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マラソンはなかなか走れない【2017年11月17日ブログ記事再掲】

マラソンはなかなか走れない――というのはダブル・ミーニングでして、一つは、それなりのトレーニングをつまないと、42.195キロは走れない、ということ。これは個人差があり、かつ練習の密度とどれくらい時間がとれるかにもよると思いますけど、基本的には、フルマラソンを走ろう、と思い立って、最低3ヶ月は必要かと。逆にいえば、3ヶ月あれば走ることも不可能ではない、ともいえます。

ぼくも、たった一度ではありますが、マラソンを完走した経験からいいますと、とにかく時間がかかろうが、ところどころ歩こうが、とりあえず制限時間内にゴールする、というだけなら、ふだん走っている人ならば、3ヶ月も必要なく、1ヶ月もあればいけるのではないか、という気もします。

しかし、歩かず、それなりの目標タイムでゴールする、というつもりで走るのならば、ふだん走っている人でも、レースの1ヶ月まえに疲労のピークを持ってくるなどの調整が必要ですから、やっぱり3ヶ月はほしいところ。つまり、いずれにしても3ヶ月、ということになります。

さて、マラソンはなかなか走れない、のもう一つの意味なのですが、それは、そもそもレースに出られない、のですね。とにかく、抽選で外れてしまうのです。まさかこんなに出走することがむずかしいとは知りませんでした。そりゃあ、東京マラソンとかは、世界中からエントリーしてきますから当たりにくいだろうとは感じておりましたが、そうでなくても、シティ・マラソンの類いが、まったく当たらないのです。

今シーズン、よし、この日程ならいけるから、申し込むぞ、とエントリーしてみますと。

福岡マラソン→ハズレ

北九州マラソン→ハズレ

いやあ、当たらない。しかも当否がわかるまでけっこう時間がかかりますから、もしも当たったときのことを考えて、ほかのマラソンにエントリーもしづらい。なかには、片っ端から申し込みまくる人もいるとききますが、仮にぜんぶ当たって辞退するのもなんですしねぇ。

こうなると、例の3ヶ月しばりがきついんですね。この日がレース、というところから逆算して練習しますから、レース日が決まらないと、現状維持の練習しかできないし、そもそも、きつい練習をするモチベーションがわかない。

そうなると、シティ・マラソンは避けて、田舎すぎて不便だったり、コースが悪かったりと、さまざまな理由で「不人気な」マラソンをねらうことになります。

今シーズンは、秋にひとつ、春にひとつ、ぐらいのつもりでいたので、秋は、申し込めば走れる(=人気がない)レースに申し込み、その日にあわせて、暑い夏も信じられないぐらい汗をかきながら、走っておりました(秋のレースだと、走り込みと疲労のピークを1ヶ月前、すなわち夏に持ってこないといけないので、不人気なのですね)。

とはいえ、なんとか調整して、よし、自己ベストを目指すぞ、と意気込んでいたところ。レース2週間前に、大会事務局より連絡がある。

――衆院選につき、マラソン大会は中止・・・・・・。

あの夏の走り込みを返せ! というか、これは去年と同じパターンだな。もう、秋のレースにエントリーするのはやめようかな。

というわけで、だいぶ拍子抜けしてしまったのですが、春の某レースには無事エントリーできましたので、年明けぐらいから調整しようと、いまは現状維持ペースで、週末を中心に走っております。

ところで、先日、新聞にランニングに関する記事があったため、興味津々で読むと、けっこう衝撃の内容が書いておりました。

なんでも、いまはランニング・フォームの常識が変わっているそうで、以下のようなスタイルが推奨されているという。

×かかとで着地 → ○親指の付け根を中心に足裏全体で着地
×足を前に出す → ○足は体より前に出さず、真下に下ろす

ええ~! こんな「基本的」な「常識」が変わっているのですか? ぼくは長距離専門ではなかったものの、陸上部に入った最初に、かかとで着地して、なるべく足を前に出す、というフォームを仕込まれたものですが、あれはウソだったのか! ひどい話だ。

たしかに、ぼくらの頃は練習中は水を飲むな、というのが「常識」でしたから(汗が出てバテやすくなる、という理屈でした。これもウソだったんだから、ひどい話です)、何事もぜったいはないとはいえますけど、ちょっと衝撃です。

