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久足も見た修学院離宮

詩仙堂界隈を見て歩き、せめて場所だけでも確認しようと思って修学院離宮に行くと、なんと当日申し込みでも見ることでき、しかもいままさに観覧ツアーがはじまろうというところ。もちろん、これ幸いと参加しました。

いやはや、圧巻です。京都にはすばらしい庭があまたありますが、後水尾天皇のお好みは格別ですね。

下離宮の庭園
寿月観(下離宮)
中離宮の庭園
楽只軒の客殿(中離宮)
隣雲亭より浴龍池をのぞむ(上離宮)
浴龍池(上離宮)

まさに別天地です。

下・中・上をつなぐ道もすばらしく、棚田を縫って歩きながら借景の叡山をのぞむのも格別でした。

比叡山をのぞむ

さて、さすがの久足も、離宮、すなわち行宮の前に行きこそすれ、なかに入ることができなかっただろう、と思いきや、なんとなかに入っているのです!

折しも「文政七年(一八二四)、将軍徳川家斉の援助で離宮は大修理され、同年九月二一日に光格上皇が御幸、文政一〇年からは家斉が太政大臣に任ぜられた御礼として年々の修学院御幸の費用を提出した」(『国史大事典』)という、その文政7年9月21日の光格上皇御幸に先立つこと2日、9月19日に久足は、ツテを頼って、人足姿に身をやつし、箒片手になかに入っているのですね。

(文政七年九月)十九日。朝とく二条わたりの人にいざなはれて修学院の行宮ををがみにものす。こは山はなといふ所のちかきあたり、修学院村といふ村の山にありて、やがて比叡山のふもとなり。そも/\この行宮は、後水尾天皇の代々の行宮の為にとてたておき給へりとなむ。かるがゆゑに霊元太上天皇は、享保といふとしのころたび/\御幸もありけるを、そのとしの十六年といふとしより、たえてその後は御幸もなく、こたびまではおよそ九十四年にもなりぬ。さればこたびのまうけにとて、年月もちりつもれる木々の葉をはきゝよめ、おひしげりたる草などをかりはらひ、あるは行宮のくちそこなはれたるをつくりかへなどせんためにとて、修理職より役民をおほくいれらるれば、伝をもとめてその役民のすがたになりて、箒をもちて修理職といふ印をおしたる札をこしにつけて、行宮の御門を入るなりけり。いとかしこけれどそこかしこ見めぐるに、行宮は二所にありて何とかやからめかしき名をつけられたり。山のたゝずまひおほどかに、紅葉いとおほくそめわたし、前には大きなる池ありて、山よりおつる滝のながれ入るさま、中島の松のけしき、こたびあたらしくつくられたる石ばしのさまなど、いとおもしろし。さばかり高き所ならねど、東より南まではものもさはらずよくみわたされて、都の家居どもの手にもとるばかりみゆるのみならず、よもの山々たゞこゝもとにみゆるさま、をり/\めでたき行宮のさま、絵にかくとも筆およぶまじうおもはれて、えもいはずよにすぐれたる所のさま也。げに後水尾天皇の代々の行宮のためにとさだめ給へりしは、うへなきことゝしのび奉らるゝもいとかしこし。

(『石走日記』文政七年〈一八二四〉九月十九日)

いやあ、久足、やるなぁ。

「山のたゝずまひおほどかに、紅葉いとおほくそめわたし、前には大きなる池ありて、山よりおつる滝のながれ入るさま、中島の松のけしき、こたびあたらしくつくられたる石ばしのさまなど、いとおもしろし」と記している滝と石橋も、ばっちりそのまま残っております。

雄滝
千歳橋

『石走日記』を書いた文政7年、久足はいまだ21歳。京都を描いた紀行文の初作です。

最初から久足は久足だったんだな、と思わざるを得ません。

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