E.W.サイード著『知識人とは何か』を読んで
エドワード・サイード著『知識人とは何か』(大橋洋一訳)を読んだ感想を書いていきたいと思う。
初note投稿というのもあり、言葉足らずな面、わかりにくい点などあると思うが、悪しからず。
イギリス委任統治下のエルサレムで産まれた著者が、現代をどのように把握し、どのような「知識人像」を描いたかということに迫っていきたいと思う。
本書は全6章でなりたつが、今回は4章の要約にとどまり、興味を持った方にはぜひ、6章を手に取って読まれることを期待したい。
それでは本文の内容を見ていこう。
「知識人とは何か」を読む
まずは概略をまとめようと思う。
本書はBBC制作の1993年度リース講演時の、著者の講演録を再編してまとめたものである。
さて、長々と話してもよろしくないので、核の部分である「知識人像」について引用を交えつつ、私見と共に展開しようとする。
知識人は何を表象するのか
著者はまず「知識人」を定義づける。
著者は知識人像に対する論争をまとめつつも、
このように指摘している。
つまり自らの存在意義を、見えないもの、覆い隠されている問題などに隠された人々や主張を表象=代弁することに見出すという人を、知識人として見たのである。
続けて著者は
と念を押している。
つまり、彼の言う知識人とは「非抑圧階級の代弁者として自身の知識や理論を使う人」こそが知識人だという主張なはずだ。
知識人の葛藤
知識人には葛藤がないわけではない。
著者は現代世界ならではの知識人の葛藤を端的に説明している。
本書の中では、特に国家対個人の関係性に接近しながらその難しさに対して語っている。
言うならば、現代社会、とりわけ資本主義社会において圧倒的な影響力を持つ「資本」を交換条件としながら、常に知識人には政府や権力層らの誘惑があるということだ。
読者の方々にも深く共感されるところがあると思われるが、「資本」無くして日本社会では生きていけないように思われる。いや、「資本」があればあるほど悪いことはない、という表現こそ正しいのかもしれない。
しかし「資本」という誘惑を超えて、知識人たるには相応の覚悟が必要となる。要するに、知識人には常に「知的亡命」という運命を背負うしかない、というアイロニーが存在するのである。
知的亡命とは
現代社会には悲痛な運命、宿命から逃れられない人が一定数いることは再度強調しなくても共感できるであろう。
著者は、その中でも「追放・亡命」という表現を用いて知識人たるものを表現する。
それは戦争や飢饉、その他、現代社会の社会的及び政治的問題に巻き込まれた結果を指す言葉である。
過去には個人の罰則として適応された「追放・亡命」という問題が現代においては、単位を個人とすることなく、むしろ民族や国家間のレベルでの問題となっていることを指摘している。
しかし著者は知識人こそ、このような状況の中でどのような居場所を確保するのかはとても大切な問題と説く。
そのための、予備的な問題を確認しよう。
2点目を著者はこう指摘する。
そして知識人は地殻変動のような影響力を持つが、その背景を考慮しても、また友人をとおしても、理解することはできないとも付け加えている。
つまり、とても主観的で、とても個人的な見解を所有することのできる人こそが、知識人たるゆえんであり、組織・政治的見解をなぞるような、「スピーカー」としての役割を担うのが知識人ではないということである。
そして、著者はこう指摘する。
これこそまさに、著者の主張したい「知的亡命」の核心部分ではないだろうか。
知識人は常にアマチュアであるべきか
さて、私自身も就職や転職、もしくは何らかの形態による選挙当選などを今後、経験するかもしれない。
一般的な個人は、少なくともこのような問題を抱えつつ、企業就職や面接、あるいは進学のための受験などを経験するといえる。
知識人も例外ではない。
知識人といえども、雇い主である大学、言論的影響力をもつメディアや出版社、党路線の代弁者たるを要求する政党などの影響を受けずに生活することは難しい。
つまり、諸個人からなる集団は、つねに制度的諸機関との関係があり、その機関が栄枯盛衰する過程は知識人集団の栄枯盛衰と直結するのである。
ここで著者はもう一度、問いただす。
