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耳で聴いて学習|第18章「無心(ノー・マインド)」(前編)|【かつてブッダが沈黙のもとに伝達したのは「無心(ノー・マインド)」でした】

『I<わたし>真実と主観性 デビッドRホーキンズ著』P375~P382

はじめに

わたしたちには、肉体のほかに、エーテル体という純粋にエネルギーだけで構成された体があります。エーテル体が、霊(スピリット)をつくっていて、主観的体験の中心になっています。また、脳に情報を送り、神経回路を刺激しています。体外離脱とは、このエーテル体が肉体から分離する状態を表しています。この状態においても、わたしたちは自由に動いたり、見たり、聞いたり、考えたりすることができるのですが、その間、肉体は完全に休止していて動くことができません。

人間の場合、エーテル体は感情(アストラル)体のほかに、高次のアストラル体(知恵、抽象思考)と低次のアストラル体(具体的な思考)をも含みます。(訳注:ここで言及する「体」とは、通常の形としての体ではなく、エネルギーフィールドを指す)。また、これらのメンタル体(思いの体)の上には霊(スピリチュアル)体があり、これらは古くから多くの名称で呼ばれています(コーザル、ブッダ、キリスト、アトミックなど)。高次の霊体の様相は、意識の進化と共に変化します。そして、意識は悠久の時をかけて、その時々の様相を地上に顕現させています。

初期の原人は、低次のメンタル体を発達させました。彼らは、思考を形成したり、言語を編み出したりと具体的に学習していきました。ホモ・サピエンスの時代では、高次のメンタル体が発達するにしたがって、微妙な意味や種類、分類を持った抽象概念が生まれました。しかし、メンタル体の発達の度合いは、知的障害者から天才までと、総人口の中でも千差万別です。

人間の霊的なエネルギーシステムの発達の度合いはバラエティ豊かで、それぞれの遺伝子的/カルマ的傾向を反映しています。多くの人々の霊的な感受性は未発達で休止状態にあり、ほとんど機能していません。けれども、霊的なことに興味を抱いたり、霊的な探究者や献身者が周りにいることで、目が開かれていくこともあります。したがって、歴史上の偉大な師たちは、「霊的な仲間を求め」、非統合的な人物を避けるよう、求道者に助言しました。

霊的な情報はメンタル体に記録されます。その情報は、知識としては役に立つのですが、進化した霊的な教師の臨在に触れて、高次の霊的なエネルギーフィールドが活性化するまでは、真に体得することはできません。高次のエネルギーフィールドは、非言語的な静寂のうちに伝達されます(それは古来、”恩寵”と表されてきました)。この出来事はカルマの中に記録されますが、高次の霊体が活性化されることによって光が放たれ、内側の知っている状態の主観的体験によって、はじめて真に理解することができるのです。

かつてブッダが沈黙のもとに伝達したのは「無心(ノー・マインド)」でした。(仏教書では、この「無心」を「Mind」と表しているのが矛盾のようですが)。前著、「パワーか、フォースか」の中でも、この取り込み現象について取り上げています。臨床的にも、アルコホリック・アノニマス(AAグループ)に代表される、十二ステップ自助グループの中に同じ現象を見ることができます。会員は、「とにかく会合に出席し続けること、そうすれば自然にわかるように(やめられるように)なります」という助言を受けます。グループのオーラ(540)にさらされることが、奇跡的な回復につながるのです。重度の中毒を克服するためには、非常にパワフルなエネルギーフィールドを必要とします。エネルギーフィールドの保護の中にいれば、しらふの状態が続きますが、そこから離れれば、当人の意識レベルが540を超えないかぎりは、すぐにぶり返してしまいます。

意識の成長と霊的な目覚めへの扉を開くのは謙虚さです。「統合」のレベルのすぐ下の段階が「プライド」であることは前述の通りです。(伝統的に「自我(エゴ)」が意味するものです)。プライドという障害は、明け渡すことによって取り除くことができます。

「自己」の探究

思考を含む出来事は、意図とそのときに優勢な条件の結果として出現します。精神活動も例外ではなく、一連の思考を引き起こすような因果のプロセスなどありません。わたしたちは、時間的概念を含んだ二元的な認識を日常的な体験に重ね合わせ、思考のプロセスにもこれを当てはめます。ですから、心(マインド)は下記のように、一連の思考が進行するものと想定しています。

犬が→追いかけて→猫が→木に→登る

⇒ 時間

しかし、実際に起こっていることを表示すると、

犬が追いかけて猫が木に登る
↑   ↑   ↑  ↑  ↑

⇔ 時間

思考は、非言語的な沈黙の”空間”から起こります。その空間は、思考という形を取る直前ー”ナノ秒(十億分の一秒)”前ーに注目することで察知できます。思考というコンテント(内容/中身)そのものではなく、思考が浮かび上がるエネルギーフィールドに焦点を合わせることで、感知することができるでしょう。このエクササイズを黙想や瞑想時に行う場合は、コンテント(内容/中身)ではなく、不変のコンテクスト(文脈/状況)に注目するようにしましょう。この変わらないコンテクスト(文脈/状況)こそが、観察者/目撃者と呼ばれる意識のフィールドであり、それがなければわたしたちは思考を知ることも登録することもできません。このフィールドは自律的で、何の意図の介在もない、意識の特性です。

