言い訳に負い目がつく世界の片隅で

中国が人口子宮で子どもを育てることを可能にしたらしい。これについては女性性と不可分に結びついていた出産機能を女性から分離し、女性を性役割から解消するであろうとのジェンダー的な見方もある気がする。だが、今回はこの面白い方向性にはご退場願おう。今問題にしたいのはデザイナーベビーにまつわる優生思想とそれが現実化した世界の夢想だ。

現状、優生思想はナチスによる障害者虐殺などの経験によって脊髄反射的に不道徳とされているが、個人の自由選択の範囲では許容されている思想だ。例えば可能な限り美男美女であることや高学歴を配偶者に求めること、出生前診断の活用などによってだ。こうなっているのはおそらく現代の自由主義が立場の違いこそあれ「本人の同意なしには何事も強制してはならない」を最高原理としていることに起因するのだろう(これが最高原理であることに興味がある方は佐伯啓思『自由とは何か』を参照していただきたい)。この最高原理を「本人が同意しているのだから外野がとやかくいうべきではない」と悪用することによって人々の間では共通の価値について対話することが不可能な無関心状態に陥る。この最高原理はこの文句を繰り返すだけで私たち全員に通用すると少なくとも私自身は信じている普遍的な善悪の中身について話すことはしていない。ただ形式的なものに過ぎない。

話を戻そう。個人の自由選択の範囲内で優れた遺伝子を備えた新生児を求めることは新生児にとってのリスクは可能な限り排除しておくことが正しいとの考えに裏付けられている。そして技術の進歩とともに可能な限りリスクを排除するの「可能な限り」の範囲が拡大し、ついに人口子宮というリスク排除の限界が実現しようとしている。これまでは出生前診断までし、出産時に何も問題がなければ障害を持った新生児が生まれてくることは偶然として処理できた。誰に責任を問うこともできなかったからだ。偶然を支配している自然法則に責任を問うても意味がない。人間は悪い事態の責任を問うときに自然法則ではなく人為的な物語というかそういう自由の因果を遡って責任を問うているように思われるからだ。母親も妊娠中に飲酒喫煙しないなどの当たり前のことを果たしていさえすれば自責傾向のある人でもない限り、新生児に問題があっても責任を感じなくて済んだだろう。そして、人口子宮が確立すれば母親は胎内で子どもを育てる必要がないのだから、新生児の生まれに対して負う責任なんて卵子の質か自らの容姿、頭脳くらいにまで後退する。

このような優生思想をテクノロジーで最大限バックアップする出生のあり方の是非についてここでは問わない。なぜならこの出生が当たり前になったと仮定した世界の有り様を夢想するほうが楽しいからだ。

まず、考えられる世界としては従来通りの出産が罪になる世界だろう。母親の胎内で子どもを育てることは、子どもを様々な危険に晒すため子どもの権利の侵害にあたるからだ。別に女性が子どもを自らの胎内で育てようが、人口子宮で育てるかは彼女自身の選択の自由のはずだ。しかし、子どもの人権尊重というわかりやすい正しさが支配的になった結果、胎内で子どもを育てることは不必要にリスクを増大させる愚かな行為だと認定されるだろう(余談だが、個人の同意を最高原理とすると私たちの間で共有する価値観が一体何であるか=価値観の内容について対話することが不可能になるため、その時々の漠然とした空気で社会的正しさが決まることになる。その空気にはポリコレ的な価値観が代入されると考えて差し支えない)。自由な選択の間に道徳的優劣はないはずなのに実際には特定の選択に道徳的正しさが付与される現象は、選択的夫婦別姓にも見られるから読者の方にもイメージがつきやすいと思う。夫婦同性でも夫婦別姓でもどちらでもいいはずなのに、実際には夫婦別姓のほうが西欧の素晴らしい価値観に照らして正しいことになるのだ(ちなみに私は将来万が一にも結婚する可能性があるなら夫婦同性を選び相手の名字に合わせたい。なぜなら好きな人の名字になるのは自分の一部を、最愛の人が有する同等のものに置き換えてもらえるとかいう大変に尊くてえっちい行為だからだ。自分の一部が最愛の何かによって剥奪される、あるいは所有されるのは度を越さなければ至高にえっちい。よって吸血鬼のお姉さんの眷属になるのも至高にえっちいことである)。

考えられる世界の2番目としてはその後の人生が不遇なものになったとして言い訳ができないことだろう。もちろん人間の発達には遺伝に加えて環境が大きく関わるから、遺伝が完璧に近いからといって環境にばらつきがあれば人生の状況が社会的に望ましいものになるとは限らない。だが、おそらく人口子宮が普及するような時代になっていれば個々人の教育への介入は現在よりもっと強まり、もはや環境までも理想的になるよう政策やら何やらが普及しているだろう。マイケル・サンデルの『実力も運のうち』が象徴する議論を実践に移した世界線を想像してもらえればわかりやすいだろう。
理想的な遺伝と環境が整備されれば人間のスタートラインは完全に平等に近いものになる。文字通り機械の均等の実現である。ゆえにその後の人生がどうなろうとその責任は現在よりも遥かに重く個々人にのしかかる。これは相対的強者が自らの頑張りを正当化するために恣意的に責任能力を設定し、相対的弱者を嘲笑う自己責任とは異なる。今考えている未来の世界線ではスタートラインが完璧に揃っているのだから。

だが、このような言い訳の許されない世界は果たして幸福だろうか。できないことがあれば常に無限の自己改善が求められる。もちろんそこから距離をとって社会通念からある程度降りる選択肢もあるだろう。だが、そんな選択を理性的に行って人生に満足できるのは少ないのではないか。だいたいの人間は自らの不遇に納得するための物語を紡ぎ出し、社会のあり方に責任を外在化するだろう。「ここまで完璧にスタートラインが揃っているはずなのになぜ自分はこんなに惨めであり、あいつは自分が欲しいものを全て持っているのだ」と嫉妬に身を焦がす人間が大量発生してもおかしくはない。いくらセックスと生殖が切り離されたとしても、依然として魅力的な相手とのセックスを果たし、同性に対して優越感を感じることは変わらず存続するだろう(というかそういう優越感があるほうが純粋に快楽を求める形でのセックスは盛り上がると思う。モテる人間は優越感をセックス相手のステータスで具体的な感触を持って再確認できるし、モテない人間がモテる人間とのsexにありつけた場合はこれまでの負い目が一気に解消され、これまでの惨めな自分と同族の人間たちを蔑む側に回れた快楽が性的快楽に合わさって脳が焼き切れるようなセックスができるのではないか)。相対的に裕福になれる者とそうでない者が存在し続けることも変わりない。ただそこにいる人間のレベルが全体として異常に押しあがっているだけだ。

ここまでの話は「欲しいものがあれば法に触れない範囲であらゆる策を講じて獲得すべきである」という欲望充足的な世界観が根底にある。この世界観は利潤を最大化する資本主義と相性がいいので資本主義的な世界観だと言えなくもないだろう。よって、欲望充足至上主義に争うには別の世界観を提唱し、しかもそのアンチテーゼがテーゼに取り込まれないような、表面的でないきちんとしたアンチテーゼを打ち出すしかないだろう(『資本主義リアリズム』にそんなことが書いてあったかもしれない、記憶が曖昧で申し訳ない)。少なくとも「この道しかない」とかいうスローガンが示すように欲望充足の道を猪突猛進するだけでは厳しい人間が出るだろう。そこで負けた人間、特に男の行き着く先がどうなるかなんてTwitterを見ていればだいたい察しがつく。



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