詩仙堂界隈を見て歩き、せめて場所だけでも確認しようと思って修学院離宮に行くと、なんと当日申し込みでも見ることでき、しかもいままさに観覧ツアーがはじまろうというところ。もちろん、これ幸いと参加しました。
いやはや、圧巻です。京都にはすばらしい庭があまたありますが、後水尾天皇のお好みは格別ですね。
まさに別天地です。
下・中・上をつなぐ道もすばらしく、棚田を縫って歩きながら借景の叡山をのぞむのも格別でした。
さて、さすがの久足も、離宮、すなわち行宮の前に行きこそすれ、なかに入ることができなかっただろう、と思いきや、なんとなかに入っているのです!
折しも「文政七年(一八二四)、将軍徳川家斉の援助で離宮は大修理され、同年九月二一日に光格上皇が御幸、文政一〇年からは家斉が太政大臣に任ぜられた御礼として年々の修学院御幸の費用を提出した」(『国史大事典』)という、その文政7年9月21日の光格上皇御幸に先立つこと2日、9月19日に久足は、ツテを頼って、人足姿に身をやつし、箒片手になかに入っているのですね。
いやあ、久足、やるなぁ。
「山のたゝずまひおほどかに、紅葉いとおほくそめわたし、前には大きなる池ありて、山よりおつる滝のながれ入るさま、中島の松のけしき、こたびあたらしくつくられたる石ばしのさまなど、いとおもしろし」と記している滝と石橋も、ばっちりそのまま残っております。
『石走日記』を書いた文政7年、久足はいまだ21歳。京都を描いた紀行文の初作です。
最初から久足は久足だったんだな、と思わざるを得ません。