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#4 ネット構文は軽薄すぎて好きだし意味深長で草なんよ、という仮説【週刊自室】

 阿部寛はバカとブスを互いに排反だと思ってる説好き。
 こんにちは、せうりくです。

 今回は、この「〜好き」構文の話です。

 こうして無為徒食の日々を送っているとYouTubeの魔の手から完全に逃れることはもはや難しく、作業(無為徒食のわりになにかしらの作業をしている)や休息(無為徒食なので毎日が休息)の背景として動画を流して環境音にする、という行為に走ってしまうことが往々にしてあります。今も流しています。

 まあ私の現状はともかくとしても、今日では、どのようなチャンネルを登録しているかによってその人の人物像がなんとなく推測できてしまう(かのような錯覚にさえ陥る)ほど、私たちの存在とYouTubeは強く結びついています。

 そして、動画のジャンルによってコメント欄の雰囲気があまりに異なることは、その錯覚をより確かなものにしています。

 もっともらしいイデオロギッシュな意見を述べるコメントで溢れていたり、ハイセンスなユーモアの大喜利的コメントで溢れていたり、そのコミュニティ独自の挨拶や用語が散りばめられたコメントで溢れていたり、動画の投稿主を持ち上げるコメントで溢れていたり、セクハラみたいな怪文書コメントで溢れていたり。

 いずれにしてもそのジャンルに特有の空気感のようなものが存在していて、コメントはそれに従うことで高文脈化しているように思います。
 そのこともあって、普段自分が触れていないようなジャンルの動画のコメント欄を覗くと、随分気味悪く感じられたりする場合があるのではないでしょうか。
 インターネットの普及が進んだことによって、ネット全体で文脈を共有することが難しくなっているのかもしれません。
 かつてはネット自体がサブカルチャーだった(らしい)のが、今ではネットの中にメジャーとマイナーが生まれて、精神的人種の隔離が進んでいるかのように見えるというか。

 時には、自分が普段から目にしているような動画のコメント欄さえ異質に感じられることがあります。

 私がよく見ているとあるチャンネルの視聴者は、そのジャンル特有の空気感に高度に訓化されています。
 奇妙なことにそのチャンネルの動画につけられるコメントは、最初に述べたような「〜好き」構文のかたちをとるものが多いのです。

 はじめはそのことに全く気づかないほど私自身も訓化されていたのですが、最近になって妙にそうした構文が気になりはじめました。
 「〜好き」構文のコメントがあるとめざとく気づいてしまって、退屈な気持ちになります。

 この退屈な気持ちの正体はなんなのか?
 そして、なぜこうしたネット構文は流行るのか?
 というかそもそもどのくらい流行っているのか?

 今回はこれらの個人的疑問について考えていこうと思います。

コメントの構文にまつわるゆるい調査と、その気づき

 私はまず、当該チャンネルのコメント欄でどのような構文が流行っているのかを確認することにしました。

 とはいっても、私はプログラミングには疎い(Scratchだけは知ってる)ので機械的な調査方法は難しく、ちまちま調べ上げる根気もありません。
 ですので、とりあえず直近の動画4本のコメント欄をさらうことにしました。
 まず私が注目した「〜好き」「草」「すぎる」をカウントした結果を提示します。

「油粘土マン」チャンネル直近4本の動画(西暦2024年4月22日時点。『Æbleflæsk作ってみた!』、『裸族の一週間コーデ』、『多様性に抗うヒヨコ鑑定士のモノマネ』、『悪口言われた時に使える言葉100選!』)における、構文コメントの比率(小数点以下四捨五入)。グラフ縦軸()内はコメント数。

※「好き」「すき」「すこ」は「好き・すき・すこ」としてまとめました。もしかしたらそれぞれはちょっと別物なのかもしれませんね。すみません。
 3つの中では「好き」が圧倒的多数で、「すき」は少数、「すこ」はほんのわずかでした。

※ 4本目の動画は飛び抜けてコメント数が多いです。ご留意ください。

※「好き・すき・すこ」が含まれるコメントは、それが投稿者本人によって構文であると自覚されていそうなものに限ってカウントしました。またあえて構文とずらしていそうなコメントはノーカンとしました。
 私の勝手な裁量ですので、微妙なところはあります。というか、構文の持つこうした微妙さについて考えることは重要かもしれないので後述します。

