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菱岡憲司『その悩み、古典が解決します。』晶文社

菱岡憲司『その悩み、古典が解決します』晶文社
その悩み、古典が解決します。

ことの起こり

そもそもはじまりは、こんな本の企画があったらきっとおもしろいだろうな、とXに投稿したことからでした。

こちらに、忘却散人さん(飯倉洋一先生)が「ハッシュタグというのは、どうでしょうか」と知恵を授けてくださり、加えて読書猿さん(『独学大全』著者)が「応援します」とハッシュタグを広めてくださったところから、大喜利よろしく、いろいろとコメントが寄せられはじめました。すると、晶文社の編集者・江坂祐輔さんから連絡をいただき、晴れて書籍化へ向けて進みはじめました。

後日、東京出張ついでに江坂さんと打ち合わせをして、そこでイメージを共有できたので、それからは(サバティカルに行く前に)一気呵成に書き上げました。そして江坂さんによる見事な書籍の構造設計と、吉岡秀典さんのすばらしいブックデザインを得て、ついにリリースです。最終的にタイトルは、こう定まりました。

『その悩み、古典が解決します。』

はじめに

さて、まずは本書を知っていただくために、版元の許可を得て、「はじめに」を公開いたします。

はじめに

 近年、古典教育は必要か、という議論が盛り上がりました。古典教育なんて不要、という立場の人の言うことも、なるほど、そんな風に考えるんだな、と理解できないことはないのですが、それでも大前提として、古典は役に立たない、という認識を持っていることに、私はいささか不思議な思いを抱いています。
 なぜなら、私自身は古典がものすごく役に立っているからです。それも、教養が身につく、とか、人生が豊かになる、とかいうことではなく(もちろん、教養も身につきますし、人生も豊かになります)、現代の日常生活で直面するさまざまな悩みに対して、私は古典を読んできたおかげで、多くの解決策を得てきたからです。
 これはもう、必要かどうかなんて議論をしても仕方がありません。現代人が直面するさまざまな悩みに対して、じっさいに古典が役に立つことを示せばいいのです。
 というわけで、その悩み、古典が解決します。
 しかし古典といってもたくさんあります。なかでも問題解決につながる人生の智慧が詰まっている古典として、まず『徒然草』を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。それはまちがいないところで、たしかに『徒然草』をひもとくことで、いろいろな解決策を得ることができます。
 だけど、ちょっとメジャーすぎると思うのです。なにより、中学・高校の古典の授業であつかわれているので、どうしてもお勉強というネガティブなイメージを呼び起こしてしまいます。
 よってここでは、名前は聞いたことがあるけれど読んだことがない、あるいはそもそも名前も聞いたことのない古典に大活躍してもらおうと思います。
 それには、中学・高校の古典の授業で冷や飯を食わされている、江戸時代の作品がぴったりです。ほとんど授業であつかわれないので、みなさんにもまったく先入観がないものばかりです。食わず嫌いが発動するためのイメージすらない、という状態のはず。また、平安時代や鎌倉時代ほど昔ではありませんので、散逸せずに残っている作品も多く、種類も豊富ですから、じつにたくさんの悩みが描かれ、それに対する解決策も具体的に示されています。これを利用しない手はありません。
 いま、さらっと言ってしまいましたが、そうなんです。古典はその当時のいろいろな人びとの悩みを浮かびあがらせ、そしてなんらかの解決や示唆を与えてくれるものだったのです。これを現代でも役立てないのはもったいない。その橋渡しをすこしでも私が担えたらと考えています。
 現代でも、小説やマンガ、映画などから、人生についていろいろなことを学ぶことが多いと思います。つまり悩み解決のヒントを得るためには、それが事実か否かということは、あまり関係がありません。そこで本書でも、実際にあった話に限定せず、フィクションの類も積極的に採用しました。
 さあ、さっそく本書を読んで、あなたの抱える悩みを解決してください。
 そして、古典がじっさいに役に立ち、なにより無類におもしろいということを実感してください。
 さらに……それをまわりの人にもぜひ紹介してみてください!
 そうやって「古典の輪」が拡がっていったらとてもうれしいです。
 それでは、数々の悩みの扉を開いていきましょう。
                             菱岡憲司

『その悩み、古典が解決します。』はじめに

日本の古典というのは、日本人に向けてカスタマイズされた膨大なデータベースだと思います(もちろんそれは外国の人が利用できない、ということではありません)。データベースっていうのは、適切なアクセスの方法を知っていたら、ものすごく役に立つものです。とくに江戸時代の作品は、内容も種類も多岐にわたりますから、いってみれば世間知の塊みたいなものです。これを使わないのはもったいない!

