円通寺の住僧
正伝寺の庭には感動しましたが、借景として比叡山をとりいれるというのは、それが可能な場所であれば、庭造りのポイントなんだな、と知りました。
ちなみに久足は正伝寺にも訪れておりまして、簡単ながら、以下のように記しています。
簡単だなぁ(名前まちがえているし)。他の紀行文にもないか、確認してみよう。
西加茂では、霊源寺に筆を割いています。
久足の跡を追って京都を歩くと、皇室敬慕という基準が歴然としてあるな、と実感します。とくに後水尾天皇や光格天皇など、文事に熱心だった天皇への敬慕はことさらです。
さて、比叡山を借景としてとりいれた庭として、円通寺があります。『班鳩日記』(久足は「斑鳩」ではなく、いつも班鳩と書きます)を記した天保七年(一八三六)の旅で、久足は円通寺を訪れました。
下鴨神社から深泥池(みぞろがいけ)を経て、幡枝村の円通寺へ。
現在の円通寺は、観光客でごった返す京都にあって、じつに静かなものでした。赴いたときは、ぼく以外誰もおらず、また前にも後にも人が来る気配すらありません。というわけで、比叡山の借景の庭を、のんびり独り占めです。
久足が行ったときも、「霊元帝のこゝにみゆきありしさまは、宸記にくはしくしるし給へることなどおもいで奉られて、いとむかしゆかしきあたりなり。さるを都人にもしる人すくなきにや、山みち苔なめらかにして、人跡まれなるさまいちぢるく、いらかものさびしくふりにたり」といいますから、そのころから、この閑寂はずっと変わらないのでしょうか。
おもしろいのは、久足が訪れた際、住僧が応対したのですけど、「さて住僧は心ある人とも見えねば、いふことはうけがたきかたもあれど、いとも/\まめにこゝろざしあつき人と見えて」と、ちょっと怪しい説明を交えつつ、いろいろと親切に案内してもらっているのですね。
で、後水尾・霊元ゆかりの什宝もたくさん見せてもらって、「かゝるまめなる住僧ならずば、かくやんごとなきしなをこゝろやすく見すべきや。かゝる住僧のこゝろざしにあへること幸とも幸なり」といいます。
そして、ぼくが行った際は、受付のマダムだけで、住僧(どころか誰にも)お目にかかりませんでしたが、のんびりと庭を眺めていると、なんと隠しスピーカーから、しわがれ声の坊さんの解説が流れてきました。
これは興ざめだな、と思っていたのですが、なんというか、じつに味のある声と話し方で、この寺は後水尾が修学院離宮(行宮)を設けるまでは、もっともお好みの行宮だったのだ、ということをたっぷりと説明するのですね。水の便さえよければ、ここが離宮になっていたはずなのに、となんだか未練がましく、くどくどと述べたりして、妙におもしろかった。
久足の時代から、かたちを変えて受け継がれているものもあるのかなぁ、なんて思ったりもします。
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