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デスクワークとフィールドワーク
せっかくの滞在研修なので、この半年のあいだは、読む暇があったら歩こう、と普通の文系研究者だったら音をあげるような、スパルタンなフィールドワークをしております。
なるべくバスや電車も使わずに歩くことにしてますから、必然的に一日に歩く距離は、かなりのものに。もっとも、過去にフルマラソンを走った経験がありますから、42.195キロぐらいだったら、走らないで歩けるんだからどうってことないか、とちょっと距
三宮から明石へ、その2
敦盛塚を過ぎ、蕎麦を食べて、久足は垂水で一泊します。
現在の敦盛塚から垂水までは、線路脇に大型トラックがビュンビュン通る海沿いの幹線道路があり、歩道は確保されているものの、歩いていると気が休まりません。途中、海釣り公園を経て、垂水に着きました。
久足は、須磨で月を見たかったようですが、須磨には人を宿すところがなく、あっても海から遠いとかねて聞いていたので、垂水に宿ることにしたようです。
夕食
三宮から明石へ、その1
先日、大坂堂島米市場跡をはじめ、その近辺をバリバリ第一線の経済史家に案内していただくという僥倖を得て、生涯の財産となりました。
そのきっかけとなった、久足の記述は、以下のとおり。拙著『大才子 小津久足』(中公選書)の第五章にもとりあげております。
この「伝言ゲーム」がおこなわれた場所は、おそらくこのルート、とその行為の意味を含めて同定して案内してくださり、大興奮でした。
ちなみに、大坂堂島米
京都、大原、三千院抜き、その2
阿弥陀寺からまた街道を引き返して、久足は勝林寺に向かいます。
ここは再訪で、『月波日記』でも「こゝも山かたつきたる所にて、いとものしづかなるがうへ、しかもよき寺なり」と気に入っています。基本的に閑寂な趣を好みますね。
さて、その次に赴いたところが、ちょっとややこしい。
この融通寺というのが何を指すのか、ちょっと判断がむずかしいのです。いまその名前の寺はなく、隣にあるのは実行院と宝泉院なのです
京都、大原、三千院抜き、その1
小津久足は二度、大原を訪れています。一度目は、文政十二年の『月波日記』の旅で、秋の十月四日に訪問。二度目は、天保十三年の『青葉日記』の旅で、こちらは春の四月二十六日です。
大原といえば、「きょうと~おおはら~さんぜんいん」というメロディーが勝手に脳内に再生されてしまいますが(これもどの世代までだろう)、江戸時代、三千院は「梶井門跡」という門跡寺院で、「大原の政所(まんどころ)」と称されていました
久足も見た修学院離宮
詩仙堂界隈を見て歩き、せめて場所だけでも確認しようと思って修学院離宮に行くと、なんと当日申し込みでも見ることでき、しかもいままさに観覧ツアーがはじまろうというところ。もちろん、これ幸いと参加しました。
いやはや、圧巻です。京都にはすばらしい庭があまたありますが、後水尾天皇のお好みは格別ですね。
まさに別天地です。
下・中・上をつなぐ道もすばらしく、棚田を縫って歩きながら借景の叡山をのぞむのも
京都サバティカルことはじめ
4月から半年間、京都にサバティカルで滞在します。
なぜ京都か。
それは、小津久足にとって京都とはなんだったのか、を探究するためです。久足は、じつに(全46作中)21作品もの紀行文で京都を訪れているのですね。
どうしてこれほど久足は京都を愛したのか。それを知るためには、紀行文をはじめ、久足著作の精読をすることはもちろん有効ですが、地理のことは現地に足を運ばなければわからない、と机上の学問を批判
青山英正編『石水博物館所蔵 岡田屋嘉七・城戸市右衛門他書肆書簡集』(和泉書院)
青山英正さんが編纂した『石水博物館所蔵 岡田屋嘉七・城戸市右衛門他書肆書簡集』(和泉書院)が出ました。
江戸時代の本屋さんが、上得意で蔵書家の顧客である川喜田遠里と石水へ向けて出した手紙なんですから、これが面白くないはずがない。
しかも数が圧倒的。江戸の岡田屋嘉七(あの小津桂窓(久足)が「日本一」「海内一」と評した本屋)からの手紙が65点、京都の城戸市右衛門からが180点! 大坂の藤屋善七から