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京都サバティカルことはじめ

4月から半年間、京都にサバティカルで滞在します。

なぜ京都か。

それは、小津久足にとって京都とはなんだったのか、を探究するためです。久足は、じつに(全46作中)21作品もの紀行文で京都を訪れているのですね。

どうしてこれほど久足は京都を愛したのか。それを知るためには、紀行文をはじめ、久足著作の精読をすることはもちろん有効ですが、地理のことは現地に足を運ばなければわからない、と机上の学問を批判した久足ですから、それだけでは限界があります。これはもう、久足の訪れたところを、徹底してフィールドワークするしかありません。

というわけで、半年間、とにかく歩いて歩いて歩きまくろうと思ってます。

なにしろ半年なんてあっという間ですし、京都なんてあらゆる面で魅力にあふれた街ですから、あれもこれも、と目移りしていたら、すべてが消化不良で終わってしまうでしょう。優先順位は、とにかくフィールドワークです。

効率的に市内各地をめぐるには、自転車もよさそうなのですが、いやいや、久足を追体験するには、みずからの足で歩くのが一番。それに経験上、自転車では見過ごしてしまうところも多く、ましてやバスや鉄道などでは、見える風景が変わってしまいます。ですから可能なかぎり、久足同様に歩こうと思います(まあ、久足も折に触れて駕籠も使いますから、こちらもたまにバス・地下鉄は使いますが)。

また、久足は「観光客」でしたから、有名・無名ふくめ、結果的に観光地めぐりも多くなるでしょうが、けっこうこれ、大事なんですよね。というのは、鷲田清一『京都の平熱』(講談社学術文庫)でいみじくも書かれているように、京都に生まれ育った人は、ベタな観光地なんて行ったことない、という人も多いからです。

それは我が身を鑑みてもうなずけます。なにしろ働くことが優先されるうえ、住んでいるところの観光地は、いつでも行ける、という思いもあって、わざわざ訪れることもなく、結果的に、そのまま転居してしまうこともしばしば。だから、地元の人で、かつ観光地に興味がある人にはひっくりかえっても勝てませんが、ただ住んでいるだけの人よりは、観光客の方が、じつは詳しいというのは、珍しくないのですね。

これ、じつは久足紀行文についても言えまして、あの詳細な筆致で見たこと思ったことを書く久足の記述というのは、近世後期の京都を、見事に活写しているのです。しかもそれが、定点観測のように年をまたいで、21回分あるわけですよ。これはたいへんなことです。

久足の紀行文を手に、現在の京都を歩いたらなにが見えるのか、いまからたのしみで仕方ありません。

とにかく、なにはさておき、土地勘を手に入れて帰ろうと思います。

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