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【罪悪感】怖れの多くは罪悪感に根ざしています。

『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著 P253~258

おそらく罪悪感が、霊的な探究の試みの中で最も恐れられている障害であり、これが原因で霊的な探究をためらう人が多く出てくるのではないでしょうか。多くの人が、そこに何を発見するのか分からないので、自分自身の内側を見つめるのが怖いと告白しています。罪悪感は、最後の審判に対する怖れが源となっています。それは、罪、地獄、神の怒りなどの恐ろしいイメージを呼び起こします。人間であることの、怖れを伴う陰の側面は、罪/罪悪感/価値判断/糾弾/罰/死/地獄に集約されています。それは人生に垂れ込める陰うつさであり、地獄に続く落とし戸となります。とりわけ死は、いつ何時にも、その落とし戸が開くきっかけなるものとして忌み嫌われています。最後の瞬間に、人生が走馬灯のように目の前を通り過ぎていくということをよく耳にします。「過去のクリスマスの精霊」(訳注:英国作家チャールズ・ディケンズの代表作『クリスマス・キャロル』(一八四三年)の中に登場する精霊の一人)はその幻影のような指を差して責任を追及します。「おお、精霊よ」。その人は言います。「あなたに慈悲はないのですか?わたしはもう充分に目撃しました。鎖がガチャガチャとなる音も聞きました。わたしの運命はいったいどうなるのでしょう?」

怖れの多くは罪悪感に根ざしています。というのも、無意識は未知のものに、自らが咎めたもののイメージを投影するからです。過去に自らに下した審判は、すべて恐ろしい神に投影され、その神の怒れる復讐はあまりに絶対的で、想像するのもおぞましいほどです。しかし、その根底にあるのは死に対する怖れであり、死は神の下す究極的な正義の審判と見なされます。けれども、死でさえ充分ではなく、次に、怒れる神は魂を永遠の地獄の業火に投げ込むのです。

このようなおぞましいシナリオのせいで、おののく人々は否認という手段を講じ、あらゆる霊的な真理をあざけります。彼らは神が存在しないふりをし、魂も、死後の世界もすべて無きものとすることによって、願わくば甘い忘却の彼方に、恐ろしいシナリオを葬り去ろうとしているのです。「死んだら、それで終わり」とすることで、霊的な責任から逃れられると夢見ているのです。そして固く指を十字に結び、”すべての想像の産物”を意識から締め出します。友人たちもこれを尊重して、彼らの幸運を祈ります。

どんな人でも(精神障害者は除く)、さまざまな形を取った罪悪感に馴染みがあります。恥、後悔、自責、自己非難、低い自尊心、自己嫌悪、良心の呵責(かしゃく)による内面の微(かす)かなうずきなど、すべてそうです。信仰のある人ならば、罪悪感を軽減するための伝統的な方法を知っているでしょう。たとえば、告解や懺悔、赦罪、祈り、善行による償いなどがそうです。

罪悪感は三つの主要な立ち位置に基づいています。罪悪感の全体に取り組む前に、ぜひとも知っておきたい事柄です。

1.どんな自我(エゴ)もそうだが、罪悪感も対極という知覚の二元性を生み出す立ち位置に基づいている。
2.わたしたちは仮説を現実だと信じている。
3.行動の行為者も実在していると信じている

典型的な罪悪感の文言は次のようなものです。「わたしは(エラーナンバー3)、ああすべきではなかった(エラーナンバー2)、ゆえに、わたしは悪い人間である(エラーナンバー1)」。このような仮説は現実的に見えますが、わたしたちは時間というコンテクスト(文脈/状況)の中で、その時の弱さや強さに応じてできるかぎり妥当な行動をとっています。