さっそく、その週末に、足裏着地して、足を前に出さずに真下に下ろすフォームを試してみる。

うん。何しろ、これまでの走ってきたフォームの根本を変えるので、かなりぎこちない。極端にいうと、いままではいかにソロソロ走るか、というのが至上命題だったわけで、かかとで着地しつつも、その衝撃を足裏の接地面積の移動で分散しつつ、親指の付け根で蹴る、ということに最大限の気を配り、体の上下動もなるべく抑えて、スーッと水平移動しているイメージでした。

それが、この新フォームでは、着地の衝撃を散らさずに、足をバネに見立てて反発力を生じさせ、ゴムボールが弾みつつ転がっていくように、ピョンピョンと進んでいくイメージです。

とりあえず、いつもの13キロコースを走ったのですが、なんかしっくりこないなぁ、というのが正直な感想で、ふだん使っていない筋肉を使ったせいでしょう、ふくらはぎやらの部分的なつかれが甚だしい。翌日も、同じく走ったものの、やはり違和感は拭いきれず。

そんな半信半疑の状態だったのですが、疲労も回復した翌週、驚きの結果が生じました。

まずコースの前半は、かかと着地のいままでのフォームにもどして走ったところ、なんか調子が出ない。エネルギーのロスがはげしい気がする。そこで、折り返し地点を過ぎ、後半を新フォームで走ると、じつに快適に走れるのですね。前週は慣れないフォームで筋肉に無理がいったようですが、その疲れがとれ、筋肉の使い方もわかると、あきらかに、少ない力で、速く前に進むことができるのです。

まだこのフォームで30キロ・40キロという長距離は試していないのですが、もはやぼくのなかで、この新「常識」の有効性はゆるぎないものとなっております。

――なんなんだろうな、と思います。これまで(フルマラソンを走る前の、ジョギングだけの期間も含めると)かなり長い間、ずっと疑いもなく旧「常識」で走り続けてきたのに、チラっと新聞記事を見ただけで、それも、つきつめると(足裏着地しようとすると、必然的に足を下に下ろすことになるため)「かかとじゃなくて足裏全体で着地すべし」というたった一言だけで、いままで以上の結果が出るのだから。

知識って、ほんとうに恐ろしい。だって、これから新「常識」で練習をはじめる人は、旧「常識」の無駄をすべて排除した状態から、経験を積めるんですから(なんでも、かかと着地フォームが怪我の原因となることも多いらしいのですけど、そもそもいままでは「怪我しないためにかかとから着地するように」と習っていたんですから、旧「常識」のせいで故障した人は、内心忸怩たるものがあるでしょう)。

でも、一方で、ぼくがこの「一言」にめぐり会えたのも、走り続けてきたからだ、ともいえます。そして「一言」によって変わることができるのも、やはり走り続けてきたからで、その意味では、やはりこれまでの蓄積は、まったく無駄ではなかったことになります。そもそも走らない人は、こんな「一言」に気をとめもしないし、いまから走りはじめる人は、自分の走りが劇的に変わることを実感することはできない。

ああ、ぼくは、「一言」を求めて生きているのかも知れないな、と思います。これまで「常識」を覆し、新たな世界を切りひらく「一言」を。

本を読む。たくさん読む。なかにはアレ? と思う本もある。いや、けっこうある。それでも読む。新たな世界を見せてくれる「一冊」を求めて。その「一冊」はぼくの「常識」を変え、これまでの蓄積が無駄であったような気が一瞬する。しかし、無駄ではなかったとすぐに気づく。「一冊」にめぐり会えたのも、読み続けてきたからで、「一冊」で目が開かれるのも、開かれるだけの蓄積があったから。つまり無駄どころか、この「一冊」によって、すべてが無駄ではなくなる。

研究を続けるのも、やはり同じ。研究こそ、傍目には無駄の連続だけれども、それでも「一言」が見つかれば、すべてが開け、すべてが無駄ではなくなる。

しかし、仮に「一言」や「一冊」にめぐり会わなくても、めぐり会える可能性がある営みを続けていることが、それだけですでに、なかなかにハッピーなことだな、とも思います。

あれ、マラソンの話じゃなかったけ。

【追記】
コロナ禍以降、マラソン大会もだいぶエントリーしやすくなりましたね。3年間のマラソンチャレンジは、無事サブフォー達成で終わりましたが、いまでもまた走りたくなります。ただ、もうあの追い込み練習やレースにあわせたコンディショニングをする気力・体力、また時間がないかな。走るのはたのしいんですが、経験上、はっきりいってジョギングは身体にいいけれど、マラソン(とそれに向けた練習)は身体に悪い! というわけで、ぼちぼちジョギングすることだけは、どこかの時点で再開しようと思ってます。

http://hishioka.seesaa.net/article/a42186147.html

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