村上春樹の文章の「上手さ」を、短めに論じてみます

最初に:

具体的な文章を引用した追記がありますので、よろしければ、こちらもご参照ください。



どうも、モチダです。

最近、こんなものを読みまして。




わりと賛否両論というか、村上春樹さんらしい騒ぎになっているな、と思って、興味深く読みました。

ちなみに私は一応研究と論文が本業(の一つ)であり、文章を書くことが仕事となっている人間の一人です(悪文ですが)。そして、村上春樹さんの20年来のファンでもあります。

そして、既に色々まとまられている通り、村上春樹さんはこういった思想信条の方です。ある意味で「下界」との交流を絶つという特殊な形の研鑽を積まれた故に、余人には模倣しえない独創的な文体をつくりあげ、作家としての評価を積み上げられてこられたわけです。

そして、こういった形で色々と批判されることも含め、村上春樹さんご本人は受け入れられていると思います(まさしくそれが、村上春樹さんの作家としての覚悟の一つの現れなのでしょう)。


ですが、一つ気になることがありまして。

どうも議論の中で、村上春樹さん自身も文章が上手いわけではないと批判されている、あるいはそのように批判して「どっちもどっち」的な着地に持ち込もうとしている方が多いように見受けられます。

しかも、そういった揶揄をしたい方に限って、どうも村上春樹さんの著作をしっかり読まれていない方が多いように思われる。実際の作品では全く頻用されていない「やれやれ」などの定型句に触れて、批判しようとしている方が結構いらっしゃるように思うんですね。

最初に書いておきますが、モチダは、村上春樹さんは日本語の文筆家としては、文章がトップクラスに上手い方だと考えています。

もちろん個人の好みもありますし、村上春樹さんの作品の質のばらつきもある程度は存在します。ですが、こと日本語の文章の上手さというもののみを単純に比較するのであれば、これほど読んでいて楽しい、美しい文章を書かれる作家というのは稀です。これは断言してもいいと思います。

モチダはそれなりに読書家で、中学生くらいから(再読も含めれば、ですが)毎年300冊以上は必ず日本語の本を読んでいるのですが、村上春樹さんは近代日本文学史上でも屈指の優れた文筆家であり、素晴らしく洗礼された文章を書かれる方だと思います。

ですが、あまり村上春樹さんの文章の上手さをしっかり論じている人って少ない気がするんですよね。ですので、この機会に、3点ほど「村上春樹さんの文章の上手さを理解するための切り口」を論じてみようと思います。



①村上春樹はまず、短編から読もう

皆さんも恐らくご存知の通り、村上春樹さんの世界的評価が確立したのは、特に英語版の翻訳が高く評価されたことが影響しています。

ですが、世界的に評価された村上春樹さんの英語版の著作は、実は国内でよく知られている「ノルウェイの森」などの長編ではなく、日本語版から再構成された短編集なんですね。つまり、「世界的作家としての村上春樹」の評価を最初に確立させたのは、この短編集だといっても過言ではないわけです。村上春樹さんご本人は長編への思い入れがより深いようですが、短編の完成度の高さはやはり瞠目すべきものがあると思います。

ちなみにこの再構成版、(ややこしいですが)英語版の構成のままで編集したうえで、日本語の文章自体も村上春樹さんご本人による監修を経て、作品としての完成度をより高めた状態で発売されています。村上春樹さんの文章の上手さを味わいたい方は、まずこの作品集から読んでみることをお勧めします。実物を読みもせず、ネットで文章の上手さを論じるのは無意味です。

一読すれば、村上作品を未読の皆さんも、作品の好き嫌いはともかく、村上春樹さんがなぜ世界的な作家として評価されているのか、文章が上手い、美しいというのはどういうことなのか、が十分に理解できるのではないかと思います。

日本語の再構成版2冊について、下にリンクを貼っておきます。(アフィリエイトは申請していないので、私には1銭も入りません。ご心配なく)。


ちなみに、モチダの短編集の好みで言うと、「レキシントンの幽霊」が大好きです。現代文学としても、モダン・ホラーとしても、幻想小説集としても文句のでない、大、大、大傑作だと思っています。