自己を”わたし”とか、”自分”とする定義は固定的なものではなく、変動するものです。ですから、行動のコンテクスト(文脈/状況)も等しく変動的な作用を持っています。もし自己が「わたしは絶望的だ」と思えば、「わたしは安全だ」と思っているときとは、まったく異なった行動をするでしょう。理想化された自己は、実際の生を生きている自己とは違っています。自我(エゴ)/自己は瞬間ごとに様変わりします。ある瞬間、温和かと思えば次の瞬間は怒り、また次は利己的で、その次の瞬間には寛大になるでしょう。行動を伴う自己が幻想であるのと同じように、たった今の自己さえも幻想です。

決断は、潜在的な要因に多大なる影響を受けています。ですから行動は、意識的、無意識的両方のプログラムの複雑な相互作用に加え、その時々に優勢な意識フィールドの目に見えない影響をも受けています。

上記のような要因は、「状況的倫理」というものと密接に連動しています。状況的倫理は、単に白か黒かという四角四面な道徳観や価値判断よりもさらに進んだ認識方法であり、コンテント(内容/中身)だけではなくコンテクスト(文脈/状況)も視野に入れています。裁判でも、事件を判定するときに情状酌量の要素(コンテクスト(文脈/状況))はないかを考慮します。そして、情状酌量の要素が法的責任を上回る場合も出てくるのです。いかなる活動も、宇宙というコンテクスト(文脈/状況)全体の中での成長過程にある人間の意識を反映しています。それゆえに、わたしたちは「今の時点では、それが一番よい考えですね」という言い方をします。

自我(エゴ)とはプログラムの集まりであり、そこでは理性が複雑で多重になったアルゴリズムを通して作用しています。そのアルゴリズムの中では、過去の体験や教義、社会的勢力の影響を色濃く受けた特定の”決定木”に沿って思考が生じています。つまり、それは個人的に創造されたものではありません。前脳の知性は、遺伝的に欠陥を持つこともあれば、脳のより原始的で、深層部から湧き起こる強烈な感情に押し流されてしまうこともあります。行動はまた、当人の生活相や目に見えないカルマ的なフォース(ネガティブ)の影響も受けています。

好ましくない行動を引き起こす動機について考察してみるのも役に立ちます。そこにはたいてい怖れが潜んでいます。喪失の怖れ、支配に対する怖れ、欠陥や失敗、あるいは地位を失うことへの怖れなど、すべてそうです。また、衝動的な理由や、真偽を識別することのできないといった、行動するうえでの情報不足もあるでしょう。これらはすべて、いわゆる”人間の弱さ”に分類されるものです。仮説である道徳的観点から言えば、その”弱さ”に屈することはあるまじき行為です。しかし、意識が進化しても聖人になったり、健全な脳や優良な遺伝子が得られたりしない場合は、誰に責任があるのでしょうか?古い動物の脳で、生きるために貪る嗅脳(きゅうのう)でしょうか。それとも両親や社会、あるいは、パブロフの条件付けを行うメディアでしょうか。良識を持たずに生まれ、何をしても許されると思うような人々のDNAや遺伝子プールに責任があるのでしょうか。テストテロン(訳注:男性ホルモンの一種。第二次性徴の発現を促す。)は、数々の過ちを人生にもたらすので、真っ先に責められるべきでしょう。(去勢した男性は、普通の男性よりも九年以上長生きするという臨床実験もあります)。道徳の荒廃を招き、悪を増長させるメディアも然りです。

相互作用する要因の万華鏡の中で、一体わたしたちはどこに責任を追及すればいいのでしょうか?誰が責任を負って、自らの過ちを悔いて、嘆き悲しめばいいのでしょうか?行動ひとつを取ってみても、それを分解していくと、そこに決定要因は何ひとつ見いだせないことがわかりますし、表向きはその行動をとった”本人”さえも存在していないことがわかります。しかし、心(マインド)は次のように言うでしょう。これはすべて罪悪感を押し流すための合理化ではないのか?わたしたちはどこかで苦しんだり、悔んだりすることによって、よい人間になることができると信じているのです。

些細な行動ひとつに含まれる複雑な要因を見ても、唯一全知全能の神のみが裁くことができることがわかります。「汝、裁くなかれ」という霊的な格言もここから来ています。虚栄心こそが自我(エゴ)に、他者や自分を裁くことができると思わせているのです。

