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円通寺の住僧


正伝寺

正伝寺の庭には感動しましたが、借景として比叡山をとりいれるというのは、それが可能な場所であれば、庭造りのポイントなんだな、と知りました。

ちなみに久足は正伝寺にも訪れておりまして、簡単ながら、以下のように記しています。

西(正)伝寺といふにもまうづ。こゝもいとよき寺也。

(『残楓日記』天保六年〈一八三五〉十月六日)

簡単だなぁ(名前まちがえているし)。他の紀行文にもないか、確認してみよう。

西加茂では、霊源寺に筆を割いています。

その池のほとりより山にのぼり、その山をこえてやゆけば、西加茂村也。まづ霊源寺にまうづ。この寺は一絲和尚の開基にして、本堂には後水尾法皇の御像を安置したり。一絲和尚の像もあり。本堂の額は後水尾法皇の御宸翰也。鐘楼のかねは、大仏の御ぐしをもて鋳たるかね也とぞ。 いとものしづかにて、よはなれたる寺也。こは霊元帝のむかし御幸あり所也。 さて、この寺は西加茂村のはてにて 、このおくには醍醐殿、山本殿の御別業ありとかや。 この御別業にも、昔、霊元の帝のみゆきありしことあり。

(同前)
霊源寺
霊源寺

久足の跡を追って京都を歩くと、皇室敬慕という基準が歴然としてあるな、と実感します。とくに後水尾天皇や光格天皇など、文事に熱心だった天皇への敬慕はことさらです。

さて、比叡山を借景としてとりいれた庭として、円通寺があります。『班鳩日記』(久足は「斑鳩」ではなく、いつも班鳩と書きます)を記した天保七年(一八三六)の旅で、久足は円通寺を訪れました。

下鴨神社から深泥池(みぞろがいけ)を経て、幡枝村の円通寺へ。

深泥池

廿四日。天気よくなりぬ。下加茂御社にまうづ。たふときこといはんかたなし。 川合御社にもまうでて社家町といふをすぎ、みぞろ池村にいたる。この間の道はうちはれたる道にて、 松が崎などもちかく見えて、いとけしきよし。みぞろか池はおほきなる池なり。このむらに名だかき地蔵尊もおはします。さてみぞろが池といふ字は、御菩薩池とかけり。こは経文にぞろ/\とよむこえのあればならんか。この村よりひのき峠といふたかゝらぬ峠をこえ、幡枝村にいたる。下加茂よりみぞろが池村まで一里あまり。そのむらより八町ばかりにて幡枝村なり。この幡枝村に円通寺といふ寺あるにまうづ。

(『班鳩日記』天保七年二月二十四日)

現在の円通寺は、観光客でごった返す京都にあって、じつに静かなものでした。赴いたときは、ぼく以外誰もおらず、また前にも後にも人が来る気配すらありません。というわけで、比叡山の借景の庭を、のんびり独り占めです。

円通寺

この寺は円光院禅尼文英公と申が御開基にて、すなはち後水尾帝、霊元帝のみゆきあり旧跡也。これによりて今もこの寺のことを御幸御殿といへり。住僧にいひいれて庭を見るに、庭は木立一本もなく、たゞ石ばかりにして、ひえの山をたゞむかひにみたるは盆石のかたちにせるなりとかや。よにめづらしきつくりざま也。

(同前)

久足が行ったときも、「霊元帝のこゝにみゆきありしさまは、宸記にくはしくしるし給へることなどおもいで奉られて、いとむかしゆかしきあたりなり。さるを都人にもしる人すくなきにや、山みち苔なめらかにして、人跡まれなるさまいちぢるく、いらかものさびしくふりにたり」といいますから、そのころから、この閑寂はずっと変わらないのでしょうか。

おもしろいのは、久足が訪れた際、住僧が応対したのですけど、「さて住僧は心ある人とも見えねば、いふことはうけがたきかたもあれど、いとも/\まめにこゝろざしあつき人と見えて」と、ちょっと怪しい説明を交えつつ、いろいろと親切に案内してもらっているのですね。

で、後水尾・霊元ゆかりの什宝もたくさん見せてもらって、「かゝるまめなる住僧ならずば、かくやんごとなきしなをこゝろやすく見すべきや。かゝる住僧のこゝろざしにあへること幸とも幸なり」といいます。

そして、ぼくが行った際は、受付のマダムだけで、住僧(どころか誰にも)お目にかかりませんでしたが、のんびりと庭を眺めていると、なんと隠しスピーカーから、しわがれ声の坊さんの解説が流れてきました。

これは興ざめだな、と思っていたのですが、なんというか、じつに味のある声と話し方で、この寺は後水尾が修学院離宮(行宮)を設けるまでは、もっともお好みの行宮だったのだ、ということをたっぷりと説明するのですね。水の便さえよければ、ここが離宮になっていたはずなのに、となんだか未練がましく、くどくどと述べたりして、妙におもしろかった。

久足の時代から、かたちを変えて受け継がれているものもあるのかなぁ、なんて思ったりもします。

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