ブッダは、仏心(”無心”の意)の非言語的な虚(”空”)は、”思考の間”に注目することでとらえられると考えました。思考の間の溝(一万分の一秒と推定されます)を識別するのは、思考を生み出す静寂の母体にア・プリオリである真理を認識するより、ずっと困難です。おそらくブッダは同じ現象を、別の表現で述べたのでしょう(キネシオロジーテストで、これは事実であることが確認されました)。

もっと容易なのは、”おしゃべりを続ける心(マインド)”と同時にある、より広範囲で拡散的で、自動的に機能している静寂なる気づきに注目することです。コンテント(内容/中身)からコンテクスト(文脈/状況)へと焦点を移す瞑想や黙想を行うことで、自らを移ろいやすい、意志的な(ゆえに個人的な)存在とするかわりに、気づきの不変の特性として認識することができます。そこから、自らは特定のコンテント(内容/中身)ではなく、フィールドであるという発見に導かれます。このような飛躍は、いわゆる悟りのレベルであり、突如やってきます。

意識的な気づきのあるフィールドは、時間的に追跡することができません。それは、静かで、自律的で、努力を要さず、平和で、すべてを包含していて、一切のプログラミングを持ちません。それは、自由で限りなく、自発的で、穏やかで、生まれることも、死ぬこともありません。このフィールドは、シンプルで、くつろいだ、リラックスした状態で発見することができます。それは、”試みる”のではなく、”許す”ことで実現します。何かを獲得するのではなく、明け渡すことです。欲したり、執着したり、操作したりすることを放棄したとき、おのずとフィールドが姿を現します。

伝統的に、自我(エゴ)のプログラムを捨て去るのは非常に辛く困難で、達成するためには何度も生まれ変わらなければならないと言われています。逆に、きわめて深いレベルで神にすべてを明け渡すという意志と謙虚さを持てば、一瞬のうちに実現します。つまり、覚醒への道は、ゆっくりとしたプロセスを経るものと、一瞬のうちに達成されるものがあるのです。

意識そのものと自らが同一化し、二元的な知覚の支配が薄れてくると、啓示への最後の戸口はもう目前に迫っています。

【Q:心(マインド)を超えると何が待っているのでしょうか?】

A:主観的な気づき、それだけです。それは、思考や感情、イメージなどのいかなるコンテント(内容/中身)も持たず、どこまでも静寂で安らかで揺るぎなく、「存在するすべて」です。

【Q:自我(エゴ)が取り除かれると、真理がおのずと姿を現すと言いますが、どのようにそれを達成できるのでしょうか?】

A:いくつかのシンプルなことをすればよいのです。まず、真実のあなたは心(マインド)ではなく、心が信じたり感じたりすることでもないという事実を受け入れることです。確かに心は素晴らしい機能だが、本当のわたしではないと見ることで、そこから解放されるのです。心を”わたし”と言う代わりに、”それ”と言うようにしてください。本当の”あなた”は、心に先んじています。真実の「自己」は、コンテクスト(文脈/状況)なのです。

パーソナルコンピュータのように、記憶はたくさんの情報を蓄積しているために、うぬぼれて自らを過大評価しています。けれども実際は、大量の概念のプログラムを保存しているだけで、そこに「真実」はありません。言い換えれば、それは幻想の貯蔵庫にすぎないのです。そこに価値を置くのをやめてください。そこに関心やエネルギーを注いではなりません。

【Q:それでは、人は個人的なアイデンティティを奪われたまま、取り残されてしまうのではないですか?】 

A:はい、「本当のわたしは、いったい誰、もしくは何なのだろう?」という問いとともに取り残されます。「汝を知れ」という格言は、誤解を招きます。というのも、ほとんどの人は、もっとよく自我(エゴ)のコンテント(内容/中身)の詳細を知れという意味に受け取ってしまうからです。

【Q:どうして自我(エゴ)はこんなにも克服するのが困難なのでしょうか?】

A:人は自我(エゴ)の中毒となり、そのコンテント(内容/中身)に気を取られてしまうからです。自我(エゴ)は、人の関心をすべて惹き付けるので、わたしたちは心(マインド)と感情の虜になってしまいます。心とそのコンテント(内容/中身)を本当の”わたし”だと信じてしまえば、そこに焦点を置くのは当然です。しかし、それは無知さゆえの誤りです。心は、ハラハラドキドキする好奇心でいっぱいの、一大アミューズメントパークです。また、感情と社会的アイデンティティのドラマを繰り広げる不条理劇場です。それは、個人としてキャラクター化したり、脚色したり、実演したりみせる”見世物”なのです。

【Q:ほとんどの人にとって、”自我(エゴ)を取り除く”ことは、ネガティブ性やプライドを取り除くことを意味しているようですが。】

A:ほとんどの場合はそうです。霊的な探究を始めた当初は、人は自らのネガティブな性質や反応を見つけては困惑します。けれども、単に人間性の中の動物的反応の名残であると見て、気にしなければよいのです。猿の王国で繰り広げられる縄張り争いは、領土をめぐって争う交戦国のそれと変わりありません。けれども、争いが続けば負けることを知って撤退する分、猿の方が賢いと言えるでしょう。象の群れは190に、パンダは185、キリンは180、猿の集団は125に測定されますが、近年の中東は75です(猿の方が賢いということです)。

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