高い次元の真理を伝える文献の中に、神が罪悪感の影響を受けたり、それによって神の苦痛が和らぐと記しているものはひとつもありません。歴史上の聖人や賢者は、罪悪感の代わりに「罪」という言葉を使って、それが無知から生じるものだと述べています。彼らは、ある特定の行動は魂を不快な領域に落とし込む一方で、美徳の実践は死後、高次元の領域に導くと教えています。彼らは単に事実を述べているだけで、そこに脅かしたり、怖がらせたり意図はありません。

過去の過ちは慈悲と責任を伴って見なければなりません。それが唯一過ちを正す方法です。省みるときは、必ずその行動を起こした意図を確かめると同時に、罪悪感と後悔の違いを認識しなければなりません。後悔はたいてい、結果が望ましくなかった場合に起こるものです。本当の罪悪感は意図に対して生じますが、後悔は好ましくない結果に対して起こります。

心(マインド)が往々にして非合理的で、頼りにならず、行動を正当化するための十分な要因を持っていないことは一目瞭然です。状況をきちんと調べる前に、一足飛びに結論を出します。また、環境的なプレッシャーを受けやすく、”小さな狂気”の物語にさらされると、すぐに非合理的になります。これはよく見られる現象です。わたしたちはよく「あのときはどうかしていた」というセリフを耳にします。心はその都度、”正気でない”選択や条件を退けているはずですが、実際は当てになりません。ビジネスで、多額の小切手に二人以上のサインを要するのも、これがひとつの理由です。

経験的に、罪悪感はそれを支える自我(エゴ)が消滅するまでは、”現実”として立ち現れます。霊的な求道者は、新たに得た霊的な視点から、過去の行いを批判的に振り返る傾向があります。自己分析は常に、慈悲をもって行わなければなりません。過去の過ちは、今と異なるコンテクスト(文脈/状況)の中で生じたのです。罪悪感の最もよい解決策は、神と同胞に対して再び貢献することであり、他者と自らを赦すことです。

苦は決して、神に対する贈り物にはなりません。雨雲が空に対する贈り物ではないのと同じことです。罪悪感は、身勝手さにもなりえます。そのために消耗するエネルギーを、同胞に貢献するために使った方がよいのです。自分自身と他者を赦さなければなりません。さもないと、自我(エゴ)は自己非難によってさらに強化されてしまいます。自己嫌悪は神に明け渡し、自己中心的で自己陶酔的な身勝手さとして放棄しなければなりません。それは過去に執着していることにほかならず、そこに真理が見出されることはないのです。

【罪悪感】いかがだったでしょうか。動物脳(本能)=自我(エゴ)が起こした、思い出したくないおっちょこちょいは、本当の<わたし>がやったわけではないので、慈悲の心で赦しましょう。

道徳の荒廃を招き、悪を増長させるメディアも然りです。

今、ロシ〇とウ〇ライナ、5歳から11歳のワ〇チン接種、そもそも2年前からのパン〇ミック、歴史を遡れば、9.11テ〇、メディアが怖れを増長させていることをよく観察してください。

TVばかり見ていると、動物脳(本能)=自我(エゴ)は、その幻想を現実を思い込んでしまいます。

心の捉え方によって物事の見え方は360度変わってきます。捉え方の情報を知らないと、捉え方が分からないのは当然のことで、捉え方の情報のひとつとして、このような情報があることに興味をもって知る人が増えることを願っています。愛が基盤の気づいている心の立ち位置を意識して、動物脳(本能)=自我(エゴ)ど同一化しないように変化・進化していきましょう。

動物脳(本能)=自我(エゴ)は、ネガティブに反応します。怖れが基盤なので、無意識に反応しますが、それは本当の「自己」ではありません。本当の「自己」は、愛が基盤の気づいている心の立ち位置です。恐れ、悲しみ、怒りなどの、ネガティブな感情を人びとから引き出すのが闇の勢力の目的です。

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