プロジェクトQ トライアル・コンサート

”プロジェクトQ 18章 若いクァルテット ベートーヴェンに挑戦する”のトライアル・コンサートを聴きに行った。

今年は、ベートーヴェンの中期の5曲に、5組のクァルテットが挑戦している。

来月の本公演に向けた試演会なのだけど、どの団体も力の出し惜しみなどせずに、何ヵ月も一つの作品に向き合って来た成果を舞台にぶつけて来るものだから、聴いているこちらの方がその熱量に火傷しそうな趣きだった。

このプロジェクトから出発して、本格的に弦楽四重奏に取り組もうという学生達もいれば、そういう気持ちとは裏腹に、違う方向へと進んでいく事になる大半の参加者達もいる。

今年、結成したばかりのグループは、個々の音楽性の高さは明らかなのに、クァルテットとしての総力が余り高くはなかったり、結成して数年を経て既に幾らかの経験がある団体は、自信と共に迷いまで培われて来ていて、やっぱり足元を掬われたり、ベートーヴェンの絶頂期の作品を奏でるには打ってつけの葛藤と野心を抱き、理想と夢と向こう見ずな挑戦に溢れている。

練達の弦楽四重奏団の入念な録音で聴いた所で、十全な演奏と言える様なものは殆どない、そんな大曲ばかりであるのだから、演奏が良かったとか悪かったという事には、余り意味はないと思う。

ベートーヴェンという人は、つくづく凄い音楽を書く人だったな、と圧倒される三日間だった。


第一日

ラズモフスキー・セット 第3番

ヴィオラの押し出しがとても強いグループで、まるでコンチェルトの様だと思った。

今年、結成した許りらしくて、その怖いもの知らずの感じが、兎に角、好かった。

最後のフーガ、四人とも全力で弾きまくっていて、最高に格好いい。

今しか出せない音楽を出しきっていて、正に旬だと思う。

これは、どんな才能にも勝る価値なのだ。

セリオーソ

曲目の性格も大きいのだとは思うけれども、すっかり練り上げて作り込んで来た演奏は、圧巻だったとも言えるし、素晴らしいを通り越して嫌味な程だった。

ここは、チェロの押し出しが強くて、しかも、チームプレーの音楽だから、音もブンブン鳴るし、どんどん技が決まって行く。

掛け値なしに名舞台だったと思う。


第二日

ラズモフスキー・セット 第1番

5つの団体の中では、一番の実力者であったんじゃないか、と思うのだけれども、それ故に、沢山の葛藤もありそうだった。

二十代も半ばになれば、もう若者とも言っていられない、そんな渋さがあって、迷いがある。

そういうある種の初々しくなさが若々しいという案配で、途上感が赤裸々だった。

そして、他のどの団体よりも、学生ではなく演奏家の顔だった。

それだけ、背負うものが大きく重いのだと思う。

ハープ

曲目と演者の性格が一致しているので、何だか可笑しかった。

とても優美な音楽だから、もう天に昇るくらいに、徹頭徹尾、おおらかにあればよい。

だけれども、そんなキャラクターを最大限に伸ばしたい、なんて想いは少なくて、もっと万能なクァルテットになりたいのだろう。

その葛藤が、ハープの美しさを次第次第に削いでいく。

それでもその道を進むのがミュージシャンになるという現実なのだろう、と思うと辛い。


第三日

ラズモフスキー・セット 第2番

不思議と掴み所がない演奏で、或いはそういう音楽なのかも知れない。

クールで、ちょっと突き放された様な、向こうから語り掛けて来るのではなく、こちらから掻き分けて行かねばならぬ様な、温度差がある。

好き嫌いというよりは、見ている世界が違うという様な、寂しさか。


音楽というものは、本当の所、試されているのは聴き手なのだと思う。

僕らが選ぶくらいには、勿論、彼らも選ぶだろう。

否、一層、厳しく選ぶだろう筈の彼等からは、選ぶ権利が奪われている。

ベートーヴェンという人の音楽に、時に剥き出しの闘争心が現れる一因も、そこにある。

トライアル・コンサートは、終演後に料金を払うシステムで、金額は100円以上の任意の額という定めになっていた。

今日の演奏に対する評価を金額に反映して下さい、という趣旨だ。

一々考えるのが面倒くさいので、一律の金額を払ったのだけれども、それこそ、不実な態度だったと思う。

どんな音楽を愛するかは、どんな音楽を奏でられるかよりも、遥かに一大事であるものなのだから。

批評するとか評論するとか、良かったとか悪かったとか、そういう事は専門家に任せるとして、好きだったか嫌いだったか、そういう事をも排除してみた先に、ベートーヴェンの音楽が鳴るならば、その楽が、愛しくない事などあり得るだろうか?

そういう風に、ベートーヴェンが響くには、演者の努力だけでは到底足りない。

どんなに孤独な音楽も、爪弾かれ、聴かれる限りは、共同作業だ。

聴き手が果たす役割は、決して小さくはないだろう。

ベートーヴェンの音楽が、いつでも勇んで許りいないのもまた、その為だと、私は思う。

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