カウントしたもの:
「〜で好き」
「〜なの好き」
「〜がすきかも」
「〜めちゃくちゃ好き」等

カウントしなかったもの:
「すき」のみ
「〜は…するくらい好き」
「〜が1番好き」
「〜好きよ、私😊」等

※「草」は、ふつうにカウントしました。

※「すぎる」については、基本的に「好き・すき・すこ」と同様に判断してカウントしましたが、ほかの活用形についても私の判断でカウントしました。

カウントしたもの:
「〜すぎる」
「〜すぎて笑う」等

カウントしなかったもの:
「〜すぎだろ」
「〜すぎでしょ」等

※一つのコメントで何度も同じ構文が使われている場合はまとめて一つにカウントしました。

※「好きすぎる」や「〜すぎて好き」といった、「好き・すき・すこ」と「すぎる」が複合したものは両方にカウントしました。よってもってこのグラフは正確ではありません。うっかりしてました。すみません。でも誤差程度ですよ、おそらく。ねえ。やだなあ、もう。



 さて、こうしてみると「〜好き」構文は思ったよりも少ないなあ、というのが私の一番の感想です。20%くらいはあるかと予想していたので。本気で。
 「〜好き」「草」「すぎる」をあわせると15%程度ということで、私のネット構文センサーが普段から感知していたネット構文コメントの割合が20%程度だったということなのでしょうか。

 それから、この調査によって初めて私のセンサーに引っかかった構文、というか頻出パターンが数多くありました。
 以下にそれを挙げます。

「〜で笑う、〜なの笑う」(用法として「草」に近い)
「〜でしぬ、〜なのしぬ」(同)
「〜に出てきそう、居そう」

「〜でダメだった、無理だった」
「〜を再認識させてくれる動画」
「〜に涙が止まらない」
「〜の鑑」(「鏡」になっている場合がある)
「ちょうど〜ので助かりました」
「〜秒なのにこの満足感」
「これ本当は[切ない考察]なんだよね......」
(「これ本当はテロ組織に拉致された人が居場所を伝えようとしてる動画なんだよね......」みたいなやつ)
「この後[切ない考察]するんだよね......」
(「この後殺害されるんだよね......」みたいなやつ)
「今日はこれでいいや」
「〜のはもう…なんよ」
(「なんよ」?)
「〜なのえぐ」
「[動画内の所作]が完全に[それに似ているなにか]」
(「メタモルフォーゼの仕方が完全にエッシャーなんだよな」みたいなやつ)

 また、こうした頻出パターンに対する忌避感情からか、あえてそれらとはずらした表現を選んでいるかのようなコメントも見られました。

「〜が好み」(「〜好き」への抵抗?)
「〜が…すぎて」
(「〜すぎる」への抵抗?)

 なんでもかんでもネット構文としてしまうのはあんまりアレな気がしますが、コメントの頻出パターンを分類するのはけっこう面白いかもしれません。
 これにあたっては、ネット構文の流動性についても考える必要がありますね。
 というのも調査の中で私は、コメントをネット構文としてカウントするかどうかを判定する自分なりの基準がとても曖昧であることに気づいたのです。
 今回は書き手がその構文を用いていることに自覚的であるかどうかを推測して判断しましたが、結局それは推測の域を出ないし、字面が構文チックなものを機械的にカウントするほうがいいのかもしれません。
 ただ私としては、ネット構文を知らない人が偶然にそれと同じ形式で出力した文章を、ネット構文を知っている人による作為的な文章として判定することに抵抗があります。
 私は、ネット上の人々によってネット構文に対する嫌悪感が表明されている場面をたびたび見かけるからです。

 そういうわけでここからは、ネット構文の成長過程を推測しつつ、「なぜネット構文は嫌悪されるのか」、そして「そもそも何をネット構文とするべきなのか」についても考えていきます。