ですので、こんなふうに役に立ちますよ、とQ&A形式で実践的に示しつつ、一方で江戸時代およびその古典の紹介を試みたのが、本書というわけです。

本書では、各項目末に原文を載せつつも、基本的に本文中では大意(現代語訳)を引用しましたので、古文を読むのはちょっと、という人も抵抗なく読めるのではないか、と思います。

ここで、なるほど現代語訳で済むなら古典教育なんていらないじゃないか、と思うのは早計でして、いまある江戸時代以前の文献の大半は、現代語訳どころか、翻刻(「くずし字」を読めるテキストに変えること)さえされていないのです。

データベースは、みずからアクセスできてはじめて役に立ちます。本書で示したのはあくまで利用の一例ですから、日本の古典という膨大なデータベースを自分用にカスタマイズして活用するためには、現代語訳どころか翻刻さえされていない文献を、自分で読みとく力が必要になるわけです。だから原文(古文漢文)を自分で読む力を養うための古典教育は必要なのですね。そしてできれば、「くずし字」を読む力も。

と、むずかしいことを考えなくても、まずは本書をたのしんでいただければ幸いです。そしておもしろかったら、ぜひ、自分のための古典を見つけください。きっと見つかるはずです。

目次

本書の目次は、以下のとおりです。

はじめに

1:たったひとつの選択肢が世界を変える――井原西鶴『西鶴諸国ばなし』
2:私たちは失敗できる権利を持っている――上田秋成『雨月物語』
3:あてのない旅が与えてくれるもの――勝小吉『夢酔独言』
4:「すごい」ということがわかることはすごいこと――後水尾天皇と「禁中幷公家諸法度」
5:大事なのは雑念を消すことではなく、手がかりを手放さないこと――本居宣長『排蘆小船』
6:ネコが説く無の境地――佚斎樗山『田舎荘子』
7:燃せばわかる、燃せば変わる?――橘南谿『西遊記』
8:江戸時代のロビンソン・クルーソーが教えること――『無人島談話』
9:自分のからだで試してみたら――人見必大『本朝食鑑』
10:言葉以外に思いを伝える方法――井原西鶴『好色五人女』
11:無知は純情を殺す――『恨の介』
12:本気に対しては本気で――近松門左衛門『心中天網島』
13:からだで伝える愛は、痛い――『誹風柳多留』
14:精気を保ちつつ情を遂げる方法としてのスキンシップ――貝原益軒『養生訓』
15:○○らしさを超えて生きる――曲亭馬琴『兎園小説余録』
16:江戸のシスターフッドたち――曲亭馬琴『傾城水滸伝』、小津久足『ぬさぶくろ日記』
17:一度死んだら、生きかえってはいけない――浅井了意『伽婢子』
18:作者の意図を超えたところに価値がある――向井去来『去来抄』
19:「オリジナルはダサい」のが古典の世界だった――大田南畝『狂歌百人一首』
20:新しい価値観を認めさせる方法――文化の雅俗観
21:感動を伝える原理としての「もののあわれ」――本居宣長『紫文要領』
22:他人の葬式を見に行って泣いていた人が、家族の危篤をネタにして笑うまで――江島其磧『世間娘気質』
23:当たり前のことを言っただけで感心される方法――伴蒿蹊『近世畸人伝』
24:使う言葉がその人の心となる――契沖
25:面接の達人――坂田藤十郎、三世八文字自笑(編)『役者論語』
26:備えあれば……より備えが欲しくなる!――井伊直弼と埋木舎
27:騙される、裏切られることを含んで「信じる」――貝原益軒『東路記』、伴蒿蹊『近世畸人伝』
28:「何かあったら俺が責任を取る」はどう作るか――三世並木五瓶「勧進帳」
29:なくても困るし、あっても気になるもの――唐来参和『莫切自根金生木』
30:死ぬまでは人生が続く――曲亭馬琴『南総里見八犬伝』

