CD:ヴォルフ=フェラーリのヴァイオリン協奏曲

世の中には、色々な人がいる。

身内に甘い人。

子供に甘い人。

老人に甘い人。

弱者に甘い人。

麗人に甘い人。

誰にも甘い人。

自分にだけ甘い人。

どうにも甘くない人。


川畠成道の独奏で、ヴォルフ=フェラーリののヴァイオリン協奏曲を聴いた。

2007年に行われた日本初演の実況録音。

ヴォルフ=フェラーリと言えば、20世紀前半に活躍したオペラの作曲家で、徹頭徹尾歌に徹した作風で知られる。

しかし、同時に歌にのみ頼る事もなく、管弦楽の扱いも卓越しており、ドラマをしっかりと音で描く大家という事になっている。

ヴァイオリン協奏曲は晩年の作品で、アメリカの若いヴァイオリン奏者との出会いが縁で生まれた作品。

明るく伸びやかに歌い出されたメロディが、直ぐに反転して暗い短調へ流れていくのを捉えて、老いらくの恋を自嘲するかの様だ、と紹介されるのが定石だ。

娘よりも若いブスターボに、恋心を抱いたと言われているが、晩年のヴォルフ=フェラーリにとって、恋とはどんなものだったのだろう。

このヴァイオリン協奏曲に、彼の恋の片鱗が本当に宿っているというのならば、それは実に儚くて、控え目で、端から想い出の様な寂しさがある。

延々とロマンスが続くような音楽で、コンチェルトというよりはメロドラマという感じが強い。

兎に角、ヴァイオリンが歌いっぱなしの一人舞台。

だから、ソリストに強烈な個性と熱情がなければ至極退屈しそうな、しかし、人を得たならば、正に夢見心地な、陶酔とも憧憬とも判別しがたい音楽。

このロマンチシズムの海に溺れたならば、現世に帰るのは困難か。

否、ヴォルフ=フェラーリは喜劇の大家でもあったから、最後、何ともあっさりと、そんな夢物語から覚ましてくれる優しさがある。

それこそは作家の恥じらいかも知れないし、単なる定石に過ぎないものかも知れないけれども、良くも悪くもこの良識が、今日のヴォルフ=フェラーリの確かな人気を支え、且つ、限定的なものに留めている一因の様にも見える。

ヴォルフ=フェラーリは、少年の頃に、ワーグナーの楽劇『ジークフリート』を観劇して嫌悪感を抱いたそうだ。

その後に受けた音楽教育も、メンデルスゾーンの系譜に列なる保守的なもので、古典をとても重んじた人だった。

だけれども、後年、やはり、ワーグナーの”ジークフリート牧歌”を聴いて、ワーグナーの音楽への理解を深めることともなっており、決して、懐古的、保守的なだけの人ではない。

このヴァイオリン協奏曲も、正にそんな人の音楽だ。

音楽の進行はドラマに完全に支配されていて、親しみやすいメロディやハーモニーとは裏腹に、全く20世紀らしい作風だと思う。

映画の世紀の音楽という感が強い。

素晴らしい映画音楽は、映像なしではどこか物足りなくて、だけれども、聴けば必ずあの名場面が甦る、という自己完結しない部分がなくてはいけない。

ヴォルフ=フェラーリの音楽は、スクリーンなしでも完結してしまう所に、映画音楽との決定的な違いがあるのだけれども、彼の描く音楽ドラマは、舞台の場面転換よりも、映画のカット割りを思わせる。

サイレントを観ている様な、音楽。

川畠成道という人のヴァイオリンは、その人気に反して、余り甘美なものではないのが意外だった。

端正で控え目、音色も渋い。

この人には二つの悲劇と、それを埋め合わせる事はとてもできないけれども、二つの小さな幸運がある。

一つは薬害で失明した事。

そして、その為に出会ったヴァイオリンに並みならぬ才があった事。

もう一つは、障害を前面に押し出したプロモーションを掛けられてしまった事。

そして、その期を逃さなかった事。

日本に限った現象なのか、人類共通の志向性なのか、何れにしても、本邦の洋楽演奏家には、障害があった方が売り出しやすいという現実がある。

それは、出来るだけ幼い内に売り出すとか、美人だとか、イケメンだとか、そういう要素と大差のない重大な売り込み要素である。

それは、音楽には全く関係ない要素だとも言えるし、決定的な要素であるとも言える。

人間が音楽を聴く時に、耳からのみ得られる情報というのは、僕らが思っているよりも、遥かに少ない。

逆に言えば、人間が音楽に感動する為には、必ずしも音など要らないものかも知れない。

川畠成道のヴォルフ=フェラーリを聴いていて、そんなことを考えた。

この協奏曲の録音には、初演者のブスターボの実況録音も残されている。

だけれども、数量限定の発売であった為、入手は至難、驚くような金額での取引が続いている。

それでも、21世紀の強みと言うべきか、無料で観られる動画サイトには、幾つもこの録音がアップロードされているから、聴くこと自体は、寧ろ、容易だ。

一聴すれば、ああ、この人の音を想定して書かれた音楽なんだな、と納得させられる、名演奏。

それなのに、何だか心から喜べないものがある。

動画サイトの音質が悪いから?

それもあるかも知れないけれども、やはり、きちんとディスクを買って聴いていないという後ろめたさ。

否、もっと辛辣に真実を言えば、このディスクを所有していない悔しさ、満たされない所有欲。

確かに、そんな下世話な感情が、音楽の銘度を確実に引き下げる。

それは、私という聴き手の精神の粗悪さの現れなのだけれども、同時に、とても健全な感情の蠢きとも思われるものだ。

僕らの聴体験というものは、万事、こういう外的な、そして極めて内的なものに影響され、半ば依存している。

そういうものを個人から引き離して、音楽のみを抽出して聴けるならば、それは批評精神をも通り抜けて科学だろう。

そして、確かに西洋の音楽家は、ある時期までは科学者であった。

音楽家であるという事は、肉体労働者にして、科学者、数学者であり、宗教家ですらあった。

だからこそ偉大でもあったし、限界もあったのだ。

どんなに創造主が偉大でも、それに見合った聴き手までは造れなかった。

川畠成道のデビュー・アルバムは大変にヒットしたそうだ。

それだけ、多くの人々の心を動かしたという事だ。

そして、ヴォルフ=フェラーリのヴァイオリン協奏曲のディスクは、今日に至るまで、甚だ少ない。

きっと出しても売れないのだろう。

それだけ、人知れず、しかし、案外に絶える事もなく、誰かの心を動かし続けている作品という訳だ。

年々、音楽は、聴きたい作品であれば誰の演奏でも構わない、という心境になって来た。

だから、ディスクは一枚あればそれでよい。筈なのだけれども、ヴォルフ=フェラーリのヴァイオリン協奏曲のディスクは、これからも、見付ければ、きっと全て買うだろう。

そこに矛盾を見付ける様では、音楽など聴かぬに限る。

そういう甘さが、自分にはある、それだけの事なのだ。

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