ネット構文の成長過程に潜む軽薄さと意味深長さ

 ここからは私の無根拠な推測パートです。
 YouTubeのコメント欄に散見される構文を起点に、ネット構文全体についても考えを広げていきます。

 ネット構文が誕生し、そして衰退する過程は、「無意識的発明」→「模倣」→「陳腐化」→「代替」という流れをとるのではないかと私は考えます。

無意識的発明

 今まさに陳腐化している最中のネット構文も、最初は革新的なパッケージの発明として人々に受け入れられていたものと考えられます。そうでなければ流行らないでしょうから。
 ただ、ハイセンスな(あるいはずる賢い)誰かによるその画期的なおもしろ・共感テキストは、おそらくその第一人者にとっては「発明」というよりむしろ「一発ギャグ」に近いものであると思われます。
 そもそも表現力が豊かにある人間であれば、同じ構文を使い回すというラクで退屈な選択肢を頻繁には選ばないでしょう。頻繁には。

 例えば、この構文。

〇〇って⬜︎⬜︎って読むんだwwwwwwwwww俺ずっとwwwwwwwwwww



生きるのが苦しかった

よく見かけます


 かなり昔の2chスレタイ芸(スレッドのタイトルでふって1レスでオチをつけるユーモア)が初出のようで、形式も「俺ずっとwwwwwwww お前のことが好きだった」と、オチが異なっていたようです。

 この形式の発明者はおそらく、意図的に構文の提案をしたというよりむしろ、単発のおもしろテキストを提供したつもりだったはずです。
 受け手がそのテキストからミーム的な構造を抽出して模倣することによって、結果としてネット構文になっていったのではないでしょうか。

 もっと出自が明確な好例を探したのですが、なかなか見つからなかったのでイラストミームを例として提示します(全然別物ですよね。でもちょっと共通点もあるんですよ)。
 『極主夫道』の作者であるおおのこうすけ氏が2024年4月14日に旧Twitter(X)に投稿した漫画の一場面。

ほんとうにいい表情をしています

 最近よくこれがパロディされているのを見かけます。
 というかこうして調べるまで元ネタを知りませんでした。
 この漫画も先の例と同じように、おそらく意図的にミームの提案をしているわけではありません。
 受け手がミーム的な構造を見出して他のキャラで模倣することによって、結果的にミーム化したのです。

模倣

 誰かが書いたおもしろ・共感テキストから構文を抽象し、便利な表現形式として流用する。
 ネット構文という無意識的発明は、このような模倣によって普及していきます。
 おそらくこの過程の初期は、模倣(パロディ)のオリジナルが存在するということを読み手が理解する前提で書かれたテキストがその大半を占めるはずです。
 その構文が広く普及するまではあくまで明確な発明者が構文の持ち主として存在していて、模倣をする人々はその構文のオリジナルをはっきりと意識した上で二次創作的なおもしろ・共感テキストを発信しているということです。

 「俺ずっとwww」はオリジナルが大きなインパクトを残したからこそネット構文化し、はじめの頃はそのオリジナルを踏襲したという体での模倣が行われていたはずです。

 『極主夫道』のイラストミームにおいても、このラップバトルの構図を早い段階でパロディした人々は、そのイラストが何をパロディしたものであるかという情報を受け手が持つ前提知識として想定していたはずです。
 パロディは「バレないと困る」ものですから。

 しかしそうした模倣が人々の手によって受け継がれていくと、その構造のオリジナルが2chや『極主夫道』にあるということはそう長くない時間をかけて忘れられていき、ミームは根を失った状態で成長し続けることになります。
 枯れ果てる、その時まで。

陳腐化

 ネット構文は、いずれは旬を過ぎて価値逓減や忌避感情の高まりというかたちの腐敗を始めます。あるいは最初から腐り始めている場合もあるでしょう。
 軽薄な流行歌のように甘いそれらが陳腐化していくのはなぜか?
 私はここに、ネット構文が嫌悪される理由の一つがあると思っています。

