彦根に泊まったからには、久足が信仰する多賀大社に参らなければ。
命拾いした久足は、久足は多賀大社の別当弟子分として、十歳まで髪を置かせずに育てられたそうな。
彦根からは味のある近江鉄道に乗って赴きました。以前、Aさんに連れてきていただいたので、訪れるのは二度目です。
さあ、そこからまた近江鉄道に乗って五箇荘へ。
はじめて来ましたが、落ち着いたいい町並みですね。
ここにある外村繁(とのむら・しげる)邸も訪問。彼の小説を読んでみたいと思いつつ、いま絶版で手に入らないので、まだその機会は得られず。こんど古本で読んでみよう。
ところで今日の目当ては、地獄越です。
写真の中央、へこんでいるところがそうですね。ちなみに右の山のピークには、雨宮龍神社があります。
地獄越とは物騒な名前ですが、ここを久足が通っているのですね。
まず山麓の石馬寺(いしばじ)へ。
ここでは「雷除の守」をもらってます。
お守りひとつもらうのにも、なんだか言い訳がましいのが笑えます。
さて、この寺のご住職に、地獄越にはどのようにいけばよいか聞くと、ちょうどこの寺からつづく石段をそのまま登って、雨宮龍神社にいけば、そこから尾根伝いでいけるとのこと。
こちらも飲み水を用意していましたが、心配して、これを持っていくといいですよ、とアクエリアスを一本くださいました。ありがとうございます!
逆に、どんなハードな道なんだ、と心配にもなりますが、とにかく登るのみ。
いや、往生しました。普通、登山道といえばつづら折りにして勾配を緩めるものですが、この道はとにかくまっすぐ。ひたすら頂上を目指してまっすぐ石段が伸びているのです。これはきつい。
こんなにまっすぐなのは、なにか宗教的な意味があるんでしょうか。あるんでしょうね。ともあれ、高さの割にキツい登山です。
頂上にあるのがこの雨宮龍神社です。
木が茂っておりますが、隙間から琵琶湖も望めます。
久足は地獄越を越えたあと、尾根伝いにこの雨宮龍神社に来ています。
おいおい、ぼくは地元の案内人が「寺よりたゞにのぼるみちありて、かけぬけとなれど、その坂はいとけはしければ、をしへまゐらせざりしかど」という道を登ってきたのか。そりゃきついはずだ。
木が成長して、眺望が久足のころよりよくないのは残念です。
さて、尾根伝いに下るとほどなく地獄越です。
ここも木が茂っていて、いまではなんてことのない場所です。
さて、では久足の跡を追って琵琶湖側の須田に抜けるか、というとき、道案内の看板を見つつ、はっと思い当たりました。
久足の跡をたどって地獄越にやってきたけれど、久足とちがうルートでやってきたのだから、これは跡を追ったことにはならないじゃないか、と。
そもそも電車やバスを極力使わずに歩いているのも、久足を追体験するためであって、要するに点ではなく、線や面を意識してのこと。それが、地獄越という点(および地獄越から雨宮龍神社をつなぐ線)に立つことはできたけれど、本来は、久足のたどったルートじゃないと追体験とはいえないじゃないか。
ええ、下りましたよ。同じルートをまた登るとわかっていながら。人生とはこういう無駄の連続なのです。それを避けては、得るものも得られないのです。
こちらはつづら折りで、さほど勾配も急ではありません。そして下りきったところで待ち受けていたのは、これ。
そっか、いまはこうやって柵があるので、そもそもこのルートからは入れなかったのか。ということは、この行程も無駄ではなかったわけです。
さて、また同じ道を登りますか。今度こそ、久足の追体験です。
案内人の言葉ではありませんが、雨宮龍神社への道を経験したあとでは、ゆるやかで「極楽越」に感じます。
こうしてふたたび地獄越にもどりました。ここでの久足の述懐が身にしみます。
まったく「すべてのことも苦心をせずしては佳境にいたりがたき」ですね。まあ、いまの地獄越の景色はよくないのですが。
さて、ようやく峠を下って須田に抜けます。
ここで、久足が訝しんでいる「五十鈴大明神」とは、じっさいは五十余州神社です。
こういうちょっとしたまちがいも含めて、久足が実地を踏んでいることが確認できてうれしいですね。
さて、ここまできたからには、帰りがけの駄賃、安土城址も登ってしまいましょう。
いや、連続登山はさすがにきついですね。
またここの石段は間隔が広くて、きつい。
例の信長が既存の石仏を石段に用いたところもあります。罰当たりですねぇ。
ところで久足は、別の紀行文でこの安土城址(摠見寺)にもちゃんと登っております。
いまはルートが決まっているので、天守閣址→信長廟→織田家代々の墓→三重塔という、久足と逆順でめぐることになります。
あとは安土駅まで歩いて、JRに乗って帰路につきました。やれやれ、さすがにつかれました。