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京都、大原、三千院抜き、その1

小津久足は二度、大原を訪れています。一度目は、文政十二年の『月波日記』の旅で、秋の十月四日に訪問。二度目は、天保十三年の『青葉日記』の旅で、こちらは春の四月二十六日です。

大原といえば、「きょうと~おおはら~さんぜんいん」というメロディーが勝手に脳内に再生されてしまいますが(これもどの世代までだろう)、江戸時代、三千院は「梶井門跡」という門跡寺院で、「大原の政所(まんどころ)」と称されていましたから、久足は散策することができません。

というわけで、久足が遊歴したのは、三千院(この名称も明治時代から)抜きの大原です。

先に行程を書いてしまうと、『月波日記』では、

(北岩倉)~(静原)~江文神社~寂光院~勝林院~後鳥羽院陵~(八瀬)

と、行きは北岩倉、帰りは八瀬のルートで、大原では江文神社・寂光院・勝林院・後鳥羽院陵をめぐっています。

『青葉日記』になると、二度目ということもあり、さらに精力的に歩き回ります。

(八瀬)~寂光院~古知谷(阿弥陀寺)~勝林院~融通寺~勝手神社~薬師堂(来迎院)~音無しの滝~後鳥羽院陵~惟喬親王墓~(八瀬)

Googleマップより

三条橋詰の目貫屋を出て、八瀬を経て大原をめぐり、そしてまた歩いて帰るのだから、たいへんなものです。

最初はそれも真似しようかと思ったのですが、どうも八瀬から大原のルートの一部はほとんど自動車専用道のようになっているらしいので、ここは大人しく、バスで行きました。

さて、行った先の多い『青葉日記』のルートに即しつつ、追体験してみましょう。

まず江文神社です。『好色一代男』の「大原雑魚寝」で有名なところですね。

「まことに今宵は大原の里のざこ寝とて、庄屋の内儀娘、又下女下人にかぎらず老若のわかちもなく、神前の拝殿に所ならひとてみだりがはしくうちふして、一夜は何事をもゆるすとかや。いざ是より」

「好色一代男」『日本古典文学大系 西鶴集上』
江文神社

『月波日記』では、「いと大社にて三座ませり。こは『式』に御名は見えねど、ふかくゆゑよしありぬべく見えて、よの常の御社とはおもはれずなん」とちゃんと訪れているのですが、『青葉日記』ではルート的に寄り道になるせいか、「大原の入口はせ出しといふ村にいたり又しばしゆけば江文明神の鳥居たてり。その鳥居を入て井出村といふにいたれば、村中に秋のさまもおもひやらるゝ楓あり」と、どうやら鳥居を拝しただけのようです。

いまでも同じところに立っているのか知りませんが、いちおう、それらしい鳥居があります。

江文神社の鳥居

久足はまず寂光院に向かいます。ここは再訪。よほど気にいったようです。

寂光院

 野村といふをすぎ草生村といふにいたり、しばしおくにいれば左のかたに寂光寺あり。このおくには村もなきよしにて、たゞにゆくは山に入る道なりといへど、おもひの外せばからぬに、寂光院は左のかたにおくまりたれば、みちのかたはらに「寂光院」とゑりたる石標のたてるなかりせばまぎれやすかりぬべき寺也。
 石標のほとりより石階のひくきを半丁ばかりのぼりて寺に入るに、さゝやかなる寺なれど、ものさびて所のさまいとをかしく、今も「ゆゑひよしあるところ」【頭注:『平家物語』灌頂巻。「ユエヒヨシアルトコロナリ」】といはまほしき寺也。はやくまうでし後も、再遊せばや、とおもひしことたびたびなりしかど、みちのとほきによりてなほざりにすぐせしも、こたびは卯月の廿日あまりにて、かの小原御幸の時にひとしければ、その御あとしたはしくふりはへてたづね来たる也。まへには翠黛山のわか葉いとなつかしく、郭公のしばなくもそのかみおもひいでらるゝかずをそへたり。

『青葉日記』天保十三年四月二六日

「はやくまうでし後も、再遊せばや、とおもひしことたびたびなりしかど」と、再訪の思いをずっと抱いていたようですね。

「庭にはみぎはの桜といふが青葉しげりてちひさき池もあり」といいますが、これでしょうか。

寂光院の池

まあ、代替わりしてますかね。

ちなみに、寂光院自体は、『月波日記』でも『青葉日記』でも、益軒の「繁華を愛さず緑陰を愛し、閑淡にふける人は、此ところに来りみるべし」とのフレーズを引用して、まったくそのとおりだ、感銘を受けており、「おのがさがとしてさはがしきをこのまざれば、この寂光院のさまいとこゝろにかなひてすまゝほしくおぼゆるばかりになむ」(『月波日記』)などと言ってます。

ただ、本堂にある新しい仏像については、ちょっといかがなものかと感じております。

 本堂のうちに入て本尊を拝するに、地蔵ぼさちの御像にていとふるし。ほとりにさゝやかなるみかたあまたあるもともに古きを、中にあたらしきがまじれるは願主ありて再興せるなり、とて古色をうしなへり。「かゝることすれば功徳ふかき」など尼がほこりかにいへど、いと心づきなきことにて、なかなかたふとくはみえず。はてはては本尊もかくやなさん、とうしろめたし。