あとがき

『その悩み、古典が解決します。』目次

帯の推薦コメント

帯の推薦コメントを頂戴するのため、ロバート キャンベル先生にはいち早くお目通しいただいたのですが、折しも学会でお目にかかったとき、「けったいな本ができましたね」とお声がけいただきました。「けったいな本」とは、ありそうでなかった本書の性格を的確に示してくださったな、ととてもうれしく思ってます。

なにしろ私は、「今古和漢雅俗もみな一致」を標榜し、「鵺学問もっともよし、乞食袋のごとく学問をせよ」と説いて雑学庵とも名乗った小津久足を研究しており、そうした研究の成果を一般の方々に届くかたちで還元したい(これも現代における雅俗一致の実践!)と常々思っておりますので、「けったいな」とは、「鵺学問」や「雑学」に通じる最高の褒め言葉に感じられたわけです。

さて、読書猿さんとキャンベル先生がお寄せくださった、すばらしくもありがたい帯の推薦コメントは、以下のとおりです。

読書猿
「こんな本が欲しかった。というか、自分が書きたかった」

ロバート キャンベル
「陰キャも奥手も三日坊主も治す鍵が「遠くの古典」にあったのかも!」

読書猿さんは、「とてもすごい本の初校をお預かりしてます。/推薦コメントを担当するためです。/すごすぎて30文字じゃ足りないよ。/こんな本が欲しかった。というか、自分が書きたかった。」「ゴリゴリの人文書であると同時に/バリバリの実用書です。/しかも、くやしいくらい面白い。」のように、これ自体がキャッチコピーともいえる力強い言葉で、折に触れてXでご紹介いただいてます。

本当にありがとうございます!

30の悩み

本書はQ&A形式で30項目あるのですが、そのQの部分を、これまた版元から許可を得て、紹介します(これから発刊まで、日々更新していきます)

1:たったひとつの選択肢が世界を変える――井原西鶴『西鶴諸国ばなし』

Q1 「身分違いの恋」に落ちてしまいました。相手は私にとっては憧れの存在で、とても振り向いてくれないと思っていたのに、奇跡的に付き合うようになりました。でも、まわりから「なんでお前が」という視線を感じます。なにより私自身、私なんかでいいんだろうか、という思いが頭から離れず、たえず不安に苛まれてます。どうしたらよいでしょうか。

2:私たちは失敗できる権利を持っている――上田秋成『雨月物語』

Q2 レールを敷かれたような人生に退屈を覚えます。親の勧めるまま中学受験をして、中高一貫校に入学しました。ふつうに過ごしていたら、系列の大学にも入れると思います。ただ、すでに先の見える人生がつまらなく感じてしまいます。どうしたらいいでしょうか。

3:あてのない旅が与えてくれるもの――勝小吉『夢酔独言』

Q3 小さいころから落ち着きがなく、授業中じっとしていられません。家にいることが苦痛で、とにかく外に出たくなります。親は自営業を継いでほしいようですが、とてもつとまりそうにありません。将来、どうしたらいいのでしょうか。

4:「すごい」ということがわかることはすごいこと――後水尾天皇と「禁中幷公家諸法度」

Q4 いろいろとやりたいことがあって困ります。なにかをしていると、あれも面白そうだ、これも面白そうだ、と興味が広がって、ついついそちらに惹かれてしまいます。こんなことをしていたら、なにも身につかないでしょうから、ほんとうはなにかひとつをやり遂げるのがいいのでしょうが、どうしたらいいでしょうか。