さて、この文章を読まれている、数少ない読者のかたはどちらを選ぶだろうか。
この問いはとても大切な問いであり、今後も時代の移り変わりと共に絶えず、議論されるべき問題であろう。
これを論ずるにあたって重要な態度は、つまり冷笑主義的態度でもなく、過度な理想主義、現実主義でもないはずだ。
つまり、現実に基づいた論争を惹起されるべきであり、そのための議論を能動的にするべきであるということだ。完全な沈黙か全面闘争だけが知識人のありかたではないということだ。
しかし、これはとてつもなく、厄介で複雑な問題である。現実社会に根付きながら生きている知識人にとっても、表象する場所がなければ、それはつまり「存在しない」ということとなんら変わりないからだ。
このような時代環境が相互作用しながら、知識人の在り方にも大きく影響を与え続けてきた。
このような変容の元凶を著者はこう指摘する。
このような専門主義とは異なる、一連の価値観や意味を筆者は「アマチュア主義」という。文字通り、利益や利害、専門的な知識に縛られることのない、憂慮や愛着によって動機づけられる活動のことをいう。
著者は上記のように指摘する。
つまり、国家権力に抵触する問題や自国の市民、他国に市民との相互関係に抵触したりする問題の前で、知識人はモラルの問題を提起する資格があるのだということだ。
しかし、いずれの場合も権威や権力との関係は免れない。そして不断な選択を迫られる。
それは権威筋に、専門家としてにじりよるのか、それとも、報酬の得ることのない、アマチュア的良心として接するのかという選択である。
在日朝鮮人である自己との関連性
本文では、E.W.サイード著『知識人とは何か』(大橋洋一訳)の全6章のうち、4章を筆者の主観のもと、要約してみた。
いかがであっただろうか。
ぜひ筆者の拙い要約ではなく、本書を手に取ってみてもらいたい。
さて、ここでは筆者の自己統一性との関連性の中で、所感をつらつらと書いてみようと思う。
筆者は、在日朝鮮人である。これはつまり、日本帝国主義の植民地支配によって渡日を余儀なくされた朝鮮人の子孫であるということである。
筆者は生まれも育ちも、日本ではあるが、つねに船の上にいるような、言うならば不安定なアイデンティティを所有していた。
つねに迫ってくる民族や国籍問題。
通りすがりの日本人を見てうらやましいと思ったことは何度であろうか。
しかし、日本には「朝鮮学校」という異国の地においても民族のアイデンティティを育む場があった。
そのおかげもあってか、筆者は現在、在日朝鮮人や祖国を取り巻く「専門家」たちの意見に流されることなく、むしろ「アマチュア」として生きていくことを生業とすることを志している。
本書は筆者にとっても、とても参考になり、おこがましい表現ではあるが、まるで筆者の人生をなぞっているような文章に何度も出くわした気がしている。
それはつまり、現実的な亡命という運命と、知的亡命を経験しているような気がしたからだ。
現在、在日朝鮮人には基本的な「人権」が保障されていない。要するに、被抑圧的存在であるということである。
しかし、本書では力強く、以下のように主張している。
恥ずかしながら、この文章でnote投稿を決意したのである。
群馬の森に建立され、撤去された「朝鮮人追悼碑」問題も、高校無償化問題も日本社会での認知度は低く、否定的な意見も少なくない。
しかし、どうだろうか。
法治国家において司法判決は、ある程度の有効性を持つだろう。だが、問うべきはモラルの問題ではないだろうか。
もう一度、根本的な問題を問う必要があろう。
それはつまり、「なぜ朝鮮人が日本に存在したのか、なぜ日本に朝鮮学校が存在するのか」という問いだ。
世界史的な植民地主義の潮流の中で、植民地を部分的にでも肯定するのはなんとも愚かなことだろう。
人間の生を踏みにじり、他民族に対して、「権力・権威」の名の元に「服従・転向」を迫ったことこそ想起されるべきである。
著者が今後とも、E.W.サイードが主張した「知識人像」に人生をもってして迫れるよう決意表明をしながら、文を締めくくろうと思う。
以下は有料エリアとなっているが、内容的なものはない。
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