『青葉日記』天保十三年四月二六日

今回、拝観した本堂内の仏像もピカピカで、古色を失っておりました。なんでも平成12年に心ないものの放火があり、久足の見た建礼門院像阿波内侍像は焼けてしまったそうです。ああ。

そして『青葉日記』の旅で久足は、阿波内侍の墓も訪ねています。

灌頂巻にみえたる大納言佐局、かの阿波内侍などの墓をとへば、「そは翠黛山のふもとにあり」といふに、をしらへれたるごとく門を出て前なる谷川のほとりにいで、そこにかゝれたるはしはわたらず、すこしく川上にのぼりて、おなじさましたるはしのかゝれるをわたり、山を半丁ばかりのぼり、ほそきちまたを左のかたにすこしいれば、黒きいかきしたる中に石塔四基ものふりてたてり。
  あとふりぬあはれ翠のまゆずみはいつの昔の山の下くさ

『青葉日記』天保十三年四月二六日

たしかに気をつけないと、つい行き過ぎてしまいそうな場所にありますが、ちゃんと現存しておりました。

久足は平曲を習っていましたので、『平家物語』ゆかりの古跡は、とりわけ思入れが深そうです。

さて寂光院を離れてすこし行きますと、朧の清水というものがあります。

朧の清水

 かくてこの草生村をはなれてすこしゆけば、「朧清水」といふ碑を道のかたはらにたてゝ、さゝやかなる清水あれど、さばかり音にきこえたる清水とも見えず、いとうけがたし。
  大原やのこるなごりもさだかにはあらぬおぼろの清水なりけり

『月波日記』文政十二年十月四日

「いとうけがたし」としっかり疑ってますね。

つづけて向かった先が渋い。三千院方面ではなく、そのまま川に沿う街道を遡るかたちで、古知谷の阿弥陀寺を目指すのですね。

 山の根づたひのみちをすぎ、ひろき道といづるは若狭街道なり。石折村といふをすぎ、古知谷村にいたりて古知谷にまうづ。入口にはことごとしき石標たてり。寂光院よりこゝまで廿五丁といへどゝほし。
 その石標より坂を六丁のぼるほど、杉むらおひしげりてものさびし。そのうへに寺(*阿弥陀寺)はありて、弾誓上人の廟といふに有髪の像あり。澄禅上人の像もあり。この人々の行せし跡の窟へ三丁、松へ一丁ありとぞ。

『青葉日記』天保十三年四月二六日

「杉むらおひしげりてものさびし」なんて記述がありますが、じっさい人気の大原といっても、ここまで訪ねてくる人はほとんどおらず、なんとも心細くなる道です。

阿弥陀寺への道

不安になりつつ道を登っていくと、突如開けて、石垣のうえにある阿弥陀寺が姿を現します。

阿弥陀寺

ここはとにかく、楓の青葉がうつくしい! これは秋はさぞかしと思いますが、「青紅葉」も見事です。

しかしその人気(ひとけ)のなさも相俟って秘められた空中庭園の趣です。

阿弥陀寺の庭
古知谷の阿弥陀寺

阿弥陀寺には、入定した(生きながらミイラになった)弾誓上人が行をおこなった石窟が残っています。

じっさい見ると、暗くて湿っぽいこんなところで、とちょっとゾッとしますし、遺留品(とはいわないか)の鉄杖や鉄靴、衣服などもあって、なんともはや。

おかげで、「二世の縁」(『春雨物語』)→『騎士団長殺し』という妙な連想が働いて、オーディブルでの高橋一生の名朗読がまた聞きたくなってしまいました。

(帰ってからまた聞き始めました。それにしても高橋一生って、極めつきに上手いですね。『騎士団長殺し』自体は、読んだときはいかがと思う部分も少なくなかったのですけれど、高橋一生の朗読によって、その真価を教わった――というより、高橋一生を通してはじめてその魅力が「発明」された、と感じております)

久足がわざわざこの寺に足を運んだのは、曽祖母が行ったことがあったから、だそうで。しかし、前回の大原訪問のときは「やまと魂あぢきなくみがきしほど」だったのでパスしましたが、今回は「そのなごりもなく、かたくな心をやめたれば」と、曽祖母を慕ってやってきたのですね。

さてこの寺にはわが曽祖母のふりはへてまうでられしことありしよし、かねてきゝしかども、はやく寂光院にまうでしをりは、やまと魂あぢきなくみがきしほどにて、まうでんとはかりにもおもひかけざりしを、今はそのなごりもなく、かたくな心をやめたれば、曽祖母のあとなつかしくてたづねたるなり。心はうつりかはるもの、とわれながらをかしきかたもあり。

『青葉日記』天保十三年四月二六日

シェイクスピアも散々描くように、「心はうつりかはるもの」ですね。

(つづく)


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