5:大事なのは雑念を消すことではなく、手がかりを手放さないこと――本居宣長『排蘆小船』

Q5 とにかく集中力がありません。なにかをはじめると、五分もしないうちに別のことが気になり、気になったことをスマホで検索したりしていると、結局、やるべきことが終わらない、ということを延々くり返してしまいます。

6:ネコが説く無の境地――佚斎樗山『田舎荘子』

Q6 オーラがある人っていますよね。どうしたらオーラを出せますか。

7:燃せばわかる、燃せば変わる?――橘南谿『西遊記』

Q7 陰キャです。どうしたら陽キャになれるでしょうか。

8:江戸時代のロビンソン・クルーソーが教えること――『無人島談話』

Q8 偏食です。そもそも食べることにあまり興味がないのですが、食べないと死んでしまいますので、なにかを口にはしています。でも面倒なので、ついつい同じものばかりを食べてしまいます。死ななきゃいいと思うのですが、やっぱりまずいでしょうか。

9:自分のからだで試してみたら――人見必大『本朝食鑑』

Q9 昔から鶏肉が大好きです。あるとき、ふと、ニワトリ以外の鳥は、どんな味がするんだろう、と疑問に思いました。それも、カモとかアヒルとかじゃなく、カラスなんかです。カラスが飛んでいくのを見ては悶々としています。食べられるんでしょうか?


(以下、毎日更新予定)

ぜひ多くの方にお目通しいただけますよう、願っております。

もっと江戸時代のことが知りたくなったら

もっと本格的に、江戸時代とその文事のことを知りたくなったら、つづけてぜひ拙著『大才子 小津久足』(中公選書、第45回サントリー学芸賞「芸術・文学部門」受賞)も手にとっていただけますと幸いです。

また、こちらは論文集ですのでちょっと専門的な部分もあると思いますが、一般の方にも読めるように、と気を配っておりますので、拙著『小津久足の文事』(ぺりかん社)も興味のある方はぜひ。

余談

じつは、本書を書くに際し、強烈に意識していた本が2冊あります。それは、納富信留『対話の技法』(笠間書院)國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日文庫)です。どちらも、バリバリの第一線の学者が、一般に向けてやさしく、それでいて研究のエッセンシャルな部分をきちんと残しつつ応用して、一般書として研究成果を社会に還元しています。そしてお二方とも、哲学をご専門とされています。

哲学というのは、まるで浮き世離れした虚学のように考えられることが多いけれども、突き詰めた思考・論理というのは、こうして実学とも成り得るんだな、と感動すらおぼえたものです。

日本の古典文学だって、これができるはず。役に立つ/立たないの議論に乗らない、というのはひとつの見識かも知れないけれど、古典が役に立つことを、研究者自身が本気で考えて、その魅力と効用を世間一般に伝えていくというのも、大切なことなんじゃないかな、と思って、冒頭のXのつぶやきにいたったわけです。

純粋な知的好奇心の赴くまま、役に立つことなどを一切考えない研究をおこなう「雅」の側面も、徹底して役に立つことを考えてその効用を伝えていく「俗」の側面も、どちらも等しく大切なことで、どちらか一方に振り切れないといけない、という認識が、そもそもまちがっているのです。

そう、雅俗一致ですよ!

だからこそ本書は、(普通の)研究者が書かないけれど、研究者にしか書けない本、ということをずっと意識しておりました。それが功を奏していたら幸いです。

古典不要論への「人文しぐさ」

拙著にまつわるXの投稿に対して、読書猿さんが、下記のような引用リツイートをしてくださいました。

じつに含蓄深い洞察で、いろいろ考えさせられました。連続ツイートを引用すると、以下のとおりです。

以前の「人文しぐさ」では、
「役に立つか否かの議論に乗らない」「そうした二分法にメタ的な立場をとる」というのが優勢でした。
そういうスタンスも必要ではあるのですが、一方で大切なことを取り落としている、とずっと感じていました。