②英語文学と日本語文学の伝統を受け継いでいること

モチダはもともと中国史を研究しておりまして、後にシンガポールの華人(中国系移民)社会の歴史を研究するようになった人間です。ですので、モチダが文章を評価するときの基礎にあるのは、漢文と英語の翻訳で得た感覚です。そして、私のように外国語の論文・史資料を読んで暮らしている人間からすると、村上春樹さんの近年の文章は、外国語翻訳という作業がもたらす好影響を完全に吸収したうえで、悪影響は受けていないという、奇跡的なバランスで成り立っているように思います。

たとえば、英語翻訳を専門とする日本人の文章は、往々にして長くなりすぎてしまい、弛緩してしまうことが少なくない。英文は、接続詞・関係代名詞のthat節などによって一文が長く続くことが多く、それをそのまま直訳すると日本語としては冗長になってしまうんですね。

ですが、村上春樹さんの文章は、数百年来の詩の伝統に基づく英語文学の長文の美しさを十分に咀嚼しつつ、日本語文学としての「そぎ落とされた」美しさも十分に担保しています。これはなかなかに奇跡的なことなのです。

また、あくまで漢文読みとしてのモチダの私見ですが、日本語文学としての「そぎ落とされた」美しさの伝統は、明治文学期から続くものであり、その根幹には(明治期以前の文筆家にとって基礎教養であった)漢文の伝統が存在しているのではないかと思います。

村上春樹さんは恐らく、日本語の古典的な文学を日常的に通読することにより、この日本語文学としての「そぎ落とされた」美しさを十分に引き継がれたのではないかと思います。これは、漢文を読む人が希少になってしまった現代では失われかけている美質であり、かつ村上春樹さんが日本語文学の伝統に十分に立脚していることを示す証左でもあります。



③夏目漱石、内田百閒、丸谷才一と比較してみよう

さて、文章の上手さ、美しさを論じるときに大事なのは、比較です。他の文学者との比較をせず、村上春樹さんの文章だけを取り上げて褒めたたえても、近視眼的な評になってしまうでしょう。

モチダは、村上春樹さんと比較して通読してみたい作家として、夏目漱石、内田百閒、丸谷才一の3人をあげてみます。

まず、この3人は全員が日本文学史に名を遺した優れた作家であり、また外国語の知識や翻訳に長け、外国語文学の伝統を知悉しているという共通点があります。日本文学史において、②で述べた、「英語文学の長文の美しさの伝統」と「日本語文学としての「そぎ落とされた」美しさの伝統」を共に備えている作家を選ぶとなると、この4人は間違いなくオールスター級の大物たちでしょう。

丸谷才一さんは、他の2人と比べるとかなり「若手」です。しかし、丸谷さんは文学賞の選考評ではかなり辛口ということで有名な方だったのですが、初期から村上春樹さんの作品を評価していたということで、加えさせていただきました。

とりあえずこの3人と読み比べてみると、村上春樹さんの日本文学史における立ち位置や、独特の「癖」の強さというものが分かってくるのではないかな、と思います。



というわけで、長文失礼いたしました。また文中で失礼な発言などございましたら、あらかじめ陳謝いたします。

皆さんがぜひ村上春樹さんの作品を読まれて、その文章の上手さと「癖」の強さを堪能してくださるのであれば、これに勝る喜びはありません。

あとはこの悪文が、何かの間違いで村上春樹さんご本人に読まれないことを願うばかりです。

ではまた。



追記:

コメントを見ていると、「実際の文章が出てこなかった」というご不満がおありの方が多いようです。

しかし、当たり前の話ですが、小説は通読してこそ価値が分かるものですし、私は文章で飯を食っている方の文章を勝手に公開するつもりもありません。

もちろん、表現の自由・引用に関する法的権利という面であれば、短文の引用は問題ないでしょう。ですが、作家は文章を書き、それを作品として生計を立てている職種なのです。私のような大学教員と違って、固定収入がある場合は少ない。ネットや図書館で無料で消費されては、たまったものではないでしょう。

そういった作家の方の作品をネット上で論じる際に、「読んだ気にさせる」ような引用を行い、購買意欲をそぐのは、モチダ個人のモラルとしては賛同できないなと思います。

身銭を切らずに手に入るのは安物だけです。自分でお金を払って、書籍を買って、読んでみてください。これは、村上春樹さんの文章を読んでみるためのガイドのようなものだとお考えください。

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