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8月を前に思う

民具を見るのが好きだ。年寄りっ子だったからかもしれないし、もしかしたら、前世の記憶からかもしれない。民具とはその昔、人々が生活の必要から製作して使用してきた伝統的器具や造形物だ。これがあったら便利だなというものを先人たちが頭をひねって生み出し、さらにブラッシュアップしたものだと思う。
 生きていく中で、暮らしていく中で、食べていく中で、「あれがあれば」「こんな仕掛けがあれば」と思案して生まれたもの。特に私は大豆を脱穀するための二又棒や麻の茎をたたいて繊維を細かくする横づちのようなものを握ってみるのが大好きで、実際、握り塩梅はしっくりくることが多いのだ。使いこまれ、黒光りした道具はもはや使う人の一部だったに違いない。作った人の優しさと頭の良さに敬服する。
 着るものに関しても温かく、動きやすく丈夫にと始まった刺し子の南部菱刺しも、とにかく手間がかかる。実際に出来上がったものを着る人の気持ちは愛情に包まれ、温かったであろう。

今は伝統工芸などと呼ばれ、普段の生活とはかけ離れてしまって、しかも高価なものという印象を持つ人も少なくないが。脱穀しなくてもキレイな豆が購入できて、針仕事を懸命にしなくても安価で温かいものも買える。生きてゆく日々の行程がカンタンになり過ぎたのだ。
 先人たちはどれほど体力と知力を使って生きただろう。毎年必ず脱穀して季節を感じたかもしれないし、着るものがボロくなれば繕わなければと針をどれほど持ったであろう。その昔、日常であったものが民具や刺し子だ。この流れの早い時代に針を持ち、ものづくりをできることは少しだけその時代を切り取らせていただいている気がして、タイムトラベルしている感覚になる。伝統とは日常に根ざしてきたもので日々の積み重ねである。
 生活の必要なものを作り出せる時間がどれだけ豊かだろう。世界が物価高だと騒いでいてもここは青森県、この豊かな土地に生まれているのだから手立てはあるはず。東京発信のニュースや流行に右往左往せず、刷り込まれた常識を疑い、壊し、新しい常識やここだけの常識を作れば良いと思う。

 平和な日常がどれだけ幸せだろう。戦争の悲しいニュースも毎日流れてくる。日本では戦争を語り継ぐ世代は少なくなってきた。傷ましい歴史を二度と繰り返さないと広島の平和記念公園で毎年誓うはずだが、若い世代には形式にしか見えなくなっているのかもしれない。もっと経験者の話をリアルに聞いたほうが説得力あるだろう。
 日常が平和であるからこそできることがたくさんある。物や情報があふれている今でも、現代を生きる私たちの悩みは尽きない。でも、改めて、日本の平和をはじめ、自分たちの持っているもの、今住んでいる場所の豊かさを見詰めることも大切なのかもしれない。

デーリー東北新聞社提供
2022年7月27日紙面「ふみづくえ」掲載

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