 つまり、私が「〜好き」構文ばかりのコメント欄を眺めて退屈な気持ちになるのは、そこが画一化された多様性のない空間であるためなのです。
 自分の感想を使い勝手のいい構文に託して投稿するのは、たしかに圧倒的にラクです。気軽にコメントできるのはとてもよいことだと思います。
 しかし、言葉には不便益というものがあります。
 何にでも使えるような便利な表現が存在しないからこそ言葉は多様になり、豊かな生態系が維持されます。
 そこにいったん便利で強力な表現が生まれると、その種は他の表現を放逐し、言葉の植生を変えてしまうのです。
 何が言いたいかというと、「おんなじ構文ばっかで飽きる」ということです。
 ネット構文は、大きく流行ればその分飽きも早くなります。
 そして、ありふれた表現形式に意見や感想、ユーモアを委ねることの軽薄さが、それらに対する嫌悪感を生み出しているのではないでしょうか。
 別に私は、普及しきったネット構文に頼るのがよくないことだと主張したいわけではありません。
 むしろ、そうした表現形式の成立や変化について考えるのはとても楽しいですし、どんな言葉を用いるかは基本的に各々の自由でしょうから、好きにしたらいいと思います。
 まあそれはそれとして、私はあまり使いたくないな、と思っています。退屈なので。

代替

 陳腐化したネット構文を避ける気運が高まると、その構文をかわした表現が生まれます。いわば逆張りです。
 はじめの調査においても、流行りの構文を意識的にかわしているようなコメントがちらほら見つかりました。「〜好み」や「〜すぎて」ですね(もしかしたら私に知識がないだけでそういう構文なのかも)。
 これらは「〜好き」や「〜すぎる」と大差ないように見えますが、そうしたネット構文に対する忌避的感情からあえて微妙にずらした表現を選んでいる、という可能性もあります。

 この忌避的感情には、先に述べた軽薄さへの反抗という要素以外にも、「思想の回避」という側面があると考えられます。

 ネット構文は特定のネットコミュニティ上で共有される表現形式であり、ネット構文と見なされるような表現を用いることは、自分がその構文の支持基盤となるコミュニティに属していることの表明として機能する可能性があります。
 たとえば、LINEのトーク上で「尊すぎて死んだ」という言葉を用いる友人がいたら、「この人は『尊すぎて死んだ』という言葉がよく用いられるようなネットコミュニティとそのイデオロギーに属しているのだろうな」という印象を抱きませんか。
 そうするとこの友人には、「尊すぎて死んだ」という言葉をよく用いる人に対する(概して偏見に近い)イメージが投影されるわけです。
 ネット構文がその流行によって軽薄さの象徴になりうることを考えると、それらの構文をかわした表現が必要になることは自然に思われます。
 そうして逆張り的で訴求力のある表現方法が発明されると、今度はそれが新たなネット構文となるのです。

ネット構文から逃れるために、ネット構文を認める

 こうした表現とイデオロギーの結びつきは、人々を面倒な気持ちにさせます。
 もっとも面倒なのは、自分の出力したテキストがたまたまネット構文と合致していた時です。
 受け手側からは、そのテキストが特定のネットコミュニティに属する人間によって書かれたれっきとしたネット構文なのか、あるいはその構文を知らない人間が書いた偶然の産物なのか、判断がつかないのです。

 ネット構文は、その存在がコミュニティのイデオロギーと結びついているために、本来自由であるはずの言語表現に縛りを設けてしまいます。
 そういう意味では、ネット構文という便利な表現形式は私たちの言語活動をかえって不便にしていると言えるでしょう。

 ただ私はここで、ネット構文自体を敵視するよりも、ネット構文とイデオロギーの結びつきを棄却することで自由を取り戻すべきではないかと考えます。
 自分の意見や感想を述べるためにどのような表現を用いるかというのはそれぞれが自由に選択するものであって、同時にその表現がどのような文脈に基づいているのかということに関しても、送り手は受け手のバイアスから自由であるはずです。
 好きなものに対しては自由に「〜好き」と言えばいいし、なにかが過剰であることが面白かったら「〜すぎる」と率直に言えばいいのです。
 受け手は受け手で、それらの表現を深読みせずに受け取るほうが楽でしょう(送り手自身深く考えてはいないでしょうから)。
 そうした寛容さが、巡りめぐって私たちの自由な表現を守ってくれるはずです。

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