孫の顔が見たい」と言うのは、自分の子どもが贈与を次につなげたことによって、「自分の贈与が間違っていなかった」と認識できるからだ、と近内はいいます。

贈与は、交換とは異なります。
交換はその場で終わりますが、贈与はその時点では完成しません。また、合理的なものでもありません。


贈与のバトンを渡す

私は、親から、親戚から、周りの友人や大人から、あまりにも多くの贈与を受けたという実感があります。いわば、「不当に恵まれてしまった」という負い目があるのです。
また、「こんなにお金をかけたんだから」とか「あなたのためにやっているんだよ」とか、「交換の論理」を示唆されたこともありません。私は、あまりにも恵まれていました。

そしてようやく、受け取ってきた贈与に気づいた。

次は私が届ける番です。
私が、不当なほどに贈与をする。その相手がまた、贈与をつなぐ。そんなつながりをつくることができたら、これ以上の幸せはないように思えます。

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