すなわち人文知は実践知の流れから生まれたということを。

人文知は、人と言葉を、突き詰めれば、自分以前にも悩み考えた人がいて、その成果や過程を書き残したという事実を、前提とします。

つまり人文知とは
私達は、自分ひとりで悩まなくても良い、
似た問題と格闘した先人の助けを借りて、ともに考えて良い
という希望です。

あなたの悩みは(あなたが知らないかもしれない)誰かが既に悩んでいる。そのうちの何人かはその成果や過程を書き残してさえいる。

ここに人があり、言葉があり、知恵があります。

近世のテクストあるいは文事(いい言葉です)の多くは、
私達の思考や嗜好を支える「地面」の一部であるのに、長らく遠ざけられ忘れられ顧みられなくなったもの、
そこに確かにあるのに無いことにされたものです。

書物は扉です。

私達が忘れていた、あるのに無いことにされた、人と言葉と知につなぐもの。

読書猿さんのツイート(2024/07/02)より

その思考に触発されて、私も引用・連続ツイートしました。

こちらも引用すると、以下のとおり。

 人文学、あるいはもっと狭く古典学の業界に身を置いていますので、古典(古典教育)は役に立つのか、と古典教育のあるべき姿を問いかけられたときに、古典研究者が「人文しぐさ」をしてしまう背景も、なんとなく想像がつきます(といいつつ、ちがったらすいません)。

 古典学は文献学的実証主義が基本ですので、こうではないか、となにかを言うためには、かならずその主張を裏づける用例が必要となります。つまり徹底した帰納主義です。これ自体はとても健全なことで、(用例は見つけてないけど)きっとこうであるに違いない、と演繹的にアプローチすると、こうであってほしい、こうあらねばならない、という主観によって文献なり過去なりを誤読(ひどいときには捏造)していまいますから、習い性として、こうあるべき、ではなく、どうあるのか、を正視しようとします。じつに健全です。

 ただ、こうあるべき、ということへの警戒感が骨身にしみてますから、(学問的良心として、用例にもとづいた過去の分析に専念して)それをあるべき未来に役立てよう、という実践的・応用的ないとなみには、おのずと自制的になります。よって、(古典教育は)こうあるべき、という話題についても、本音はさておき、公の立場で発言する必要が生じたら、それは我々の預かるところではない、しかしこんな魅力がありますよ、という論点ずらしの「人文しぐさ」をしてしまいがちなんだと思います(たぶん)。

 しかし、これはほんとうにご指摘のとおりなのですが、人文知は実践知であり、さらに換言するならば、用例の集積でもあるんですよね。普段、とんでもない用例をこともなげに見つけて論を展開している専門家集団ですから、古典という膨大なデータベースから、「役に立つ」用例なんて、その気になればなんぼでも見つけられるはずなんです。

 本書で私が試みたのは、あくまで私の狭い知見からのごくかぎられた実践例であって、学界が総力を挙げれば、人間の抱くあらゆる悩みは、(あくまで近似値かもしれませんが)ほとんどすべて、古典のなかに見出せるのではないかと思います。また、だからこそ古典を学ぶ意義があるわけです。

 たしかに「役に立つ」ことだけを求められても息苦しくて困りますけれど、しかし、じっさい「役に立つ」んですから、「役に立つ」ことを、他ならぬ古典のなかの用例にもとづいて、きちんと発信していくことも、一方で必要なんじゃないかな、と思ってます。

 古典、ひいては書物にかかわり、それを愛する我々は、もっと古典や書物の力を信じていいんじゃないかと思います。人文知に対するネガティブな意見に、ちょっとナイーブすぎますよね。議論から逃げたり、メタ的な立場をとって論点をずらしたりせずに、ほかならぬ書物(古典)の扉を開くことによって、堂々と答えていきたいですね。

菱岡のツイート(2024/07/03)より

こうしてあらためて引用してみると、私は田中道雄先生の姿勢(文学は人類とっての普遍的な価値燎原の火)につよい影響を受けているな、と感じます。とくに燎原の火における考察から、いまはもうすこし「役に立つ」ことも積極的に肯定して伝えていく必要がある、と立ち位置は変わりましたが、どちらも大事、という姿勢は変わりません。こういう大先輩がいらっしゃること、ほんとうにありがたいことです。

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